正しいアイコラの作り方(中)
谷川あさひ来る。
別に大学がプレスリリースしたわけでもないのに、その噂は瞬く間に広まった。それも全国にである。
リリースする楽曲は全て大ヒット。レコーディングや取材などで海外を飛び回り、モデルとしても女優としても活躍している、いまや国民的大スターとなった谷川あさひは、その一挙手一投足がニュースになった。その彼女が仕事をドタキャンした上に、いきなりやったこともない学園祭営業などをし始めたことから、芸能記者界隈は結構な騒動になったらしい。
それが一流大学ならまだしも、聞いたことも無い地方都市の三流無名校である。しかもギャラもとんでもなく安いらしい。どんなドサ回りだよと呆れられ、その理由を尋ねられた彼女は、
「お友達がピンチだったので」
と涼しい顔でそう答えた。
その発言のおかげで、私達の大学で何が起こっているのかが、全国ネットで報道された。びびった相手は係争中の事件であるにも関わらず300万円を返済し、他の債権者に袋叩きにされていた。こちらとしては申し分ない結果なので、あとのことは知ったことでない。
しかし、そうなるとその友達とは誰だ? という話になるわけで……ほとんどバレバレではあったが、私は顔を隠して逃げ回る日々を過ごす羽目になった。騒がれることが嫌なのももちろん、剱のこともあるのである。私は交際を隠すつもりは毛頭ないが、それと身勝手な憶測記事を書かれるのとでは話が違う。芸能記者などろくな物ではなく、相手にしたくないなら逃げ回るのが一番である。
と言うわけで、好奇の視線から逃げる反面、文化祭実行委員の影の裏番的なポジションに居た私は休むわけにもいかず、仕方ないので文化祭までの日々をずっと、学校で寝泊りすることになってしまった。学校に一日中いるせいで、それまでも都合よく仕事を押し付けられた身であったが、もはや分刻みで何か面倒ごとを押し付けられ進退窮まった。
しかし、自業自得なのである。
何しろ、屋内ステージの出演者は、既に2組決まって話が進んでいたのだから、無理に増やさなくても良かったのだし、あそこで谷川に電話をかける必要もなかったわけだし、あまつさえ、その彼女に出演依頼をすることもなかった。せいぜい懐かしい話にでも、花を咲かせてれば良かったのだ。
谷川が入ってきたお陰で、様々なスケジュール進行に歪みが生じ、そのしわ寄せが私に来たところで、もうそれは自業自得としか言いようが無い。
特に、屋内ステージの運営に関しては、結果的に全て私が交渉窓口になってしまったのだから、もはや最後まで面倒を見ないわけにもいかないのである。
ストレスで頭がいい感じにスパークしてきた私は、ニタニタと笑っているところを目撃され、文化祭実行委員たちから物凄く怖がられた。
いいだろう……どうせ逃げられないなら、思い切り祭りを楽しんでやろうじゃないか。
私は傍らに散乱していた、空白の出店計画書を鷲づかみ、校内の地図を広げた……
谷川あさひが出てきたせいで、びびったのは何も芸能記者や、エージェント会社だけではない。我が大学の事務局もびびっていた。その知名度が宣伝効果になって、翌年の受験生増加が見込めて、ウハウハであるのも確かであったが、当日、どのくらいの人間が大学へやってくるか、まったく見当もつかなくなってしまったので、警備の計画がさっぱり立たないのだ。
元々は学生任せで基本ノータッチであったが、流石にこの全国的に注目されている状況ではそうも行くまい。学校は谷川の事務所に、当日の警備についてお伺いを立てたのであるが、
「タレントがオフに勝手にやってること。つーか、あんたら、あのドタキャンでいくら飛ばしたと思ってるんだ!!」
と凄まれて私に泣きついてきた。正直、私も事情をよく理解してなかったので、谷川に電話して聞いてみると、
「電話に出た人の名前は?」と聞かれ、「そう、あの人。わかったわ」と言って電話を一旦切り、その後しれっと、「クビにしてやったわ」と電話をかけ直してきた。ヤクザな世界である。
