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正しいアイコラの作り方(後)

 殺人事件のあったあの夜。私は父親とのトリビア勝負で出たロッテvs日本ハムを買いに、深夜になって家を出た。生ぬるい風の吹きつける、朧月夜のことだった。


 あの日あの晩、私は殺人事件現場で谷川あさひを見つけ、それを今まで気にかけてきた。一体……何があったのだろうか……彼女の視点からすれば、こうなる。



 あの日、谷川あさひは自宅の二階の部屋から外を見ていたら、私が自転車をカチャカチャやっているのを目撃し、すぐにその後姿を追いかけたらしい。自分が引越しをすることを伝え、私と仲直りするなら、これが最後のチャンスだと思ったのだ。


 しかしかつてとは違い、背も伸び体力もついた私には追いつけず、すぐに見失ってしまったそうだ。深夜の人通りの絶えた県道で、ドキドキしながら私の姿を捜すが見つからない。諦めようかと思ったとき、例の書店の前で私の自転車を見つけた。


 自転車を停め、あたりを見回すがそこには何も無い。私の姿も、営業している店などもだ。どこへ行ったのだろう? と薄暗い路地裏を抜け、裏通りに入ると背後からガツン! と大きな音(私が自販機に突っ込みを入れた音)がして、ビックリした彼女は目の前のTKビルに駆け込んだ。


 辺りの様子を窺うが、特に変わった様子は無い。けれど遠くの方から、へべれけになって鼻歌交じりの酔っ払いがやってきて、裏通りを千鳥足で歩き始めた。彼女はじっと息を潜めて、蝸牛の歩みで遅々として進まない酔っ払いが通り過ぎるのを待った。


 どうにかこうにか酔っ払いをやり過ごし、ドキドキしながらビルから顔だけを覗かせて、辺りの様子を窺った。そして誰も居ないことを確認し、ほっとしてビルから一歩踏み出した時だった。


「なんか見えるのか?」


 突然、目の前に現れた人影が、声を発した。心臓が飛び出そうなほど驚いた。どうしよう、逃げないと。でも体が(すく)んで動かない。そうこうしていると、人影は何かを掲げてパシャリとフラッシュを浴びせかけてきた。


 どうしてこんな怖い思いをしなきゃならない? もう限界だ! 彼女は半泣きになりながら、後ろを振り返らずにダッシュで逃げた。自転車を置き忘れていたが、もう取りに戻る気にもならなかった。


 息も絶え絶え、長い道のりを走って帰ってきた谷川は、クタクタになっていて、私のことは気になったが、その日はもう寝てしまった。



「……俺のことを追っかけてて、たまたまあのビルに……」

「そう。あの日、私はあなたに謝るつもりで居たのよ」

「謝る? 何を謝ることがあったんだ」

「……昔、私は無理を言って、あなたを困らせた。ばつが悪くて、あなたを避けているうちに、周りはあなたを傷つけ始めた」


 それを言うなら、私の方が何も出来なくて後悔しているくらいなのだが、


「その時気づいたの、私が居ると、あなたを困らせるばかりだって。私がべったりしていたせいで、あなたには擁護してくれる友達が一人もいなかった。そして対抗出来る力があったばっかりに、あなたは孤立した。見たこともない上級生が、あなたを襲ったと聞いたときは、相手を殺してやりたいと思ったわ。でも出来なかった。私が出て行けば簡単な話なのに、もしそうすれば、余計にあなたを傷つけることになるだろうから」


 ……確かにそうかも知れない。かつてクラス中から無視(しかと)されていたときも、馬鹿に襲撃されたときも、もしも谷川が出てきたら、感謝するよりも寧ろ腹を立てたはずだ。自分のちんけなプライドが傷つけられて、一生恨みに思ったことだろう。


「私は、あなたの人生を、滅茶苦茶にしてしまったわ。それをどうにかしたくても、指をくわえて見ているしかなかった。そんな時に現れたのが、剱さんだった」



 翌朝、私に引越しのことを伝えられず、意気消沈していた谷川は、ともあれ最後の挨拶のために中学校へ赴いた。今日を逃せばタイミング的に、私と会うのは難しくなる。同級生たちを上の空でやり過ごし、昼前に母の送迎があるからと言って学校から下校した。


