動き出したオワリ
「どういうことか説明しようか?」
僕が入った時にはすでにナナカとよう子が部屋の中で、長机を挟んでそいつの前に座っていた。
いや、黙って座らされていた。ナナカはともかく、どんなやりとりがあってよう子までが黙って座っていたのかは謎である。
部屋に入って大よそを察した僕は、黙って椅子に座った。
「助かるよ。朝から仕様も無いことに労力を使うことほど腹の立つことは無いからな」
あと一人か、と呟いて、メガネをクイッと掌で正した。
30代だと思うが、健康的な肉体は20代にも見える。座っていても分かる長身と、服の上からでも分かる筋肉と、それをもってしてもスリムに見える巨躯が無言で僕らを威圧してくる。
間違いない。
こいつが、キャリアセンターの人間だ。
そして、メールを送った張本人だ。
それ自体、容易に予想がつくことで、言いようもないレベルでエマージェンシーだったが、それよりも喫緊な問題がそこにあった。
奴がいま、座っている椅子。
そこは昨日のポジショニングからして、消去法で言っても間違いなくあの椅子には「オレ用」と書かれている。
まだここに来ていない、そしておそらくもうすぐ来るであろう「オレ」が、決して他の人間に座らせようとしない、お気に入りの、椅子。
出来ればこのまま来ない方が、おそらく穏便に事は運ぶ。
「うぃーっす、なんでオレ、1限から呼び出された?」
「それはな、お前らクズに就職活動をさせようという、俺の意向だよ」
開口一番。
「あ?誰だお前?つか、どこ座ってんだ?あ?」
「あ?」と「あ?」に挟まれた言葉には、敵意がぎっしりと詰め込まれている。
「ん?小汚いパイプ椅子に座っているんだが、何か問題でも?ん?」
「ん?」と「ん?」に挟まれた言葉には、迎撃態勢の4文字が踊っている。
「どけよ、おっさん。就職活動がどうとか関係ねぇ、オレは『オレ用』の椅子に座られんのが許せねぇんだよ!」
「ふん、そもそもこの椅子は大学の備品だ。貴様が占有する権利はどこにもないんだよ」
「くそ高い学費で購入してんだろがよ!在学中にオレがオレ用に使って何の問題があるんだよ!」
「『お金を払っているお客さまは何をしても許される』か?笑わせる。良いか、いい機会だから一番最初に物事の本質を教えてやる。いいか?お前らがこの大学の4年間で、およそ500万もの金を払って得るモノは、たった二つ、4年という不毛な時間と、」
立ち上がり、椅子を蹴り飛ばした。
オレ用のパイプ椅子は、曲がってはいけない方向に曲がって、理解に苦しむ現代アートみたいになっている。
「『新卒』という、魔法の肩書きだけだ。この椅子どころの話じゃない。貴様たちが使っているこのサークル室が」
何かを言おうとした、何か良くないことをしようとした睦朗を視線だけで動けなくした。
「単なる偶然か、この大学で唯一、誰にも認識されていない、誰にも管理されていない、誰の管轄でもない場所を住処にしている自覚はあるのか?」
自覚も何も、何を言いたいのか分からない。
「そうか。ならば説明してやろう。本来この部室棟の各部屋は、部活動、あるいはサークル活動を行う学生に許可制で使用を許している場所である。そしてその許可の申請ができるのは、10名以上の部員を有する大学から認可された部活動の代表者か、5名以上の構成員を有する、大学から承認されたサークルの代表者、どちらかだ」
つまり。
僕たちがやっていることはサークル活動でも何でもない、オタクが大学の施設を不法占拠して趣味活動に耽っているだけということか。
「お察しの通りだ。貴様らの自称「サークル」は4人しかおらず、「サークル(笑)」でしかない」
そんなこと、いまさら言われても、困る。
「そんなものが通るか?もちろん通るわけがない!ところが、だ。この大学の教室、研究室、部室はすべからく大学のどこかの課によって管理されている。教務課、学生課、総務課、広報課、入試課、そして、就職課。それらが共同で、あるいは占有し、管理している。講義で使う場合、ゼミナールで使用する場合、学生が私用で使う場合まで含め、学内のシステムで管理され、情報を共有して使用される。部室などの一部はこのシステムを使用せず、各課の管轄に基づいて管理される。だが、おそらく引き継ぎの兼ね合いやシステムの仕様変更などで誰にも管理されない、『次元の狭間』が出来てしまったらしい」
つまり僕たちは、その僥倖の恩恵で、今までこの空間を利用し、好きな時に来て好きなことをし、好き勝手に私物を置いて、わがもの顔で占有していたというわけか。
