桃の花を貴方に
卒業式当日。
今日で先輩ともお別れになる。
しかしこれといって寂しいという気はしない。
何せ、僕は先輩が嫌いだったのだから。
❀❀❀
式典後、誰もいなくなった教室に先輩はいた。
鮮やかに夕陽が射し込んで、先輩の顔を紅く染めていた。先輩は惚けたように自分の影を眺めていた。
僕は静かに扉を開けた。微かな音に反応して、先輩はゆっくりと振り返り、嬉しそうに笑って言った。
「絶対お前は来てくれると思っとったよ」
僕は嘆息して答えた。
「曲がりなりにも先輩は僕の先輩です。お礼くらい言わせてください」
「ん。おおきに。そんなとこ突っ立っとらんでこっちおいでや」
僕は言われるがままに先輩の隣に腰掛けた。床には先輩の卒業証書が無造作に転がっている。胸元に飾られたコサージュを凝視しながら、僕は静かに話し始めた。
「先輩、卒業おめでとうございます。今まで、とても楽しかったですよ」
「なんや、永遠の別れみたいやんなぁ」
「何馬鹿な事言ってるんです。みたい、じゃありませんよ」
先輩を睨め上げて、僕は不満気に言った。先輩は驚いたような顔をしていた。でも本当はこれっぽっちも驚いてはいないのだろう。
「ちょっと、真面目に聞いてくださいよ」
「聞いとる聞いとる」
先輩は恭しく僕の頬に触れた。優しく撫でながら、瞳を覗き込んだ。
「……さみしい?」
「さみしくなんかないですよ。清々します」
「嘘吐きは泥棒の始まりや言うやろ」
先輩は僕の肩を引き寄せて、キスをした。そして不敵ににやりと笑うと、再び訊いた。
「さみしい?」
僕は先輩の胸ぐらを掴んで引き寄せた。吐息がかかるほど間近に先輩の顔がある。澄んだ瞳に、頬を朱く染めた僕の顔がよく映っていた。
「さみしくないって言ってるじゃないですか」
先輩は呆気に取られたような顔をして、しばらく茫然としていたが、不意にくすくすと笑い出した。僕はそれがなんだか妙に腹立たしくて、刺々しい声で責めた。
「何が可笑しいんです」
「最後くらい素直になったらええのに。たまには素直になっとかんと、愛想尽かされるで」
それを聞いて少しどきりとした。先輩の肩に頭を預けて、訊いてみた。
「先輩は僕に愛想尽かしますか?」
先輩は再び驚いたような顔をした。しかしそれは今までとは異なり、心の底から驚いたようだった。
「そんなことあらへんよ。いつまでも愛しとうよ」
「まーたそんなこと言う……」
「冗談やと思っとるん?」
先輩はいつになく真剣な眼差しで僕を見つめていた。こうなってはもう誤魔化しようがない。僕は諦めて先輩の瞳にを真正面に見据えた。
「まさか。先輩のことは僕が一番よく知ってるんですから」
「じゃあ……」
僕は再び胸元を掴んで引き寄せた。そして噛みつくようにキスをした。
「さみしいですよ、先輩。どうして先輩なんです。どうして行ってしまうんです。まだ何も返せていないのに、どうして僕から離れていくんです」
先輩は僕の頬をふにふにと抓って、からからと笑った。目を細めて愛しそうに言った。
「おー、えらく素直になったやんなぁ」
「先輩がそうしろと言ったんです」
「いつものお前もかわええけど、素直なんもかわええ。どうして俺は先輩なんやろなぁ…。お前のかわええとこ、もっと見たいのに。もっとそばにおりたいのに……」
僕は先輩の首に腕を回して、体を預けた。暖かくて大きいその身体をしっかりと抱き締め、ぬくもりを身体全体で感じる。
「先輩は先輩だから先輩なんですよ」
「なんやそれ」
「先輩は先輩だからいいんです。先輩は先輩でなくちゃだめですよ」
先輩は優しく抱き返してくれた。
「……先輩」
「なんや?」
「これをあげます」
僕はそう言って僕は制服の内ポケットから桃の花を一輪取り出して差し出した。
「桃の花なんて、ロマンチストやんなぁ」
「たまたまですよ。たまたま」
先輩は愛おしそうに香りを楽しんで、僕を見下ろした。先輩はその端正な顔に柔らかな笑みを浮かべた。
「俺はお前が大好きだ。愛しとうよ」
僕は目頭が熱くなるのを感じた。胸がきりりと痛む。それでも僕は精一杯の笑顔を浮かべて応えた。
「……そんなの、とっくに知ってます。僕は……あなたが嫌いでしたよ」
「なんや、傷つくなぁ」
「昔の話です」
先輩は僕の顎を掬い取って、再びキスをした。それは今まで交わしたどの口付けよりも優しくて、塩辛い味がした。