一体どう言い訳をしよう(前)
日中に温められたコンクリの熱気が篭り、軽く汗ばんだ腕が机に張り付いて、室内は非常な不快係数を指し示していた。大分傾いてはいたが、さすがに初夏だけあって、まだ日は高い。しかし時計を仰ぎ見れば、もう18時間際と下校時間まで余裕がない。
いったい何を反省すればいいんだよ、という気持ちが先走り、なかなか反省文が書きあがらない。結局、お決まりの文句を並べ立てたものを時間いっぱい使ってでっち上げ、学年主任に提出して下校した。因みに彼は見向きもしなかった。せめて読む振りくらいしろ。
帰りに合流する予定だった友人たちはとっくに下校しており、大急ぎで家に帰っても、おそらく彼らのほうが先に着いているはずである。
スーパーマーケットのパートタイマーである母の出勤時間には間に合うから、外で待ちぼうけを食わされることはないだろう。心配はしていないが、逆に家主のいない部屋にあんな野獣どもを解き放っては、どんな家捜しをされるか分かったもんじゃない。
そう考えると気が気でなく、せめて一秒でも早くやつらに追いつこうと、私は駅までダッシュで駆け抜け、丁度やってきた快速電車に滑り込んだ。
ハンカチで汗を拭いつつ、席が空いてないかきょろきょろしていたら、スマホにメールが着信する。
『いまマックで駄弁ってる。遅れる』
あと1分でも早ければ合流できたのに……ちくしょうめ、と思いつつメールを閉じようとしたら、まだ続きがあることに気づいて画面をスクロールさせる。
『追伸:無修正を手に入れた』
マジで!?
小躍りしそうな気持ちを抑え吊革を掴む。にやにやと笑顔が漏れる私のことを、胡散臭そうな目つきで女子高生が見ていた。いくらでも蔑むがいい。私はいま心が満たされているので何でも許してやれる気分だ。因みにマックと言う単語に触発されて、腹はぐーぐー鳴っていた。
最寄り駅で降りるころには、大分影が伸びていた。一番星が、うっすらと藍色がかった上空で瞬いていた。
「あっ」「あ……」
ホームへ降り立つと、別の車両から見知った男がひょっこり顔をのぞかせた。小学生の頃は大変仲が良かった奴だが、別々の中学に進学して以来、お互い口も聞いていない。風の噂で、私の悪口を散々言っていたと聞き、まさかと思いつつ、ある日真相を確かめようと近づいたら避けられた。それ以来、顔を合わせるたびに気まずい思いをする。私は何も悪くないのだから、たまったもんじゃない。そそくさと改札へと足を運ぶ。
昼間との温度差からか、風が出てきて地面の砂を巻き上げた。目を細めながら、坂から吹き降ろしてくるその風に逆らいつつ、家までおよそ15分の道のりを黙々と進んだ。
かつては駅前まで自転車で通っていたが、何しろ鬼のように坂が長く、行きはともかく帰りが大変すぎるので乗るのをやめた。おかげでこの時間である。
小学生のころは家も学校も坂の上にあったので気にもならなかったが、中学に進学してこの地獄の坂を経験するようになり閉口した。見晴らしがいいのも難であり、風が強けりゃ歩きづらく、特に夏場は日差しもきつく、否が応でも体力を奪われる。
夏休みはまだか……
噴出す汗を拭いつつ、息も絶え絶えようやく家の前まで帰ってきた。
まだ辺りは明るかったが、街灯が一斉に灯りだす。
通りがけに隣家をちらりと見上げる。
いつものように全てのカーテンがきっちり引かれていて、中の様子は窺えない。だがエアコンの室外機の音がするので、在宅ではあるのだろう。少なくとも、彼女の母親は居るはずだ。
問題は彼女がいるかどうかだ……
学校での出来事を踏まえ、接触を図るべきではある。しかし、いざとなると結構勇気が要った。「おまえ人を殺したの?」などと面と向かって聞けるだろうか。
取りあえずは、まあ、カバンを置いてから……と言い訳しつつ、垣根のない隣家の軒先を抜けて自宅へと足を運ぶ。
そして玄関に間もなく差し掛かろうという時だった。
突然、背中に重さを感じ、背後からトンと何者かが圧し掛かってくるのを感じた。フローラルな香りが鼻腔をくすぐり、柔らかい胸が当ててんのよとばかりに背中に押し付けられた。そして甘ったるい声が耳元で囁く。
「せんぱいっ!」
普通なら確実に鼻の下を伸ばしそうな場面であったが、別のことを考えていた私は、完全に不意打ちを食わされ悲鳴を上げた。
「うおわぁあああーー! びっくりしたっ!!」
背中にのしかかる重さを全力で振り払うように、体を反転させる。唐突に体が振られて、耐え切れずに背中の人物は放り出されて地面に尻餅をついた。
「……いったあぁぁ~~。何するんですか!」
「こっちの台詞だ! ……って、ちっ……剱かよ、面倒くさいな。何でこんなとこ居るんだよ。さっさと帰れ」
「うわ、ひっどーい! 会っていきなりそういう態度取りますか。人としてどうかと思います!」
「俺はちゃんと人を選ぶぞ。誰彼かまわずこんな態度取るものか」
「つまり、ボクは先輩の特別ってやつですね? ……えへへへ」
朗らかに笑いながら、剱は地面にぺたんと座りこみ腕を突き出して、抱き起こしてアピールをしていた。
いらっとする。
私は回りこむようにそれを素通りし、家へと足を向けた。
「ちょっとちょっと! こんなに可愛い女の子が倒れてるのに、無視するなんてひどいじゃないですか!」