 しかし職員用玄関から出たところで、剱と鉢合わせした。


 剱鈴はまるで正義のヒロインみたいな、真っ直ぐな心の持ち主だった。男の子のような性格だが、ガサツではなく、男女どちらとも対等に付き合える、サバけた性格で誰からも好かれていた。


 私がかつて、彼女らの学校の上級生たちに襲撃されたあと、その事実が捻じ曲げられて伝えられたとき、彼女はどこからともなく現れて、まるで信じられない方法で、その嘘を断罪して回った。谷川はそんな彼女に憧れを抱くと同時に、自分には出来ないことをやってのけることに嫉妬した。


「どうして引っ越すこと教えてくれなかったんですか?」


 剱に言われて胸が痛んだ。私にまだ伝えていなかったので、それを指摘されるのが嫌だったそうだ。剱はかつての夏の日に、私に命を助けられて以来、それを恩に感じていた。しかし明らかに私のことを意識しているのに、私と谷川が喧嘩をしていることを知ると、チャンスと思うよりも寧ろ仲直りしろと怒り出した。


 谷川は、剱のそんな真っ直ぐな性格を好ましく思う反面、苦手にしていた。しかし、私と付き合うならこういう子の方があってるのだろうと思った彼女は、咄嗟に私の嘘の誕生日を教えたらしい。何か切っ掛けさえあれば、私と剱はその内付き合うことになるだろう……谷川はそう直感し……それは数年後、確かに実現する。


 ともあれ、剱を炊きつけた手前、もう私のことは諦めようと思った谷川は、親戚の人と一緒に自分の母親を施設に送り、引越しの最後の片づけをするために家へ帰ってきた。すると、玄関先に男が佇んでおり、自分は飯豊といい、刑事であると名乗った。


 何の話か見えないが、手帳を見せてもらったので家へ上げる。散らかっているリビングを見た刑事に、「引越しをするのか?」と問われ肯定する。お茶を出し、用件を尋ねると、昨晩のことを聞かれた。谷川は、自分が何故TKビルにいたのかを、ありのまま伝えると、


「あの彼も大変だなあ……」


 と意味不明なことを言われた。何のことかと思っていると、写真を見せられてびっくりした。


 それは昨晩の監視カメラの映像で、そこには谷川のほかに、彼女を写真に収めようとスマホを構えている私の姿が、ばっちり映っていた。刑事はその写真を示しつつ、


「ここに映ってるのは、君と、隣の彼であることは間違いないね?」


 と言った。こんなに近くにいたのに、酷いすれ違いだ。歯噛みしながら谷川が肯定すると、刑事が更にとんでもないことを言い出した。


「彼とは先ほど会ってきたんだけど、君の事を聞いたらはぐらかしていたよ。多分、君が事件に関係あると思って、庇っているんだろう」


 ドキリと胸が高鳴った。


「彼は君のことが好きなんだろうな。早く引越しのことを教えて、彼を安心させてやってくれよ」


 居ても立ってもいられなくなった谷川は、飛び上がるように椅子を立ち上がると、飯豊刑事を置いて家を飛び出した。


 しかし、私の家の周りでこそこそとしている剱を見つけて、意気消沈する。


 どうして彼女を炊きつけるようなことをしてしまったのだろう……ぐっと後悔する唇を噛みながら、何をしにきたのか問う剱をはぐらかし、私の家へと入った。


 家には母が一人だけで、もう間もなくパートに行くから私の部屋で待っててと、部屋へ通された。ドキドキしながら部屋の窓から外を眺めると、やがて帰ってきた私と剱が鉢合わせする。仲の良さそうな姿に、胸がちくりと痛んだが……だんだん、雲行きが怪しくなっていき、私がかなりきつい言葉で拒絶すると……


