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王たちの機械  作者: 谷口由紀
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素朴なメロディ

 礼拝堂の奥には、医務室がある。


 やや手狭ではあったが、これ以上大きかったら、もてあましてしまう。

 この部屋には、教会に身を寄せる孤児たちのために、医薬品がいくらか取り置いてあった。


 医務室に入る前に、入り口の傍らにある水盆で、よく手指を清める。

 先に入室していたトウカは、彼の眠るベッドの傍らに腰掛けていた。

 ユウリは彼の顔色を覗き込む。まだ肌に明るみがないが、苦痛に歪んだ様子はない。

 そこかしこに包帯が巻かれた彼の身体を見やる。もう、傷は完全に癒えているだろうか。


「あとは、目を覚ましてくれるのを待つだけね」


「……うん」


 トウカの言葉に、(かげ)りを感じる。ひとたび失われた意識を呼び戻すにはどうしたらいい?


 意識。そこには人の手は届かない。


 ベッドの側には、彼の持っていたわずかな荷物がまとめて置かれていた。

 古びた衣服、雑嚢、そして護身用のものであろう短刀。

 ユウリは短刀を手に取り、そっと鞘を外した。

 刃渡りは四十センチほどで、緩やかに反った片刃だ。丹念に鍛えられたことで生まれた緻密な紋様が、刀身に浮き出ていた。柄と鍔はごく簡素な作りではあったが、頑丈だ。


 ユウリの手元を覗き込みながら、トウカが言った。


「柄になにか刻んであるわね」


 柄は木製で、黒色の地肌は使い込まれて鈍い艶をたたえている。そこに刻印されているものは、文字だった。

 トウカはそれを読む。


「──『息子へ』」


 手彫りの、拙い工作だ。


「息子って、この子のことかしら」


 トウカが呟きながら、男の貌を見やった。

 おそらくはそうだろう、とユウリは思った。これのほかに、彼の家族にまつわる品は、見るかぎり他にない。雑嚢のなかには手がかりがあるのかもしれないが、それを暴くのは気が向かない。彼の家族について知ることがあるとすれば、それは彼が語った時だろう。


 そんなユウリの内心を知ってか知らずか、トウカは男の寝顔を見つめたまま、訊いた。


「……ユウリはこの子のこと、気になる?」


 どう「気になる」のかは、ユウリ自身にも分からなかった。


「たしかに、かれが『機械』たちと交わしていたやりとりは気になるけど……そうだな、かれの傷が癒えるまでは、気に掛けておきたいかな。……そのくらいだよ」


「……でしょうね。そのくらいに留めておくのが、いいのかもね」


 深入りするべきではない、と、トウカは言いたいのだろうか。

 その言葉に対する適切な答えを見つけられずにいると、トウカはユウリに向き直って、微笑みとともに言った。


「まあ、どれもこれも、この子が目を覚ましてから……ね。今はそういうことにしておきましょう」


「……うん」


 そう返事をしたが、ユウリは自分の言葉に歯切れの悪さを感じていた。

 そんなユウリの背中を、トウカはぽんぽんと叩いて、言った。


「ユウリ。訓練で汗をかいてきたんでしょう。今日はもう、ゆっくりしたら?」



 + + +



 礼拝所の敷地内には、修道女たちの住まいとなる離れがある。

 ユウリもこの一角に住まわせてもらっているが、日中は市街区画の外れにある、警衛隊の駐屯地に出向いている。今日のようにそこで訓練を行う日もあれば、街区の外に斥候に出る日もある。


 訓練や任務を終えたユウリがここに戻ると、トウカはいつも湯浴みの支度を済ませていてくれた。


 離れに戻ったユウリは、まっすぐに浴室に向かった。そこで、土埃と硝煙に汚れた衣服を脱ぎ落とした。

 外套の下には、刃を防ぐための鎖帷子(くさりかたびら)を着込んでいる。ごく細かい鎖によって編まれてはいるが、手に持てば、ずしりと重い。


(こんなもので、『機械』たちの力を防げるんだろうか)


 ユウリはまだ、実際に『機械』たちと争ったことはない。大きな争いは、ユウリがまだ幼子であったころに起こったという。だが、それを子細に語ろうとする大人は、少ない。そのかわり、彼らは言うのだ。「けして、戦うな」と。その言葉から身を守るには、この鎧はあまりにも貧弱だ。


 脱いだ下着を脇に置き、浴室に足を踏み入れる。濃く暖かい湯煙に裸身を晒すと、じんわりと汗が噴き出てくるのが分かる。浴室の奥には、湯船がある。入ろうと思えば、二、三人は入れるほどの大きさだ。


 ユウリは浴槽の傍らにかがみ、桶で汲み上げた湯を、ゆっくりと肩に掛けた。

 その快い熱に、思わず吐息が漏れる。心地よい。肩から胸を伝い、流れていく湯が身体を清めてくれる。


 ひとたび桶を下ろし、ユウリは己の(はだ)を見た。浅黒い色は、いまは亡き、父母から継いだものだ。そう、トウカから聞いた。


「父さん、母さん……か」


 つい、呟いてしまう。

 しかし、どうやってもふたりの相貌を思い出すことはできなかった。記憶がないのだ。ものごころがつく前での、別れ。

 両親の存在を証明するものは、ただ、ユウリ自身の身体のみだった。だからこそ、できるかぎり大事にしようと思うのだ。


 湯に浸した布で身体を拭き清めたのちに、頭から湯を浴びる。

 普段は束ねている髪を下ろせば、ちょうど肩口のあたりに届く。手に取れば、艶やかな黒。手櫛で梳いてみると、すこし砂塵が入り込んでいるようで、さり、さりと小さな抵抗を感じる。