「可愛い女の子? どこに?」
「ほら、ここっ、ここっ」
「ソフマップで水着デビューしたグラドルみたいな面をしやがって、何言ってんだ」
「むっきぃ! 先輩だってスーパーの野菜売り場で、私が作りましたって紙貼られてそうな顔してるじゃないですかっ!」
「なんだとぉ!」
頭を引っぱたくと、足にタックルして応戦してきた。女の癖にアグレッシブにマウントを取りに来るので油断が出来ない。そして地面に倒され、取っ組み合ってぽかぽか殴りあっていると、傍目には仲良さそうに見えるから不幸だ。
「えいえいえいっ!」
「やーやー……ってやめようぜ。あの、急いでるんで今日はこの辺で勘弁してください。それじゃ失礼します。さようなら」
「あーん、もう! どうしてそんなにつれないんですか。とにかくちょっと待ってくださいよ。いま起きますから……いたたた」
正直、苦手なのである。
剱鈴は服装はデーハー、髪はキンキラ、顔はケバケバ、これといった特技も無いが、持ち前のドジと危なっかしさで世の中を渡っているという、あらゆる意味で今風のギャルだった。頭は信じられないほど空っぽであるが、見た目に反し運動はそこそこ出来、男であったならいわゆる脳筋タイプに分類されるであろう、体育会系馬鹿である。
「で、なんだよツルリン。用件ならさっさとして欲しいんだけど」
「ツルリン言うな! えーと……えへへ、今日はですね……」
ファッション雑誌そのまんまと言わんばかりの服装で、スカートの汚れを叩きながら彼女は起き上がると、持っていたトートバッグをごそごそとやりだし、中から可愛らしいリボンのかかった紙袋を取り出した。
「ジャジャーン! 先輩、お誕生日おめでとうございます」
「……なんだって?」
押し付けるように手渡された紙袋を、思わず二度見する。
「これ、お誕生日プレゼントです。先輩、いっつも服装には気を使ってないけど、奇麗にしたらすっごく格好いいんだから、良かったらこれ着て欲しいなって。それでその……えへへ、今度一緒に遊びにいけたら嬉しいな」
「あー……いや、遊びに行くも何も……おまえ、なに言ってんの」
「あーん、もう、つれないですねえ。ホンの気持ちだけですから、お気になさらずに、ね?」
「そうではなく、俺は4月生まれだが」
「はい?」
口をぽかんと開けて固まった剱の手に、紙袋を押し返す。
なるほど、なんとなく分かった。今は初夏で、具体的に言うと7月4日であった。そして私は4月7日生まれである。
それにしても、さほど仲良くも無い相手に、好感度目当てを隠そうともせずプレゼント出来るのは、素直に感心する。ビッチの成せるわざなのか?
「どこでどうやって調べたか知らないが、俺の誕生日は今日じゃないぜ。だからまあ、これは受け取れない。いや、もし仮に今日が誕生日だったとしても、やっぱり受け取れないよ。あのさ、何度も言ってると思うが、俺はおまえと付き合う気は無いし、こういうことをされても困るんだが」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってください? あれ? お誕生日じゃないの??」
「そうだよ」
面倒くさいが、私は学生手帳を見せてやる。証明書の生年月日を見て、あーとかうーとか言いながら、妙に納得した剱は、
「えーと、じゃあそれは普通にプレゼントということで」
「いや、こんなの貰う理由ないから、さっさと持って帰ってくれ」
「そんなことおっしゃらずに、どうぞどうぞ」
「どうぞと言われても、そんなわけに行くか。いいから帰れ」
「女の子がこんなに頼んでるですよ? 男の人は優しい方が好きだな」
「そんなこと俺が知るか」
「もう貰ってもらえないと帰れませんよ」
「…………」
まあ、そうかも知れない。しかしこちらとしても、ほいほい貰うわけにはいかない。これ以上は無難な断り方じゃ駄目であろう。仕方が無い……
「あのな、剱。悪いがこれは受け取れない。おまえが何を考えてるか知らないが、はっきり言って迷惑だ。金輪際こういうことはやめて欲しい。おまえさ、やりすぎて気持ち悪いよ、正直ちょっと引くから」
剱が一向に受け取ろうとしない紙袋から手を離すと、それはぱさりと音を立てて地面に落ちた。可愛らしいリボンが風にぱたぱた揺れて、やけにみすぼらしく見えた。
私は動揺を見せまいと踵を返し、足早に家へと向かった。
バシッ! と音を立てて、背中に何かがぶつかった。
振り返ると足元に半分破けた紙袋が落ちており、中からシャツが覗いていた。
腕を振りかぶったままの剱が真っ赤な目をしてこちらを睨んでいる。
私は平静を装いつつ、「ちゃんと持って帰れよ」と紙袋を拾い上げ、突き返した。
「先輩の……先輩の……」馬鹿であろうか、阿保であろうか。「いんきんたむしっ!」
睨みつける瞳がきらりと光った。きっと言葉も無いとはこういう表情なのだろう。
剱は踵を返すと、ここに一秒も居たくないと言わんばかりの猛スピードで駆けて行った。
後味の悪さと、脳みその痒さと、中身がむき出しの紙袋が残された。さすがにここに捨て置いてしまえるほど、鬼にはなりきれなかった。十分ひどいことを言っておきながら、いまさらではあるが。
私はそれを小脇に挟み、玄関の扉を開いた。