あの県道3号線の渋滞の中で谷川に電話をかけたとき、彼女は私の窮状に耳を傾けた後、「そう、わかったわ」とそれ以外の不必要な台詞はまったく吐かず、出演依頼を快諾した。彼女くらい大物なら、そういう無茶も通るものかと勝手に思っていたが、そんなわけないらしい。
彼女は私に依頼を受けると、その一日を無理矢理オフにするようにねじ込んできた。そのせいでスケジュールの延期で各社に頭をさげ、キャンセル料をふんだくられた彼女の事務所は大変憤慨していたそうだが、
「あのなあ、おまえ、そんなことしたら、当日のスタッフどうするつもりだったんだよ。移動とか、バックメンバーとか」
と問うと、電車に乗ってやってきて、アコースティックギター片手に何曲でも歌うつもりで、後のことは特に何も考えていなかったようである。
「これなら、一日中でも付き合えるわよ」
と嬉しそうに語った声が、かつてのトラウマを蘇らせ、うれしいやらドン引きするやら複雑な思いをしたが、事務所の方は卒倒するほど肝を冷やしたらしい。こいつに任せておいたら、何をやらかすかわからない。そう思った事務所側は手のひらを返して、こちらに協力的になった。
まあ、先の暴言はあったが、お互いビジネスライクに行きましょうと言うことで手を打って、谷川は要らないと言ったが、バックメンバーやスタッフの賃金は支払われるべきだと、出演交渉を改めて行い、お友達価格でどうにか許してもらった。ところで、例のスタッフはマジでクビになってないだろうな。
とまれ、被害にあった運営資金も帰ってきて、大学が警備の面倒も見てくれるということで羽振りが良くなった私達は、改めて出演者と契約交渉を行った。始めはほとんどボランティア価格だった出演料が、一気に50万円まで跳ね上がったインディバンドは滅茶苦茶喜んでくれた。せっかくだから野外ステージでも一曲やらせてよ、と言ってきたので、スケジュールを開けて時間を確保した。
続いて剱の事務所に電話をかけ、もうお馴染みとなった女性マネージャーにことの経緯を説明すると、「新人なのにそれは貰いすぎですね。ありがたく頂戴しますけど……それよりインディバンドにそんなにあげちゃ駄目じゃない。なんてバンドなのかしら」と説教された。
さて、出演交渉を終えた私は、今度は自分のことに取り掛かった。
どうせ文化祭が終わるまで家に帰れないのだ。だったら私も出店して、そのテントを仮住まいにしてしまおうと画策したのだ。何しろ学生会館は引っ切り無しに人が出入りして落ち着かない。それに谷川の事務所と学校のやり取りを聞いていたおかげで、私は当日の警備状況を詳しく知っていた。
谷川の事務所が言うには当日の警備員の配置が甘いらしい。私達の学校は2つの校門があるが、普段一番使われるのは最寄り駅からのスクールバスが停まる西門であり、そちらと駅までの間に警備員が多く配置されていた。しかし、当日は何も知らない学外からの来客の方が多いと予想されるので、実際に人が多くなるのは遠いターミナル駅からの路線バスが停まる正門。そして、案内のためにそのターミナル駅に臨時バスと、人員を配置すべきだと指摘された。
それを聞いた私はすぐに校内の地図を広げた。運動部やサークルの出店は、どこもかしこも普段の来客を意識してか、西門付近から埋まっていき、野外のメインステージのある広場の手前までに集中していた。しかし、彼らの指摘が確かなら、実際に人通りが見込めるのは、正門から広場へ至る桜並木の方である。ところがここは人気が無くて殆ど出店が無い。
私は広場の手前の一等地にテントを確保すると、申請書を適当に書いて自分で受理した。出店計画書も『粉もん屋』と書いてこれまた有無を言わさず受理した。実際、儲けようと思ったらなにか粉もんだろう。それより一人で店番は出来ないから人員を確保せねばならない。月山、高尾はどうせ暇だろうから手伝わせるとして、あとは……粉もんのメッカと言えば関西だ。関西の知り合いに電話を入れた。
「もしもし、穂高か? バンドやろうぜ」
そして迎えた文化祭初日。私達は認識の甘さを痛感することとなった。