「そう、この部屋こそがその次元の狭間だ。さぁ、ここで問題が起こる。よく聞け。正式に認可された使用であれば当然費用など掛かるわけはない。皆様方はくそ高い授業料をお支払あそばしていらっしゃるわけだからな。ところがだ、もしこれが不当占有の場合、どうなる?もちろんだが費用の請求権、占有によって得られるべきはずだった学生に対する損害賠償請求権、なにより不当行為による、在学資格のはく奪、つまり退学」
他人事のように聴いていた。FMラジオでも聞くように、自分の生きる世界とは別の世界の出来事のように。
「貴様らの置かれた立場が、ちょっとでも理解できたか?」
「つまり、先生は私たちを退学にする為に、ここに来たんですか?」
ナナカが恐る恐る声を発した。
「…この部屋の存在を突き詰めた時は歓喜したよ。あとは君たち4人だけだったからな。この学部で、『社会生活学部』なんていう何物かも分からない学部で、私の連絡を無視し、大学に連絡先も知らせず、一切のコンタクトを絶ち生活をしている学生は。何が社会生活学部だ。社会生活はおろか、人間の基礎であろう人とのつながりすら持てない奴らが、そんな学部を卒業なんてしても良いと思うのか?」
無言。命運もここまでか。
「だが安心するがいい。私が貴様らクズを退学にして、生活保護予備軍にするのは容易い。社会生活もろくに営めない真のクズを生産し社会に投棄することは容易い。だが、そんな君たちを私は決して見捨てない。俺がこの大学の、この『社会生活学部』を担当するキャリアカウンセラーとしてやって来たからには、俺はお前たちを決して見捨てない」
男は仰々しく手を広げた。
「さぁ、一緒に内定を獲ろう。
俺の名前は『糸崎 針』
貴様らクズに、社会の居場所をもたらす者だ」
さぁ、面倒くさいことになってきました。
糸崎は僕たちに1つの提案を2つの忠告を残し、
「顔が見れただけで今のところは満足だ。準備が出来たらキャリアセンターに来るがいい」
そう言って部屋を後にした。
提案、すなわち就職活動を行い俺からの内定獲得に向けた全面的なバックアップを受けろ。
忠告いち、全員が提案に従わない場合、この部屋を閉鎖し、貴様らの居場所を奪う。
忠告に、それでも従わない場合、この問題を学部会に報告し、然るべき処置を行う
というものだ。立派な脅迫である。しかし金銭を要求されたわけでもないし、強制労働や性的な嫌がらせを受けた訳ではない。この場合、僕たちの不当行為に目をつむる代わりに、大学4年生としての重要な行動、つまり就職活動を行えというものだ。
客観的に見るまでも無く、当事者の僕が、
僕たちが何より彼の正当性を認めている。
やり方はかなり異常だが、彼は正しいことをしている。それはつい昨日、自分たちの社会的不当性、つまり「就職活動をしないことをお互いに認め合う」という異常な誓いを暗に交わしているからこそ、余計に彼の正常性に目が向く。
「あーあ、こんなにしちまいやがって」
現代アートを抱え上げ、せめて近代アートくらいに戻そうとして「<」になっている椅子を「>」に動かしたら「Γ」こうなってしまった。何を言っているのかは分からないと思うが、要するに二度と座れない椅子になってしまったということだ。
「おれ、2限の講義があるから、いくわ」
睦朗は部屋を出た。引きとめる者は誰もいない。
「私、あんな体型の男性、BL漫画の中でしか見たことないや」
ナナカは精一杯面白おかしく言った。
僕だって、あんな体型の男は、救世主が世紀末を闊歩する漫画でしか見たことが無い。
「これは覚悟を決めなくちゃ、かもね」
覚悟、すなわち「就職活動をする」ということ。
「昨日、みんなで誓い合ったばっかりなんだけどね、上手くいかないもんだね。でもまぁ、仕方ないか。この部屋を失うのは痛手だし、法的に訴えられて退学になるっていうのは、避けて通りたいし。」
まるで自分に言い聞かせるかのようなナナカの言葉。
その言葉に応えるように、よう子がガタンと椅子を引き立ち上がる。
「私も、2限目の講義あるんだった。いってくる」
バタンと扉を閉めて、振り返ることも無く出て行った。
なんだ、あいつ。
確かに予想外のことが起こったのだから、動揺するのも分かるけど。
「りっくん、言いたいこと分かる。けどね、ちょっと理由があるの」
ナナカが「内緒にできる?」という目をした。目は口ほどにモノを言う。
「あのね、今日、私とようちゃん、一緒にココに来たんだけど、私たちが来た時には、すでにあの人、糸崎先生はいたの」
「私は、キャリアセンターに行ったときにチラッとあの人の事を見ていたから、色々と悟って諦めたんだけど、よう子は結構な剣幕で『誰あんた!?』『勝手に入らないで!』って」
