そして私は事件のことを考えるのをやめた(前)
前日から降り始めた雨は一晩中降り頻り、朝になっても止まなかった。じめじめとして薄暗い一日だった。
昨日演じた鬼ごっこが生活指導に目をつけられ、私たち4人は放課後に呼び出しを受け、大叱責、反省文提出、ミニテストのコンボを食らっていた。
テスト期間に入った放課後は部活動がないせいでやけに静かで、耳鳴りがするような静寂が、その日の空模様のように気分を滅入らせた。補講や自習をする連中がいたため、時折人が通り過ぎたが、基本的には誰も近寄らない教室に、4人の鉛筆の音と、降り止まない雨音が響いていた。
「おまえらが無茶するから」「おまえがバケツひっくり返したせいだろ」「おまえは窓枠にぶら下がってたじゃないか」「タクシー乗ったのもなあ、あれ普通に校則違反らしいよ」「え? マジで?」「厳しすぎやしないかい」「いや、それ以前の問題だから。あと不純異性交遊」「死ねっ」「死ねっ」「交遊してねえっつーの」
私たちのボヤキに、教卓で突っ伏して寝ていた担任が、
「おまえら~、私語は慎めよ。さっさと書き上げろ。付き合わされるこっちの身にもなれ~。あと、出来たら起こしてね」
たった今まで熟睡してたと言わんばかりの涎を垂らしたダルそうな顔で、迷惑な素振りを隠そうともせずに言った。
図書館詰めのはずだったのに、私たちのせいで反省文提出の監視役にされたのだが、そのおかげで居眠りできているのだから、文句を言われる筋合いは無い。寧ろ感謝してほしいくらいだ。
結局、そのダルい空気に釣られて、最終下校時間までだらだらと反省文を書き続けこととなり、適当なお叱りの言葉と、学年主任の鉄拳を貰って4人仲良く解放されたのは18時過ぎだった。
夏だというのにすでにあたりは暗く、厚い雲に覆われた空は星さえも見えない。
屈強なガードマンが守る校門はすでに半分が閉じられており、私たちが下校するのを迷惑そうに待ちわびていた。通り過ぎるとき、露骨に舌打ちされる。昨日の騒動で顔を覚えられたようだ。しかしいくらモテないからって、その態度はないだろう。
愛想笑いをしつつ校門を潜り抜ける。
「それにしても、おまえ、あの態度はないんじゃないの」
態度が悪いのはガードマンの方であろう。
「そうじゃなくって、昨日のあれだよ。自分のことが好きだって女の前で、他の女のことでオロオロすんなっつの」
「なんのことかな」
「俺ら相手に格好つけてもしょうがないだろ」
傘を叩く雨音でよく聞き取れない。そんな素振りで無視を決め込む。
「どうせ、もてない男の僻みだけどよー! おまえらの間に何があったかも知らないけど、きっと後悔するぜ。あんなに好き好きオーラ出してる子よりも、無理目のアイドルのほうが気になるなんて、どうかしてる」
「現実を見ろよ、現実を。今を逃せばこれから4年間、不毛の時代が続くのだぜ」
「うちの学校モテないんだよなあ……はぁ~」
「つか、おかしくね? 大学以降だと高学歴の方がモテるのに。高校で勉強ばっかやってると、ちっともモテないの」
「明らかに間違っている!」
「やっぱバンドとかやらんといかんのですか、バンドとか」
「……やるか、バンド。俺ボーカルな」
「いや、ボーカルは俺だろ」
「俺のほうがボーカルっぽくね?」
そもそもおまえらは楽器を弾けるのか。突っ込みを飲み込んで、喧々諤々としている友人らを尻目に、一人黙々と歩き続けた。
谷川あさひは一夜にして消えた。
3日前の深夜、殺人現場から出てきたところを目撃した彼女は、唐突に、なんの予告もなくいなくなった。一昨日の放課後、警察が学校まで事情聴取にやってきて、その夕方には本人が口止めまでしに来て、これはもうただの事件ではないのかもなと、思った矢先の出来事だった。