文化祭初日は比較的静かに始まった。しかし、時間が経つにつれ客足がどんどん伸びてきて、正午を迎える頃には、前年の3日間トータルでの入場者数を超え、正門でパンフレットを売っていた文化祭実行委員に悲鳴を上げさせた。
警備員を増強し学内外に飛ばしていた事務局が、明らかに人員不足であることを痛感し、学生自治会に救援を要請してきた。
元々、自分たちがやるはずだった仕事であるので、対応はスムースに行われたが、それにしても例年にない人ごみにトラブルが絶えず、本部はてんやわやの大騒ぎとなった。
問題は人的トラブルだけではない。
出店するだけして、殆ど寄り付きも出来なかった私の出店であるたこ焼き屋は客足が途絶えず、留守番をしていた月山から溜め息混じりの連絡が来た。とにかく凄い行列だから人手が欲しい。あと、穂高が関西から連れて来た、たこ焼き番長なる人物が、涼しい顔で水を継ぎ足しているからなんとかなってるが、三日分用意しておいた材料が尽きそうだ、とのことだった。
委員を巡回させると他のサークルも似たようなもので、どこも仕入れ不足に悩んでいた。昼を過ぎれば多少落ち着くだろうが、文化祭は3日間ある。そして仕入れをしようにも、週末である。
私は月山に逆に泣きつくと、「ああ、わかったわかった」と二つ返事で商店街の伝を辿り、三軒の卸問屋から御用聞きを呼んでもらえた。ただし、配達はしていない。トラックはレンタルするとして、中型免許の所持者を探したが思ったよりも少なく、駄目もとで大峰に電話してみたら、「日当出るっすか? 行きます行きます」と凄い乗り気だったのでお願いする。流石、日雇い派遣の星である。
こうして食糧事情をどうにかこうにか回避した私達であったが、それにしてもこの大騒動は一体どういうことだろう。
高尾が連れてきたインディバンドは、想像よりもずっと大物だったようだ。
ライブ会場であるホールの前ではダフ屋行為が堂々と行われ、警備の自治会員と揉め事を起こしていた。よく見るとあちこちで、なにやら機材を片手に熱心にその様子を撮っている人たちが見える。
あとで知った話だが、有志が会場に入り、今日のライブを生中継していたそうだ。それは良い宣伝となり、2日目、3日目に繋がった。彼らは野外でも、集まったファンのためにもパフォーマンスを行い、ライブは大好評で幕を閉じた。
初日の人数の多さに、私達は心を折られかけたが、流石に2日目は一転して穏やかなものだった。
前日の人出に釣られ、近隣の小中学生が興味を持ったようで、爺さん婆さんを連れて遊びにやってきた。子供が喜びそうな出店はあまりなかったが、ゲーム研が密かに大会を開いて大盛況だったらしい。
来場者がお腹を空かせないように、出来れば損失覚悟で仕入れてくれと、各サークルに通達していたせいで、午後を回ると売れ残りを気にした安売り合戦が始まった。それが噂になって人を呼び、穏やかながらも活気のある声がキャンパスに響いた。
2日目の出演を依頼していた剱の事務所のグループの公演が始まると、前日のインディバンドの生中継を真似た彼らは機材を持ち込み、メインステージでパブリックビューイングを始めたので、それなりに盛り上がった。ネット中継も前日の流れでかなり話題になったらしく、いい宣伝になったとほくそ笑んでいた。
「あれで50万なら安い買い物だったわね」私の肩をポンと叩いて、剱のマネージャーがいい笑顔で帰っていった。今回、この人が一番得したのではないだろうか。
そして三日目は……いや、もう何も言うまい、とにかく地獄だった。
初日に予行演習が出来たので、危機感を持った事務局が警備を当初の予定よりも多めにしておいたので、かなり安定しており、また騒ぎを見越して警察が交通整理に出ているらしく、特に外でのトラブルは聞こえなかった。最寄り駅には的屋が便乗してやってきているそうだ。