「私は嬉しかったの。剱さんに悪いとか、そんなこと思わず。ただ純粋に嬉しかった」


 来客用のローテーブルの前に座ると、居住まいを正した。スカートの裾を気持ちちょっとだけ上げて、正面から見えるか見えないか、絶妙なラインを形成する。昼過ぎに振ったコロンはどんなのだったか。髪の毛は大丈夫か、どうして男の子の部屋って鏡がないのだろう……落ち着け、落ち着け……アールグレイを口に運んで、一つ深呼吸する。じりじりと、正座する太ももをすり合わせながら、じっと待つ。やがてトントントンと、階段を上がってくる音がして、部屋の襖を開いて私が現れた。


 そして彼女は私を襲った。


「ねえ、三郎君。もし黙っててくれるなら……エッチしてもいいよ」


 暴力的なほど甘酸っぱい臭いが私の鼻腔をくすぐり、破裂しそうなほど心臓がバクバクと脈打った。谷川あさひの唇は、もうあと数ミリというところで、お互いの息が重なって酷くこそばゆかった。もう何も考えられないほど脳みそが蕩け、私を見つめる彼女の瞳がゆっくりと閉じられていく……


 しかし結果は知ってのとおりだ。


「おちんぽおちんぽ!」

「おい、やめろっ!」


 信じられないほど下品な私の友達がやってきて、毒気を抜かれた彼女は急に恥ずかしくなった。そして私に押入れに押し込まれ、とんでもないスカトロビデオを見せ付けられて、半泣きになりながら飛び出し、家へと逃げ帰った。留守宅で途方に暮れてた飯豊刑事が、こりゃ失敗したんだろうなと言わんばかりの、哀れみの表情を浮かべていたのが印象に残ってるそうだ。


 

 谷川は、私の友人たちを呪いながら、さっさと帰ってくれないかなと家の中でやきもきしていると、その内、剱が帰ってきた。私の家の玄関先で右往左往し、頻りに二階を気にしている。あのインターホンを押してしまったら、きっと縁が出来てしまう。そう思った谷川は急いで外に出て、心配ないことを告げて、彼女を自分の家へ招き入れた。


 昼間は彼女を炊きつけた谷川であったが、その時はその気持ちが逆転していた。


 剱と話をつけて、やっぱりちょっかい出さないようにお願いしようと、あれこれと言葉を紡いだのだが、しかし出てくる言葉はああしたら私が嫌がるだろう、こうしたら私が喜んでくれるはずだという、自分の願望を彼女に投影したような言葉ばかりだった。


 結局、話が切り出せず、あちこち連れまわした挙句に、自分のスタイリストと共に、剱をとんでもなく改造してしまった谷川は、意気消沈して別れを告げた。しかし、


「谷川さんは、先輩には伝えないんですか?」


 その言葉は剱の方から出てきた。


「仲直りした方がいいです。そしてまた、いつかの夏の日みたいに3人で……」


 その言葉を告げた、剱の顔がとんでもなく眩しかったそうだ。


「また3人で、居られたらいいですね」


 そうなったら剱自身は、どういう立ち位置にいると言うのか……分かっているだろうに……裏表無くはっきりと言い切る剱に、谷川は何も言い返せずにそのまま帰った。


 後悔はしたくない……そして、あの子にも取られたくない……


 意を決した谷川は、ようやく静かになった私の家へ再度やってきた。


 勝手知ったる他人の我が家、リビングの窓が開いていたところで父親に発見されて挨拶を交わし、そのまま上がって母親と会話を交わす。私が二階に居ると聞いて、そわそわする気持ちを抑えつけながら、私をビックリさせるつもりで足音を殺して二階へと上がった。


 しかし、何も出来ぬまま体が固まった。


「だって、あなた、アイコラ作ってたじゃないの」


 私は思いがけない言葉に耳を疑った。彼女は私が聞き取れなかったと思ったか、


「アイコラ、作っていたじゃない」


 と、素っ気無く二度言った。


 ………………はい、作ってました。


 谷川あさひの驚愕の表情を写メした私は、これはと思って検索エンジンに『カーセックス』と打ち込み、出てきた写真に適当に貼り付けた。


「100年の恋も冷めるわよ」


 出来の悪いアイコラに、悪戯心が沸いて彼女の顔を男の方へ移した。爆笑しながら、続けてボディビルダーの写真に……それから犬の写真へと、次々とアホなコラージュ写真を作り出し、