「そしたら糸崎先生が一通り自己紹介したあと、『クズが、クズが』って煽ったの。そしたらようちゃん、キレちゃって…」
区切りながら少しずつ、ナナカが言葉にする。そしてここからが本題とばかりに改まり、
「糸崎先生に、その、殴りかかったの。『就活なんかしない!!』って。」
あの体格の男性に、無謀すぎる。
「その、なんかね、上手く言えないんだけど、ようちゃんがクルっと一回転して、机の上に叩きつけられて、そこからは、はっきり聞いたわけじゃないから、はっきりと言えないんだけど、」
「糸崎先生が小さな声で『だったら、お前の秘密を仲間にバラす』って。そう言ったの。その後は、もっと小さな声で何かを耳元で言って、それからようちゃんは、何もしなくなったし、何も言わなくなった。りっくんが来るまでの10分程度、私たちは無言で過ごしていたの」
入室した時の違和感は、単にあの男が居たからでは無かったんだ。
異様なまでの静寂には、そんな理由があったのか。
「それとなくは聞いてみるけど、きっと何も教えてくれないかもしれない。そうなった時は、今ここで、何もなかったことにして。」
そう言って、ナナカも部屋を後にした。
程なくして僕も部屋を後にした。
就活をするのか、まだ逃げるのか。
つい昨日、団結を見せた僕たちの気持ちは、さっそく瓦解した。
それでも、少しでもここに居たくない気持ちは、全員の共通見解だったようだ。
ナナカも確か2限目の講義は無かったはずだ。でも後追いかけるのも無粋だし、かける言葉も見つからなかったから午後から始まる3限目の講義までを独りで過ごすことにした。
ぶり返す日もあるけれど、大よそ暖かい日が続くようになった。今日も室内に居るよりも外に出ていた方が気分も晴れるだろうと思い、大講義室から一望できる中庭のベンチに座った。
講義を受けている時には、このベンチに座ってのんびりしている奴を、羨ましいと感じている。
だから今日は、僕がその対象になってやろうと思って、この場所を選んだ。
何でもいい、優越感に浸りたい日と言うのはあるんだ。
例えば、得体のしれない何者かによって、住処を奪われそうになった時。
理不尽な圧力によって、日常が破壊されそうなとき。
森を追われた梟が、アスファルトの上で車に轢かれて死んでいる映像を見たことがある。
あの映像がやらせだったのか、それともドキュメンタリーだったのかの判別は難しい所だが、
少なくとも僕は、今、アスファルトの上で、車に轢かれるのを待っている。
もしくは今すぐ飛び立ち都会のペットショップに逃げ込んで、誰かが購入してくれるのを待つしかない。
どっちも嫌だなぁ
そうは言っても時間はどんどん進む。決断の時は近付いている。
「準備が出来たら」彼はそう言った。
準備ってなんだ、受けたい企業が見つかったらか?エントリーシートに書く内容が決まったらか?面接で何を話すか決まったら?
ちがう。彼は「内定獲得に向けた全面的なバックアップを受けろ」と提案していた。
おそらく企業も、エントリーシートも、面接も、俺が何とかするということなのだろう。
だったらここで言う「準備」とは何か?
答えは簡単。「心の準備」だ。
諦めることを諦める、その心の準備が出来ているかどうか、それを聞いているのだ。
覚悟と言ってもいい。
あの部屋は、まるでぬるま湯のようだ。
あそこから出れば風邪をひいてしまうことは分かっている。
しかし、ずっとそこに居たって、あっという間に湯は水になり、風邪をひいてしまう。
唯一助かる方法は、少しでも湯が温かいうちにあそこから出て、
タオルに包まって水気を切って服を着て、靴を履いて街へ出ることだ。
分かっちゃいるけど、やめられない。
そもそもなぜあのぬるま湯に浸かることになってしまったのか
糸崎は、このサークルが「幽霊サークル(笑)」だと揶揄した。
こんな所で嘘を付くはずもないだろうし、5名いなければサークルとして存在できない
そう言う彼の言葉は本当なのだ。
だとすれば、このサークルを知った時、すでにこのサークルは幽霊サークルだった。
そして、「サークル」として存続できたのは、僕が1年生の時の、1年間だけだ。
1年生の頃、まだ自分の可能性に多少の期待を持っていたあの頃。
部活動は制約や部費などの負担も大きく、参加する気になれなかった。サークルに入って一念発起と考えてみたものの、それでもさすがに体育会系サークルに入る気にはなれず、イベント系サークルは生理的に受け付けず、漫研、落研、イラスト研究会なども考慮してみたものの、どれも決断にあと一つきっかけが無いという、決断力の無さを棚に上げた理由で決めあぐねいていた。
そんな時に、先輩に出会った。
1年生の時の4年生だから、今は26歳か?