スマホには証拠となりうる写真がまだ残されている。一昨日の彼女の訪問は、刑事に目撃されている。そんな状況だと言うのに、なんの前触れもなくいなくなった彼女は、一体何を考えているのか……通報すべきか否か、私に判断が丸投げされたと思っていいのか。それとも、私が何もしゃべらないという自信の表れか。
判断つきかねた私は、友人たちが呆れて見守る中、ぐるぐるぐるぐる、彼女の家の周りを回って、やっとひねり出した考えは、彼女の携帯に電話をすることであり、そら覚えていたアドレス帳には登録されていない番号を、何度も押し間違えながら入力した。
『この電話番号は、お客様のご希望により、おつなぎ出来ません』
流れてきた始めて聞く音声ガイダンスは、私の携帯の着信拒否を告げていた。
私は谷川あさひとの連絡手段が絶たれたことを知った。
降り頻る雨に打たれながら、固まってしまった私の代わりに、友人たちが気を利かせて、剱相手に馬鹿なことを繰り返していた。その空回りする声を聞きながら、私は途方に暮れていた。うまく動揺を隠せた記憶はない。
正直なところ、我ながらあれは無かったと思う。
今日、学校に来てから一日中、友人らに非難された。
昨日、ほんのちょっとしか会っていないと言うのに、剱はもう私の友人らの支持を受けていた。
尤も、振られちまえという声も少なくなく……流石に私も、振られたろうと思っていたのであるが、
「あっ……」「おお!?」「マジか」
誰がボーカルをやるかを決めるバトルがいよいよ白熱してきた友人たちの前方に、傘を差しながら待ちぼうけている剱の姿があった。
バシッ! と背中を強烈に叩かれた。
「じゃあな、俺たちは真のボーカリスト決戦のため、カラオケ屋へ赴くこととする。ちったあ優しくしてやれよ」
バシバシと私の背中を叩きつけ、友人らは剱に手を振りながら去っていった。鼻の下が伸び伸びで、だらしはないが、いい笑顔だった。
遠くのほうで信号機の点滅が見えた。街灯が一斉に灯りを点していく。雨に煙る町はキラキラと輝いて見えた。
パシャパシャと、水溜りを跳ね上げて、剱が私に駆け寄ってくる。私はどういう顔をしていいか分からず、あさっての方を向きながらぐずぐずと近づいていった。
「せんぱいっ! 会えて良かった、すれ違っちゃったかと思いました」
小さな肩が上下に揺れて、息を弾ませ彼女は言った。
「会えて良かったって……なんでここにいるの」
「えーっとですね、学校の前まで行ったんですけど、守衛さんに凄い怒られちゃいまして。先輩の帰り道分からなかったんで、ここだったら見通しもいいかなって」
「いや、そういう意味じゃなくて」
だから舌打ちしてきたのか、あのガードマン。
「……? なんでって、先輩と一緒に帰ろうかと思いまして。ご迷惑でしたか」
「迷惑じゃない。そうじゃなくって……俺って結構ひどいことしてるだろう?」
「……そうですか?」
「そろそろ愛想尽きたんじゃないかと思ってた」
「ええ?」
剱は目を丸くしたかと思うと、途端に破顔し、くすくすと忍び笑いを漏らしながら、上目遣いで言った。
「そんなこと言ったら、先輩、もっと酷かったじゃないですか。前と比べたら、とても優しくなりましたよ」
私は顔が熱くなっていくのを感じた。
「それに、先輩が谷川さんのことが好きだって、ボクは知ってましたから」
「いや、別に好きじゃないけどな」
「素直じゃないってことも、知ってましたよ?」
なんだろう、この可愛い生き物は。
見方一つで、こうも人は変わるものだろうか。
本格的に、どこ見ながら会話を続ければいいのか分からなくなった私は、足元ばかりを見ていた。剱の靴がぐしょ濡れて、靴下まで黒く染まっていた。