「せめて、ちゃんと作りなさいよ」


 あれを見てたんだ……


 私は堪らず吹き出した。視界がぼやけて涙が滲む。余りにも阿呆な結末に、私は笑いを抑えることが出来ず、馬鹿みたいに笑いこけた。腹が捩れるとはこの事で、どうにか落ち着こうと思うのだが、臓腑がひっくり返ってしまったかのように馬鹿になってて、いかんともしがたい。やがて彼女も私に釣られて吹き出して、私達は顔を真っ赤にしながら涙を流して笑いあった。


「そりゃ、酷いわ……ひぃっひぃぃー……最悪だ」

「他人事みたいに言わないで。あなたのことなのよ……ぷっ」

「だってよう、気づかなかったんだ。今の今まで考えもしなかった。ははは」

「酷いわね。私は、とても傷ついたのよ。あの時、せめて普通に女の人の裸に貼り付けてくれてたら、そんなに怒らなかったと思うわ。もう」

「ぶははははは。本人に駄目だしされた上に、正しいアイコラの作り方をレクチャーされるなんて奴は、後にも先にも俺だけだろうな」


 ひとしきり笑ったあと、彼女は穏やかな表情を取り戻し、話を続けた。


「その姿に腹を立てた私は、そのままプリプリ怒って家へ戻ったの。そして慣れない携帯電話を操作して、三郎君の番号を着信拒否にしたのよ。あなた、私を着信拒否したことあるじゃない。私だけなんてずるいもの」

「ああ、いつか入院したときか。あれはおまえが何度もかけてくるから」

「でも私は傷ついたわ。私の気持ち、分かったかしら」

「……ああ、凄いよく分かった。悪かった。あれは堪らん」


 私が反省の弁を述べると、彼女はふんっと可愛いふくれっ面を見せた。


「翌日、あの家から出た私の携帯に、剱さんから電話がかかってきたの」


 それは当たり前と言えば当たり前だが、意外と言えば意外な言葉だった。あの夏の日、剱は谷川と携帯番号を交換したと言っていた。だから、あのあと彼女たちが連絡を取り合っていただろうことは、薄々感じてはいた。けれど、剱から谷川の話を一切聞いたことは無い。


「三郎君が凄く動揺してたって聞いて、私、怒ったのよ。剱さんの前で、見せるような姿じゃないでしょう」

「あー……反省してる。友達にも怒られた」

「剱さんが、どうして三郎君の携帯を着信拒否したの? って聞くから、私、正直に答えたわよ」

「え? じゃあ、あいつ知ってるの?」

「ええ。そうしたら、あの子、『先輩、可愛い……』って。痘痕(あばた)笑窪(えくぼ)って言うけれど、何だか私は痛感したわ。同じ人を好きになったけれど、私と彼女は違いすぎる。とにかく、三郎君が可哀想だから、ちゃんと理由を話してあげて、と言われたから、私は言ったのよ。『それじゃ、あなたが彼を慰めてあげなさい。それが出来たなら、着信拒否を解除してあげるわよ』って」


 それが、あの夏の日に起こった全てであると、彼女は言った。



 