彼女には、才能があった。今考えてみても信じられないし、冷静に考えればストーカー被害を疑うレベルなのだが、彼女には、何の役にも立たない能力があった。どうでもいい「他人の特徴を見抜く力」があった。その力が僕を、僕たちをあのサークルへと導いてくれたのだから、無下にできるものでは無いのだけれど。
それが 「オタクを見分ける力」である。
大学に入り、履修登録と健康診断を終え、式典続きのお祭りのような1週間が過ぎ、そろそろお客様気分から当事者意識に変わってきた頃、「あれもしかして、高校時代の自分と今の自分は同じ自分なんじゃないか?」ということにうすうす気づき始めた頃。
誰でも入れる食堂に、そろそろ居心地の悪さに気付き、入りづらいなぁ、明日はコンビニで買って外で食べようなんて思っていたその時に、彼女は僕の目の前に座り、日替わりの季節限定メニューをトレイ一杯に載せた状態で、2人掛けのテーブルで一人食べていた僕に言い放った。
「きみ、オタクでしょ?」
今思い返してみれば、大学に入って勧誘以外の言葉で声をかけられたのは、これが初めてだった。これも広義で言えば勧誘の言葉なのだが、それにしてはあまりにひどい声のかけ方だった。しかし何というか、彼女にはカリスマのようなものがあった。それ以前に善悪を超越したような達観の中にいるものだから、怒るに怒れないのだ。この場合、社会通念的にオタクは悪いという先入観があるからこそ悪口のように感じるのであって、突き詰めればそれこそが失礼な悪口のようになってしまう。それは巡り巡って自分自身を卑下することにもなる。
その時の僕は何も言い返せず、大学にはすごい人がいるんだな、さすが大学だな、と妙に納得していた。もちろん、その後の大学生活で彼女のようなキャラクターをもつ女性にはついに巡り会えなかった。
「んー、アニメとか好きでしょ?節操なく観ているって感じ?声優とかには興味無いの?イベントとか行けばいいのに。楽しいらしいのに」
「はぁ」
それが僕の精いっぱいの返答だった。
「土佐煮、あげる。私ね、サークル長やってるの。オタク系サークル。メンバーは、今は私だけ。他の子たちみんな、辞めちゃって」
土佐煮。
「若竹煮と土佐煮の違いって何だろうね。鰹節がかかってるか、かかっていないか、それだけなのかな?」
土佐煮。
「みんなね、就職活動があるからって、辞めちゃったんだ。まぁ、現実を見ないといけない時期だし、就活って色々と準備もあって時間も自由にならないし、そもそも学校来ないし。こんな私にだって、みんなにとって今の時期がどれだけ大事かってことは、それなりに理解できるんだよ」
それなりかよ。土佐煮。
「土佐煮食べすぎだよ、コラ」
4つ目の土佐煮は先輩のフォークによって運搬を阻止された。
「君は、どんな状況になっても、誰にどんなに責められても、自分の好きなモノを、ずっと好きって言っていられる?」
その時の僕は何を思っていたのだろうか。 僕は。3年後に向き合うべき話を、入学直後の学生が即答できるわけも無く、もごもごしていたら先輩のフォークが動いた。土佐煮が僕の口にフォークが侵入してくる。
生まれて初めての「あーん」だった。
「よし、一緒にサークル活動しよう。私の名前は『月島 裏子』堅苦しいことはナシ。これは先輩からの入学祝いだ!」
土佐煮。
「最後の土佐煮と『とっておきの居場所』を君にプレゼントしよう」
他の部員も、似たような感じだったらしい。先輩に聞いてみたら、声をかけたのは4人で、サークルに入ったのも4人。勧誘率100%。例外なく全員がオタクだった。
彼女の言ったことは紛れもない真実だった。
『堅苦しいことはナシ』
まさにその通りのサークルで、寄せ集めのオタクたちであって共通の目的も無い。試合も無ければ発表会も無い。オタクなんだからコミケにでも参加して会誌の一つでも作成すればいいようなものだけれど、共同作業をしようと言い出す者は誰もいない。そもそもメンバーが「アニオタ」「ゲーマー」「コスプレイヤー」「イラスト描き」で、オタクという共通の趣味はあるものの、その関わり方が多様であったため、お互いの領域を侵食しないという暗黙の了解があったほどだ。
先輩はと言えば、とにかく何にでも興味をもって取り組む人だった。後から知ったことだが、先輩はなぜこんな大学にいるのかが理解できないほどの秀才で、これも不思議なのだけれど、彼女は特にこれといった趣味もなく、しかし何でもそつなくこなした。彼女自身がオタクというわけでもなく、僕たちが熱く語るオタク話を横で云々頷きながら楽しそうに聞いている。一度、「僕らの話を理解しているんですか?」と尋ねたら「ううん全く。でも、何を言っているのかは分からないけど、何が言いたいのかは分かるから」と、的を射たような、そっぽ向いたような答えだけを返した。
先輩とはそういう人だった。
先輩との邂逅の翌日、サークル部屋を尋ねてみると、先輩が朝掘りの筍を炊いていた。なぜ朝掘りか分かったかと言えば、あまりに美味しかったことと、部屋の入口に土まみれになった黒い長くつ、茶色い軍手、手拭いに麦わら帽子が落ち、仄かに香る青臭い若葉のにおいに、若々しさを感じたからだ。つか、これこの恰好のままで大学に帰って来たのか?