しかし校内は一転して酷い有様だった。元々、学生数の少ない医大である。来場者数は当初の見込みどおり1万人を超えたのだが、これだけのキャパを収容するような学校ではないのだ。ただ詰め込むだけなら十分なスペースがあるが、これが出店などで行列が出来れば、それがボトルネックとなり、すぐに渋滞を起こす。
もうなりふり構ってられないので、女生徒も総出で交通整理に借り出され、出店はとにかく列が出来ないように死ぬ気で回転させろと通達された。
私の店は一等地にあったので、もう本部には行かずに店のほうを手伝っていた。しかしなにかトラブルがあると委員がやってくるので、その内、月山らがイライラし始めた。
「おめえんとこの学生は赤ちゃんかよ」「それくらい自分で考えろ」「ああー、そこ立ち止まったら駄目だろ」「裏から来い、裏から」「あああ、もう!」「さっきから金玉痒いんだよ!」「誰か持ち場変わってよ!」「もしくは金玉掻いてよ!」「おめえら下品なんだよ、黙ってろ!」「うっせえDT!」
罵り合っていたら、客も手伝いに来ていた連中もドン引きしていた。
大体、1万人もなんで来るのだろうか。会場に入れるのはチケットを持っている500人だけなのだ。
昨日一昨日の出演者と違って、今回はイベントのプロが興行を打つので、ネット中継もパブリックビューイングもない。もしかしたら、一目だけでも見れるかも……という淡い期待だけで、これだけの人数が集まるのだ。わけがわからない。
委員の報告によれば、谷川のファンクラブ会員が、お揃いのハッピを着て大挙して押し寄せ、グラウンドを貸して欲しいと言って来た。そんな集団が道を占拠したら、流石に詰んでしまうので通したそうだ。グラウンドには何も無いのだが、何をやってるのか聞いてみたら、北朝鮮のマスゲームみたいにオタ芸を延々と繰り返しているそうだ。谷川が歌っている時間を共有し、一体となって我々も踊るのだとかなんだとか……もう勝手にしてくれ。
来場者数もピークに差し掛かった午後2時過ぎ、西門から黒塗りのベンツ集団が乗り入れた。その装甲車みたいな車の周りを屈強な男たちが囲み、ぐいぐいと人ごみを押して車を通す。会場となるホールの横につけると、扉が開き、ちらっと谷川の姿が見えた。
脳震盪を起こしそうなくらい、キンキンと、でっかい声が辺りにこだました。
谷川は軽く手を振って、会場内へ入っていった。まさに一瞬のことである。
たったこれだけのことに、1万人の人が熱狂するのだから、私達は一体何をやってるのかと、自分を見失いかけてしまう。余りにも人としての存在価値が違いすぎるのだ。
『ツインテールさん、出番です。ツインテールさん、いませんか?』
目の前の野外ステージの進行役が叫ぶように言った。
「おう、来たか」
「そんじゃ行きますか」
「すんません、大峰さん、あとよろしくお願いします」
「じゃあな、番長。死んでくる」
私達は上着を急いで脱いで、おそろいの黒ジャケットを着込むと、それぞれの楽器を手に持った。私は当然手ぶらである。
『さっきの歓声で聞こえなかったかな? ツインテールさーん』
楽器を掲げてステージに近づいていくと、相手も気づいたようだ。予めお願いしておいた機材をセッティングし始めてくれた。
「結局、一回も合わせられなかったな」
「まあ、なんとかなるだろ」
「いつものことだし」
「そもそも、俺たちのは音楽じゃねえらしいしな」
ステージに近づいても、先ほどの余韻で上の空なのか、誰も私達のことなど気にしちゃいなかった。正直なところ、出演タイミングは最悪だ。
「なんか掛け声ちょうだい」
「来場客を脱糞させてやろうぜ!!」
「おうっ!」
「おー」
しかしもう、やるしかないだろう。こちとら、とっくに脳みそがスパークしてるんだ。私達は下手から上方漫才のカルテットのような格好でステージに上がった。
乱れる息を噛み殺して、雑木林を抜け、池を飛び越え、雑草に身を隠し、人ごみに紛れて逃げ回った。
私は現在、大勢の男たちに追われている。
「居たかっ!?」
「こっちだ!!」