 コンコンと、ドアがノックされた。


『谷川さん、そろそろスタンバイお願いします』


 時計を見ると、公演30分前。確か会場が開く時間のはずだ。私もここでのんびりしている場合ではない。


「そろそろ行くわ。今日は、見ていってくれるのでしょう」

「ああ、楽しみにしてるよ。最後に渡そうと思って花束を用意しておいたんだが……こんだけあったら要らないか」

「絶対、ちょうだい」


 笑い泣きの涙をぬぐった目元を直して、谷川あさひが席を立った。


「おまえのライブって初めてだな。なんか見るほうなのに緊張するわ。ちょっと泣いちゃうかも」

「馬鹿ね。号泣よ」


 どうせ出入り口は一つなのだが、私は彼女を席に座ったまま見送った。そして彼女がドアノブに手をかけたタイミングで言った。


「最後に一つ聞きたい」


 いつぞや、飯豊刑事にやられたコロンボメソッドである。


「剱を芸能界に引き入れたのは、お前だろう」


 ドアノブに手をかけたまま、一瞬ぴくりと動いた彼女が、ゆっくりと振り返った。


「剱は確かにアイドル顔負けの顔をしているけど、可愛いだけでなれるんなら、そんなのごまんと居るはずだ。大体、男が居るって公言してるような奴が、殆ど批判もされずに売れるなんて、おかしすぎる」

「だから、私が裏で手を引いてると」

「ああ。だって、そんなこと出来るの、おまえくらいのもんだろう」

「でも、そんなことをしても、私には何の得もないわよ」

「そうだな。それが分からない。だから、どうしてなんだって聞きたかったんだ。でも、おまえじゃないって言うんなら、そうなんだろう」

「私じゃないわ」

「そうか。わかった」


 私はそれ以上聞くつもりは無かった。多分、そうなんだろうという当て推量だったし、それに理由も友達だからとか、そんな些細なものだろうと思っていた。しかし、結論からすればそれは違う。これは恐らく、開けてはいけないパンドラの箱だった。


 谷川は少し考えた後、徐にこう言った。


「三郎君。大概、どんな神話の女神も嫉妬深いものなのよ」


 何を言ってるのか分からず、私がじっと顔を見ていると、彼女は表情を狼狽させながら、ギギギッと上半身だけ後ろを向いて顔を隠した。


「もう……言ってるこっちが、恥ずかしいじゃない」

「ん?? ああ、突っ込み待ちだったのか」


 顔は見えないが、彼女の耳の裏は真っ赤に染まっていた。やがて、落ち着きを取り戻した彼女は、改めて私の方を向いて、


「もっと、昔みたいに、雑に扱ってよ」

「ああ、これからはそうするよ」


 私が何気なくそう言うと、ぱっと表情を綻ばせて、彼女は嬉しそうに頷き、ドアノブを捻って廊下へと出た。周りにスタッフが居るようで、なにやら話しかけられて、徐々に仕事用の真剣な表情へと移り変わっていく。


 それから彼女は私の方からは見えない、廊下の奥の方で誰かを見つけ、悪戯っぽい顔をして手招きをし、そして私に向かって、「じゃあね」と手を振ると、後はもう決して振り返らないで、ステージへと歩み去っていった。


 はて、一体誰だろう。やがて、彼女が手招きした人物がドアの前に現れたとき、私は言いようの無い脱力感に見舞われた。


 目の前に、あの男が立っている。


 パリッとしたスーツを着こなし、背筋がシャンと伸びた偉丈夫だった。年は30台後半から40台半ばで、あと10年若ければ世の女性が放ってはおかなかったであろう、きりりとした眉毛と力強い瞳をした骨太の男で……かつて、剱のマネージャーだと、私を騙したあの男である。


 彼は心底申し訳ないと言った顔をしながら、流石にもう土下座はしないが、90度の礼をして、開けっ放しになっていたドアを閉めた。楽屋に取り残された私は、今度こそ腰が抜けたようで、暫くその場から立ち上がれなかった。


 谷川あさひは剱鈴を芸能界に引き入れたわけではない。私と彼女が上手くいかないように立ち回っただけだ。あの男は、どうすれば私の心が抉れるかを知っていた。どう言えば私が剱を遠ざけるかを知っていた。


 それは多分、私がアイコラを作ったから許せないとか、そんな理由ではなくて……


 大物を釣り上げたつもりでいたが、もしかしたら、釣り上げられたのは私の方だったのかも知れない。シクシクと痛み出した胃を擦りながら、どうにかこうにか勢いをつけて、私は立ち上がった。

 

 

 