いつからここに立っていたのだろうか。尋ねても、おそらく誤魔化すかはぐらかすはずだ。
「駅前にマックと喫茶店とあるのだけど」
「……はあ」
「どっちがいい? 奢ろう」
「え、いいですよ。自分で出します。それより、寄り道して怒られませんか? 気を使って貰わなくても、ボクは先輩と一緒に帰れるだけで嬉しいですよ。えへっ」
遠慮しつつも惚気る剱に、私は言った。
「……聞きたい事がある。谷川あさひのことだ」
「谷川さん……ですか?」
「奢るよ」
返事を待たずに歩き出すと、彼女も遅れて着いてきた。隣に並んだところでハンカチを差し出すと、平手を振って断り彼女は自分のハンカチを使った。
友人らが居たら張り倒されていたかも知れない。しかし、いきなり態度を変えろといわれても、やはり難しいものがある。
「そう言えば……髪型だけど」
「はい」
「今の方が全然いいと思う」
たったこれだけの言葉で、嘘みたいに喜んでしまう彼女に、いつかは報いなければならない。
しかし受け入れるにしても拒絶するにしても、まずは谷川あさひのことを片付けなければ、気になって仕方が無い。
二つの傘に隔てられた距離を維持しつつ、私はそう自分に言い訳し、それ以上考えることをやめた。
「あの日、先輩が帰ってくる前に、谷川さんと会いましたよ?」
シロップを二杯も投入したアイスコーヒーの氷を、ストローでからから鳴らしながら剱は言った。
「学校が終わって、プレゼント持って、先輩の家の前で待ちぼうけていたら谷川さんが家から出てきて。挨拶した後に、先輩の家に入っていきました」
それを黙って見送ったというのか……まあ、止める権利もないが。
「その時、なんか言ってたか?」
「いえ、特には。お隣さんに、引越しの挨拶で来たんだって。それくらいですね」
「……引越し?」
「はい。先輩は知らなかったんですか? 正直、意外でしたけど」
知らなかった。そもそも、谷川あさひが私の家を訪れたことさえ数年ぶりの出来事なのだ。事細かな変化など知りようもない。
「けど仕方ないかも知れませんね。ボクもあの日初めて知りましたし」
アイスコーヒーのストローをくわえて、一口飲んでから、
「あの日は珍しく谷川さんが学校に登校してまして、朝からその話題で持ちきりだったんですけど、1限が終わったときにはそれが、谷川さんが転校の挨拶にやってきたんだってことに変わって、ちょっとした騒ぎになったんです」
剱はコップの氷をかき混ぜながら、目を少し泳がせ言いにくそうに、
「あの人、その……ちょっと人当たりがきついところがありますよね?」
確かに。私もそう思う。
「でも、あの日は朝から上機嫌というか、凄く人当たりが良くって、なにを聞かれてもにこやかに受け答えしてたから、休み時間の度にすぐに人だかりが出来ちゃって、ボクは近づくことも出来ないくらいでした」
お別れ会をやろうと言いだす、昭和のテレビドラマのような教師の提案をやんわり断り、昼休みにさっさと谷川は下校した。クラスメイトから寄せ書きを貰い、混乱するといけないからと、職員用玄関から出てきたところで、たまたま体育の授業の帰りだった剱と出くわした。
「引越すって聞いて驚いたと言いました。どうしてボクに教えてくれなかったのかと。でもあの人薄く笑ってるだけで……代わりに、先輩の誕生日のことを教えてくれまして。え? 今日なの? ってなりまして。そっちの方が気になるから、後はうやむやに……」
「ちょっと待て、おまえと谷川って仲良かったわけ?」
「ええー? まあ、それなりです。学校に居るときは、多分ボクが一番お話してたと思いますよ」
「学年違うのに? おまえに嘘の誕生日を教えたのもあいつなの?」