昼食には若竹煮と土佐煮が並べられ「やっぱり鰹節がかかっているかいないかの違いしかないね」なんて心の底から笑いながら土佐煮と若竹煮を交互に食べていた。僕はまた土佐煮と、生まれて初めての若竹煮を食べた。
人生2度目の「あーん」は無かった。
そんな昔話の余韻に浸っていたら今の自分が初めて先輩に出会ったあの時と同じ年齢、同じ時期、同じ立場であることに気付いた。あの時「みんな辞めちゃって」そう言った先輩は、はっきりと見て取れるほどに強がって笑っていた。彼女は秀才で、何でもそつなくこなす人だったけれど、決して強いわけでは無かった。
今の自分に朝掘りの筍を調達し、後輩に振る舞うようなバイタリティや行動力は持ち合わせていない。何より振る舞う後輩も居ないし。
それを言うなら同級生は3人もいるのだから言い訳にもならないが。
もし、あの3人が「就活だから」とサークルを抜け、自分一人が残ったら。
誰にも認められていない時限の狭間で独り過ごさなければならないのだとしたら。
僕はそんな孤独には耐えられない。1年生に土佐煮を食わせて勧誘するなんてこと、出来ない。
裏子先輩は、何を思っていたんだろう。
土佐煮と、とっておきの場所をプレゼントしてくれた先輩
彼女は結局就職活動をすることなく、ワーキングホリデーとしてオーストラリアへ旅立ってしまった。
就職活動のことなんて僕たちは聞かなかったし、先輩も話さなかったから、それを知ったのは卒業間際だった。
先輩は就職活動をどう考えていたのだろうか。
先輩だったら。
「何を悩んでるの?自分にとって就活が必要だと思ったら、就活をすればいい。必要ないと思ったら、自分の思うことを思いっきりやればいいじゃない。」
わかっています、先輩。
でも僕には、他人に胸を張って言えることが何一つありません。
「じゃあ、自分に胸を張って言えることは?」
それもありません。僕はおそらく人生で最も大切な時期であろう大学生活を、
ただただ仲間と集まりアニメを観るだけの生活に費やし、
みんなが努力するのを、じっと見ていただけです。
「だったら、まずは自分が納得のいく自分をイメージしてみよう。君は、何をしている自分が自分にとって誇らしい自分?」
それは
「ここは夢の中だから一ついいことを教えてあげよう。あたしの能力について、リクオは大きな誤解をしているよ。私があなたたちをあのサークルに集めた理由は二つ。1つはあたしが寂しかったから。これが理由の9割。そしてもう一つ、それはあなたたちがオタクで…」
騒然たる雑踏が響き合い、先輩の声をかき消していく。意識がクリアになっていくのとすれ違いに、イメージが混濁していくのが分かる。
ああ、もうこの夢を見続けることは出来ないのだという意識が、さらに夢を遠ざける。
「夢中になれる力を秘めていたからだよ」
その言葉でハッと瞼を開いた。
あまりにリアルで、その言葉だけ、本物の先輩が僕に話しかけたのかと思った。
2限目の講義が終わり、中庭を通って食堂に行こうとする学生が大挙して僕の前を通っていた。
僕は懐かしい再開もつかの間、再び現実の中に放り出された。
昼食はコンビニで簡単に購入し、ゼミがある3限目の教室へと移動した。