漫才師みたいな私達のパフォーマンスはその場にいた観客の失笑を買った。次々と繰り出される親父ギャク、往年のコミックソング。恥も外聞も無く寒いギャグを飛ばし、阿呆なパフォーマンスを繰り広げ、上半身裸になって奇声を発し、放送禁止用語を連呼し出したところで、ようやく会場の空気を掴んだ。
そうなりゃこっちのもんである。エアギでキ○ガイのように、ぴょんぴょんする私を中心に、穂高と高尾がアホにしか見えないがクオリティの高い演奏を始めると、ステージはそれなりの盛り上がりを見せた。だが、曲が進むにつれ興奮した穂高がエレキギターを叩き壊し、おもむろにそれに向かって放尿したところで、私達はステージから引きずり下ろされた。
「ええいっ、離せっ! まだウンコが残っている!!」
羽交い絞めにされながら、尚も叫ぶ穂高を残して、月山、高尾、私は三々五々逃げ出した。こういうのは相手が冷静になるまで逃げ回るのが吉である。しかし……
「あっ! こら待てっ!」
と、よせばいいのに、ステージ進行役が追いかけてきたので、このざまである。
当局に追われ、身を隠しながら進む。見ればトランシーバーまで使って、本格的に私達を狩りだすつもりでいるらしい。そんなことしてないで交通整理して欲しいのだが……本部は何をやってるんだろう、と思ったところで、はたと気づいた。
もしかしたら、この話を聞きつけて、本部で会長が怒ってるのかも知れない。一応、あの人が最高責任者なのだ。
だとしたら面倒なことになったな……とは思いつつ、私は捕まる気は毛頭無かった。どうせ谷川のステージが終われば、もう後夜祭しか残ってない。
「居たぞっ! あそこだっ!」
背後で声が上がった。しまった、見つかったか、しかし、人ごみが邪魔でまだこちらに分がある。私はダッシュで角を曲がると、すぐ傍に停められていたベンツの影に身を隠した。追いかけてきた男たちがバタバタと足音を立てて通り過ぎる。馬鹿め……ほくそ笑みながらベンツの陰から顔を覗かせ見送ると、
「富岳さんですね」
いきなり真横から声を掛けられ、心臓が飛び出そうなほど驚いた。背後に気配を消した女性が立っていた。殺し屋かよと、思わず逃げ出しそうになったが、よく見れば見知った顔である。谷川の出演に関して何度か本部にやってきた、彼女の事務所の人だ。
「谷川が呼んでいます。よろしければご同行願えませんか」
「マジっすか?」
谷川のステージはもちろん見るつもりでいた。ステージのあとに花束を持って、楽屋を訪れるつもりだった。そういう段取りでいたから、この言葉に思いがけず驚いたが、もちろん、行かないわけがない。
「すぐ行きましょう、ステージまで時間が無い」
「あ! 富岳居たぞ! 捕まえろ」
通り過ぎた男たちが戻ってきて私を見つけた。どうしようか迷うまでも無く、彼らは突然現れた黒服の男たちに阻まれ、こちらを苦々しそうに見ていた。
「富岳! 行くなあ! そっち行っちゃ駄目だ!」
「戻って来いっ! 富岳えぇっ!」
なんだかヤクザにでも連れ去られるヒロインみたいな気分になった。
会場となるホールは500人収容の式典用ホールで、私は入学式のときに一回しか入ったことが無い。学校としては外部向けの公演などで使うために建てたようで、学生には使わせなかったからだ。従って、その中身を殆ど知らなかったが、入ってみたら普通のコンサートホールのようなものだった。音響もそれなりに良いと、剱のマネージャーが言っていた。
裏口からホールに入ると、すぐに出演者用控え室がずらりと並んだ廊下に出た。
こんなに沢山いらねえだろ……と、キョロキョロしながら通路を進むと、イベントスタッフが忙しそうに何人も何人も通り過ぎる。いくらなんでも、ただの学祭のステージくらいで過剰すぎるだろうと呆れていると、通路の一番奥の部屋へと案内された。
あたりにピリピリとした緊張感が漂う。この近辺だけ空気が違うようだった。
女性が素早く5回ノックをすると、中からどうぞと声が掛かった。凄く澄んでいて、良く通る、お馴染みの声である。手を差し伸べ、入室を促す女性に一礼し、私は覚悟を決めて扉を潜った。
室内には夥しい数の花束が飾られており、鼻がグズグズ鳴りそうになった。一体これだけの花はいつ届けられたのか。