「そうなんですよ、ひどいと思いませんか? だから、あの後谷川さんに会った時に文句言ったんですよ。そしたら、ごめんねって言って、代わりに引越しの時に捨てるつもりだったって、いろいろお洋服とかいただいて。あとあの人が通っていた美容院を紹介してもらって」
私は少し混乱していた。剱鈴という少女の印象がどんどん変わっていく。そして、それに比例して、谷川あさひへの疑念が増していった。
剱は私にプレゼントを突き返された後、それが地面に捨て置かれたままにされてないかと懸念して、こっそりと私の家へと戻ってきたらしい。その時、私は友人連中に拷問を受けている最中で、
「戻ったまではいいんですけど、先輩の家から物凄い音がドスンドスンしてまして、叫び声も聞こえてきますから、かなり焦りまして。呼び鈴鳴らそうかどうしようかと、うろうろしてたら、心配ないよって谷川さんが出てきまして」
友達同士でジャレてるだけだから平気だと、それより騙してごめんねと言われ、ちょっと納得はいかなかったが、剱は謝罪を受け入れた。その後、谷川の家で洋服を見せてもらったり、美容院に連れて行かれたり、その美容師と二人で楽しげに、剱をいろいろ改造してみたり、二時間くらい連れまわされたらしい。
「なんだか、餞別みたいな感じだったんで、特に抵抗しないで受け入れましたけど、髪もばっさりですからねえ……これ、大丈夫かなって鏡見ながら引きつってましたよ。その後、夜も遅くなってきてたんで、そのまま別れることにしたんですけど。やられっ放しもちょっと悔しかったんで、帰り際に聞いたんです。先輩に伝えたんですか? って」
「引越しのことをか」
「それもですけど。あの人、先輩のこと好きだったでしょう? ボクを炊きつける前にやることあるんじゃないですかって」
「それ、よく勘違いされるけど、俺とあいつは幼馴染ってだけでそんなんじゃないぜ。何しろ、あの日、あいつが俺の家に来たのは数年ぶりのことだったんだ」
「そうなんですか?」
「そうとも。そんなんで好きも嫌いもないだろう」
「でも、それって先輩も同じなんじゃないですか」
ストローをくわえながら、上目遣いでちょっと非難するように彼女は言った。
「先輩だって、何年も谷川さんの家に行かなかったんじゃないですか。きっと、それ以前はよく一緒に遊んでいたんですよね」
「それは……まあ、そうだが」
「だから谷川さんが来なくなったんじゃないですか? まあ、どっちが先だったのか、何があったのか、それは知りませんが、谷川さんは切っ掛けを待ってたんじゃないですか。また、以前のように戻れる切っ掛けを。先輩と同じように」
……私は黙るしかなかった。
「だから、ボクにも付け入る隙があるのかなって思えたんですけどね。恋敵が恋敵ですから、凄くガツガツいき過ぎちゃいましたけど。それをあの日、谷川さんに指摘されたんです。やり過ぎると逃げられちゃうよって……ちょっと引くって」
「そりゃあもう」
「うっ……」
話が剱の方に流れていきそうなので、修正する。
「それで、あの日やその前後で、谷川になにか変わったことはなかったか」
「変わったことですか? そんなのありませんよ。普段どおりでした。て言うか、学校に全然来ませんでしたし」
「そりゃまあそうだな」
「何かあったんですか?」
それを調べているのだが……殺人現場で目撃したなんて、言えるわけも無い。私は適当にはぐらかしながら、話題を変えた。
その後は結局、取り留めの無い話が始まって、店員の顔が厳しくなるまで、私は剱の話を聞いていた。
快速でたった一駅の間も、駅から彼女の家までの間も、ずっと喋り続けていた。私は聞き役に徹しながら、頭の中では谷川のことを考えていた。