兄の苦悩~ナタリー目線~
ディアンが文官を休職して二ヶ月弱経つ。最初の一ヶ月、どうか戻ってきて欲しいと王都から遠く離れた公爵領まで訪ねてくるディアンの部下に胸が痛んだが、二ヶ月目に突入しても連日のように届く嘆願書の数々には、さすがのナタリーもうんざりしていた。
自分がディアンに届けると言って、従者から手紙等を奪い取ったナタリーは書斎の前に立つと頑丈な扉をノックした。『どうぞ。』という優しい声が聞こえたので扉を開けると、ナタリーの愛する夫が眉間に皺を寄せながら何か書類を読んでいた。
「ディアン。」とナタリーが静かに声をかけると、書類から顔を上げたディアンがナタリーの持っているものに気づき苦笑した。
「よく飽きずに毎日送ってくるものだな。」
「そうね。あなたはそれほど優秀だから。初等部の頃から、あなたの神童ぶりは有名だったもの。」とナタリーが言うと、
「君のお転婆ぶりも、初等部の頃から有名だったな。」とディアンは笑いながら言った。
「昔の話よ!」とナタリーは拗ねながら言うと、ディアンの背後に周り肩を揉み始めた。
「すごく凝ってるわ。こっちに帰ってきても相変わらず書類ばかりね。」
「せっかく領地経営だけに集中できる機会を得たからな。色々見直そうと思ったら、キリがなくてね。レオンは何してる?」
「今日はエミリアが体調いいみたいだから、庭園で一緒に遊んでくれてるの。」
「そうか。レオンは両親よりも叔母が大好きみたいだもんな。」そう言うと、ディアンは小さくため息を吐いた。
「なぁナタリー。」
「なぁに?」
「エミリアを帰郷させて正しかったと思うか?血の滲むような努力をしてコリン王国で官吏になったというのに・・・。」
「私は、正しかったと思うわ。あのまま働かせることは、絶対にエミリアにとって良くなかったもの。」
「・・・。」
何も言わずに深くため息を吐いたディアンがどんな表情をしているのか想像がついて、何も言わずにナタリーは背後からディアンを抱きしめた。
「これからどうしたらいいんだろうか?もうすぐエミリアの二十歳の誕生日なのに・・・。父母が生きていれば・・・。いや、せめて兄さんが生きていれば・・・。俺じゃエミリアに何もしてあげられない。甘えさせることさえも出来ない・・・。」
「一緒に考えましょう?私と一緒に。まずはエミリアの体の回復が先決だわ。それから、今まで忙しくて出来なかった会話をたくさんするの。あなた達兄妹に足りなかったのは、お互いの考えを話す時間よ。2人とも互いに思いやってばかりで、頼ることを知らないんだもの。そういう不器用なところはそっくりよね。さすが兄妹だわ。」
「・・・。」
「さぁ。庭園に行きましょう。今日はエミリアも体調がいいから、四人で少し散歩でもしましょう?外も涼しくなってきたし、夕食前に少し歩きましょうよ。仕事しかしてないあなたの健康にもいいわ。」
そう言うと、ナタリーはディアンを無理矢理椅子から立たせた。それから左腕に腕を絡めると、扉に向かってディアンを引っ張りながらに歩き出した。
「君のそういうところ好きだよ。」
さらりと笑いながら言うディアンに、ナタリーは顔が赤くなっていくのが自分でも分かった。結婚して二年以上経つというのに、相変わらずディアンに毎日ときめくのだ。
彼がずっと誰を好きだったのかも、ナタリーは知っている。同学年で一番綺麗だった人のことを彼は初等部の頃からずっと好きだったのを、そして彼女も彼だけをずっと好きだったのも知っていた。
少し我儘で不器用だが根が優しい彼女を、彼はいつも柔らかく笑って見つめていた。女生徒の中で唯一彼の名前を呼び捨てにし、美しく笑う彼女が彼から告白されるのをずっと待っていたのも分かっていた。
だから、ナタリーはどんなにうんざりした顔を向けられても彼に愛を伝え続けた。待っている彼女に勝てるのは、唯一行動力だけだったから。両親と兄を立て続けに亡くし、同年代より遥かに先を歩き続ける彼の視界に唯一入るのは、その瞬間だけだったから。
かなり強引な手段で、ディアンに結婚を迫ったことを後悔してない。『結婚してくれなきゃ死んでやる。』と剣を首に当てながら叫んだナタリーだが、たとえ断らても死ぬつもりはなかった。あの時は長い片思いにお終わりを告げたくて、あの賭けに出ただけだった。たとえ断らても、うんざりとした表情以外に初めて自分に向けてくれた慌てた表情を見ただけで満足するつもりだった。
『僕の負けだ。結婚しよう。』そう苦笑しながら言われた時、ナタリーはポカーンとした。ディアンはナタリーに近寄ってくると、ナタリーが持っている短剣を床に落としゆっくり抱きしめた。『え?え?』と驚くナタリーに、『君って本当に馬鹿だね。』とディアンは静かに笑った。
何も言わないナタリーを不思議に思ったのか、ディアンは体を離すとナタリーの顔を覗き込んだ。『結婚したくないの?』そう尋ねるディアンに、ナタリーは必死に首をぶんぶんと振ることしか出来なかった。『結婚してくれなきゃ死んでやるって。はは。はは・・・。』とディアンは笑い出すと、力が抜けたように床に座り込んだ。呆れて笑っているのかと思ってナタリーも座り込むと、ディアンは笑いながら泣いていた。
『俺も狂ってるのかもな。どうしてだろう。グッときた。』そう言うとディアンは静かに泣き続けた。その瞬間ナタリーは、初めてディアンの深い孤独を垣間見たのだった。『私があなたを幸せにしてあげる。』ナタリーがそう言い抱きしめると、『頼もしいな。』と言い笑ったのだった。
だから後悔してない。複雑なしがらみを理由に愛を伝えずに、待ってばかりだった彼女ではディアンを幸せに出来なかったから。
「エミリア。」
庭園に着いたディアンが、優しく妹の名前を呼ぶ。
「お兄様。お義姉様。」振り返って笑うエミリアの顔色は驚くほど白い。
「気分は悪くないか?」
座っているエミリアに近づき話しかけるディアンを見ながら、ナタリーはただ祈る。
―どうか。エミリアを連れて行かないでください。―




