埋められない穴~エミリア16歳~
正式な婚約後、すぐにエミリアの王妃教育が始まった。飲み込みが早く頭の良いエミリアでも大変なものだった。マナーも公爵令嬢としては完璧であっても、王妃となるともっと上を求められ叱責される毎日だった。3カ国語は話せるエミリアだったが、最低でも5ヶ国語と言われていた。
アルフォンスは婚約者になってから、エミリアを毎朝家まで迎えに来るようになった。エミリアは断ったが、結局押し切られてしまっていた。二人の婚約は瞬く間に広がり、二人一緒の姿をひと目見ようと校門には毎朝多くの人が集まっていた。
婚約者になって以来、エミリアとアルフォンスの心は遠ざかっていく一方だった。エミリアは申し訳無さからあまり笑わなくなったし、アルフォンスは婚約者となったエミリアにどう接したらいいのか分からないようだった。
いつもどおりエミリアに反感を持つ一部の令嬢たちに嫌味を言われ、王宮ではダメ出しをされぐったりとエミリアが帰ってきた夏の熱いある日の事だった。玄関でしっぽを振りながら待っているクロがぐったりと倒れていることに気がついたのだ。
「クロ!!!」
エミリアが慌てて駆け寄るが、ぐったりと『はぁはぁ・・・。』と息をしている。医者を慌てて呼ぶが、犬は専門外だがおそらく今夜が峠だろうとのことだった。
―朝まで元気だったわ。クロはまだたったの10歳だわ。死ぬわけ無いわ!―
慌ててディアンに使いを出したが、どうしても帰るのは明日の朝になると返事が来た。エミリアはクロの命が消えていくのを1人で見守っていた。クロはもう立つ力もないようでぐったりしていた。
朝4時を周った頃、ディアンが帰ってきた。その時ぐったりしていたクロが突然立ち上がったのだ。
「クロ!」ディアンが叫ぶと、クロは駆け寄りディアンに抱きしめられる。その直後ばたりと倒れたのだ。「クロ!クロ!」と呼ぶディアンにしっぽを振りながら答えていたクロだったが最後にはしっぽがパタリと落ちた。エミリアはその瞬間をじっと見つめていた。
「エミリア・・・。クロが死んじゃった・・・。」ディアンが泣きながら言う。
「クロはお兄様を待っていたのね。お兄様が帰ってくるまで立ち上がる力もなかったのに・・・。」エミリアも泣き出す。
「エミリア・・・。散歩しようか・・・。」
そう言ってクロを抱き上げて10年間歩いたいつもの道をディアンが歩き出す。日が少し登り始めていて、泣きながら歩く兄の後ろをエミリアも泣きながら追った。いつも元気よく振っていたクロのしっぽが、くたりと垂れ下がっているのが朝日に照らされていた。
クロの遺体は庭の大きな樹の下に穴を掘り埋めた。
兄妹にとってクロの穴は大きかった。兄妹は何か悩みがあるとクロにだけ何でも打ち明けていた。クロはいつもじっと耳を傾けてくれて、話し終わるとお疲れ様と言っているみたいに手をなめてくれていた。
二人はクロがいなくなってから、毎朝の散歩もしなくなった。クロの悲しみを共有できるのは互いだけなのに、兄妹は相手に涙を見せることを嫌がった。二人の心にはポッカリと穴が開いていた。
それから二日後、エミリアはとうとう学校で倒れた。朝迎えに来たアルフォンスは、明らかにふらふらしているエミリアに休むように言ったのだが、エミリアは静かに首をふるだけだった。
エミリアを教室に送った後、1つ上の階の教室に向かおうと階段を上っている時だった。女子生徒の悲鳴が聞こえまさかと思いエミリアの教室に走って向かう。教室では、やはりエミリアが倒れていた。エミリアを保健室に運ぼうとしている男子生徒を押しのけて、抱き上げるとアルフォンスは走りだしたのだった。
保健室につくと、保険医が過労と診断した。きっとクロが亡くなってから、寝ていないのだなとアルフォンスは思った。
「エミリアが倒れたって?」シャイルが息を切らしながら保健室に入ってくる。
「過労らしいよ。」
「そうか・・・。クロが死んでから寝れてないんだな・・・。」
「そうだね・・・。」
「じゃあ俺行くわ。アルフォンスはここにいるだろう?後でこいつとお前の荷物持ってくるわ。」そう言いシャイルが出て行く。
一時間経った頃、エミリアの目が覚めた。
「あれ・・・?」不思議そうにしているエミリアにアルフォンスが、
「エムは教室で倒れたんだよ。」と優しく言う。
「あ・・・。迷惑かけてごめんなさい・・・。」
「大丈夫かい?しばらく休みなよ。もう少ししたら、家まで送っていく。」
「大丈夫よ。授業に戻るわ。」そう言い起き上がる。
「エムは過労だって。最近全く眠れていないんだろう?今日は休むといいよ。」
「殿下・・・。本当に大丈夫です。戻りますわ。」
「エム・・・。そんなにムキになってどうしたの?」
アルフォンスが優しく問うと、エミリアは泣き出した。そんなエミリアの背中をアルフォンスは優しくあやすように叩く。
「私・・・。家に帰りたくないの・・・。」
「うん。」
「クロがいないの・・・。」
「うん。」
「クロがいないと眠れないの。」
「うん。」
「お兄様とも気まずいし。」
「うん。」
「何でも言えるのはクロだけなの。」
「うん。」
「もっとクロを大切にすればよかった。最近全然構ってあげられてなくて・・・。」
「うん。」
「クロ・・・・。」
そう言いながら泣き続けるエミリアを、アルフォンスは優しく背中を叩きながらただ頷き返していた。