 ホールの正面に回ったら、会長に見つかりしばかれた。


「すんませんすんません。もうしませんから!!」

「当たり前よ! どんだけ騒ぎになったと思ってるの! 受験生とかも見に来てるんだからね!!!」

「そうは言っても、俺がションベンしたんじゃないですし、ウンコもまだだったんですよ!?」

「キイイイーーーーー!!!!」


 ちびっ子にどやされている男を物珍しそうに見ながら、会場へと行列が入っていく。今日の公演のチケットを手に入れることが出来た、幸運な500人だ。


 会長に散々ボコられた後、私は当初の予定通り、会場内の二番出入り口の開閉係の役割を勤めた。邪魔にならないように、公演中の人の出入りを制限したり、ドアの開閉をする係である。


 この役をしながら、私は谷川あさひのステージをそのまま見るつもりだった。席は好きな場所が取れたが、最前列では気恥ずかしいし、それ以外だとちょっと余所余所しい。仕事をしながら、ついでに見てやるといった格好をつけたかったのだ。


 それに狭い会場なので、この中央付近の出入り口からは、会場内の全てが見渡せ、意外と穴場だったからである。なによりも、どうせ、途中で出入りしようとするものなど居ないだろう。


 やがて公演時間に差し掛かると、バタバタと人の出入りが激しくなった。曲が始まったら締め出されることを伝えると、大急ぎでみんな中へと入ってきた。


 人で埋め尽くされた観客席の照明が落とされて、前説のスタッフがステージに上がって、笑いを取りながら、いろいろと注意事項などを述べはじめた。


 そしてそれが終わると、ついに谷川あさひが登場する。


 しかし、会場はその出で立ちを見てどよめいた。衣装こそ、どこかで見たことのある、煌びやかなものだったが、彼女が手に持っているのは、アコースティックギターとパイプ椅子なのである。


 谷川は周囲の動揺などお構いなしで、ステージの中央に座ると、


「今日はみんな、ありがとう。せっかく集まってもらったのに、いきなりこんなことしてごめんなさいね。でも始める前に、ちょっとだけ許してもらえる? 実は、今日のために新曲を用意してきたのよ」


 途端に湧き上がる歓声。彼女はその歓声が収まるのをじっと待ち、


「元々、この格好でやるつもりだったから、伴奏はないの。弾き語りだけど、精一杯歌うから、どうかよろしくね」


 ギーっと音を立てて、私の受け持つ二番出口が薄く開く。


 本来ならもうルール違反なのであるが、私は扉を開いて中へ招き入れた。


 会場の誰かが、「なんて曲ー!?」と声を上げた。


「ただの弾き語りだから、何も考えていなかったのだけれど……」


 会場に入ってきた少女は、胸にいっぱいの花束を抱えていた。私はそれを受け取って脇に置く。すると彼女は私の隣に立って、肩を寄せてきた。


「そうね……『正しいアイコラの作り方』なんてどうかしら」


 突然、彼女のキャラではない下ネタが飛び出して、会場は面食らったようだった。会場は一瞬、しんと静けさが支配した。


 しかし、一番後ろで一人だけ爆笑している私に釣られて、笑いは徐々に浸透し、ウエーブのように哄笑が巻き起こった。


 谷川あさひは、流石にこれは無かったと思ったのか、恥ずかしそうに顔を赤らめて、それがまた可愛らしいので、会場からやんやの声が掛けられる。


 私の隣に立つ少女がクスクスと笑いを漏らしている。その姿に気づいたのか、谷川が懐かしそうな笑みを浮かべて、こちらに向かって手を振った。


「それじゃ、聞いてください」


 そして歌い上げられたその曲は、変な表題とは裏腹の、一人の少女の甘くて甘い、恋のメロディだった。私はその歌を聴きながら、隣に立つ少女の手を握るのだった。

 

(了)

 

 最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。

 お気に入り、感想入れてくださった方々、おかげで執筆の励みになりました。本当にありがとうございました。

 新作も書き始めたので、良かったらそちらの方も読んでやってください。相変わらず下ネタだらけの学園ラブコメです。ではでは。


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本作が映画になりました。詳しくは下記サイトにて。2月10日公開予定。
映画「正しいアイコラの作り方」公式サイト
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― 新着の感想 ―
[一言] すごく面白かったです。
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