 そのとき、背後で戸の開く音がした。


「失礼するわね」


 ユウリが振り向くと、そこにはトウカの裸身があった。


「トウカもお風呂?」


 そう訊くと、トウカは、「せっかく沸かしたんだから、ついでにね」と、なぜか楽しそうに答えた。

 トウカの真白い裸身は、豊満でありながらも均整がとれている。その姿は、子供のころに絵本で見た、豊穣の女神のようだ。そう、ユウリは思った。


 しかし、トウカの膚には、幾筋もの大きな傷痕がある。まるで獣の鉤爪で引き裂かれたような、深い傷。だが、獣はあのように、全身を嬲ったりはしない。これは、悪意を持って刻みつけられた傷のはずだ。


 トウカは、ユウリの隣に腰掛けた。


「訓練、厳しかったのね」と、トウカは、ユウリの腕を慈しむようにさすりながら、言った。


「あちこち、打ち身や擦り傷ができてるわ」


「……やっぱり、忘れられなかった。あの『機械』たちの姿が」


 答えるかわりに、ユウリは独り言のように呟く。あのときは精一杯の勇気を振り絞って向き合った筈だ。だが、こうやって離れると、いまさらのように怖れが蘇ってくる。


「そうね。刻みつけられた怖さを振り払うには、自分自身が、もっともっと強くなるしかないのだから」


 あのときに感じた動揺、恐怖。それらはもはや拭い去ることはできず、忘れることもできない。だから、ふたたび同じ光景を目の当たりにしたとしても、けして揺るがぬような力が欲しい。

 いまのユウリが抱くそんな気持ちを、かつてのトウカも感じたことがあったのだろうか。ふと思い、ユウリはトウカの相貌を見上げた。


「あら、どうしたの? あなたらしくない」


 知らず、不安げな貌をしていたのだろう。慌てて目をそらすと、トウカはユウリの頬に両手をあてがって、その瞳を覗き込みながら、にっこりと笑った。


「大丈夫。大丈夫よ、ユウリ。その気持ちのまま頑張りなさい。怪我をしたのなら、私がいつでも看病してあげるから、訓練に励みなさいな。……はい、背中をこっちに向けて」


 そう言って、トウカはユウリの身体をくるりと反転させる。まるで子供扱いだ。教会での日々の雑務によるものか、トウカはとても力が強い。


 ユウリの背後で、湯を汲む音がする。こうやって背中を流してもらうのは、この上なく幸せなことだ。もし、姉というものがいたとすれば、それはトウカであってほしいと思う。たとえ、実の家族でなくとも、トウカとこうやって暮らせることは、このうえなく嬉しいことだ。


 ──トウカ、私は、とても幸せだ。


 と、気恥ずかしい言葉を伝えるべきか否か、悩みかけた矢先に。


「わぷっ!」


 いきなり頭から浴びせかけられた湯が、ユウリの言葉をかき消してしまった。


「じゃ、今から頭洗ってあげるね。大人しくしてて」


「ちょ、ちょっと、トウカ……!」


「新しい花精を買ったから、試してあげる。……暴れると、きっと目にしみるわよ」


 そう言われて、ユウリはようやく落ち着いた。


「もう……背中を流してくれると思ってたのに」


「あとでね」


 トウカのやさしい指が、ユウリの髪にここちよい香りの花精を絡め、擦り込む。その匂いは、まるで夏の花のよう。透き通るように爽やかだ。


「警備の仕事がなければ、もうすこし伸ばしてもいいのにね。きれいな黒髪だわ」


「ありがとう」

 

 トウカの褒め言葉は、嬉しかった。


「でも、もうすこしだけ、いまの仕事を頑張りたいんだ」


「そうね。あなたが納得いった時には……覚悟しておきなさい。街の男の子たちが必ず振り向くくらいにお洒落にしてあげるから」


 そう言いながら、トウカは湯をユウリの髪に掛けた。この涼やかな香りを、ひとときだけ楽しもう、とユウリは思った。明日には、また汗と砂塵で汚してしまうのだけれど。


 髪と肌を清めてもらい、ユウリとトウカはともに浴槽に入った。

 湯の中でくつろぐトウカの姿を横目に見ながら、ユウリが考えたのは、ほど近い将来のことだ。

 いつか、背負った銃を下ろす日はくる。それは、必ずだ。

 そのときに、おのが身をどう処遇するか。


(まだ、分からない)


 しかし、今はまだやるべきことがある。

 そのために必要なものは、捧げねばならない。

 それが父母から頂いた我が身であろうとも──。

 そう心のなかで呟きながら、ユウリは自分の腕を見つめた。


(たしかに、細くて頼りない。でも、ここの外に出るかぎり、頼るべきはこの腕だけなんだ)


 そう、言い聞かせる。他ならぬ、自分に。


 ふとトウカの目が気になって、彼女の様子を窺うと、トウカはのんきに鼻歌を歌っていた。

 浴槽の縁にもたれかかり、くつろぐ彼女の胸や腕には、幾筋もの深い傷痕がいまも残る。

 ユウリは目をつむり、トウカの歌う、素朴なメロディに耳を傾けた。


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