備え付けの姿見の前に谷川が座っていた。鏡越しに私を見つけ、嬉しそうに顔を綻ばせて振り返ろうとして、スタイリストやヘアメイクに怒られていた。私は胸の高鳴りを抑えつつ、壁際に背をやると、目をじっとつぶって気を落ち着けた。室内はやたらと明るくて、目が滲みそうになった。鏡の中からチラチラとこちらを窺う瞳に、感情が抑えきれなかった。
やがて彼女の準備が整うと、スタイリストたちが一礼して出て行った。二人きりになった私達は、どちらから声をかけていいやら分からず、長い長い沈黙のあとに、ようやくありきたりな言葉を交わすのだった。
「久しぶり」
「久しぶり」
「元気してたかしら」
「そりゃあもう。そっちは……って元気だよな、テレビで毎日見かけるし」
「あら、三郎君。私の番組見てくれていたのね、嬉しいわ」
「自重しろって言ってるんだ。見たくなくても勝手に流れてくる」
「ふふ、酷いわね……ねえ、座ったら?」
私は椅子に手をかけて、そこへ座ろうとしたが、腰が抜けたかのようによろめき、たたらを踏んだ。バツが悪くなって目を逸らし、仏頂面を作ってドスンと椅子に腰掛けた。谷川がじっと私を見ている。何をやっているのか。溜め息を吐いて私は言った。
「いや、緊張しているみたいだな。体が凄く、ガチガチだ」
「そう……おかしなものね。私もそうなのよ」
そう言って、照明に掲げた彼女の手が小刻みに震えていた。意外なものを見せられて、はぁ~と溜め息が零れ、それから私達は声を出して笑った。
「久しぶり」
「久しぶり」
どうして私達は、こんなちぐはぐなやりとりを続けているのだろう。
彼女の顔なんて、懐かしくもなんともないはずなのだ。お互いを尊重しあうかのように、一つ一つの言葉を慎重に選びながらでないと、何も言葉を発せないなんてことは無いはずだ。あんなに一緒だったのに、こんなにも近くにいると言うのに、今の私達は何万光年も離れているかのような、心の隔たりを感じていた。
しかし、私はそのことに、悲しさを覚えるよりも、ずっと暖かい郷愁を抱いていた。これが彼女が思い出に変わってしまったと言うことなのだろうか。
「……まあ、緊張しいも仕方ないけど、時間もないし」
「うん」
彼女が、じっと私のことを見つめている。
「改めて、今回はありがとう。助かった。無茶させたみたいだな。主にスタッフに」
「本当に、酷いわね。そして、変わらなくて嬉しいわ。でも、私も無茶をしたのよ。仮に、芸能界を引退しても、構わないつもりで来たのだから」
「そんな覚悟せんでいいわ。つーか、マジな話、簡単に話しに乗りすぎだろ」
「そうかしら」
「そうとも」
「でも、乗らなかったら、こうして私達が話していることも無かったと思うわ」
確かにそう思う。しかし、それは少々解せなくもある。それじゃまるで、ずっと私に会いたかったかのように思えるではないか。
「……まあ、そうだな。しかし、それはおまえが俺に電話して来ることがあれば、別の形で実現したんじゃないか」
「そうかも知れないわね」
「なんでそうしなかった」
「そうね……それは、三郎君から電話が来るのを待っていたからじゃないかしら」
おかしなことを言う。つまり自分から電話をかける気がなかったと言うのだ。でも私は着信拒否をされていた。明らかに矛盾している。埒が明きそうもないので、私はさっさと核心部分を訪ねるつもりだった。何しろ時間がないし、あの夏の日以来、ずっと気になっていたことなのだ。
「……最後に会った日のことを覚えているだろうか」
「ええ、もちろん」
「あの事件のあった日。おまえは俺の家に来て、まるで自分が犯人であるかのように振る舞った。でも、事件が解決してみれば、それは絶対有り得ない。あれは結局のところ、俺のことをからかっていただけなのか」
「そうね。あの時の三郎君、とても可愛かったわ」
くすくすと笑い、彼女はそうだと言い切った。苦々しくも思ったが、この女ならこれくらいエキセントリックなことは平気でする。腹を立てたほうが負けだ。先を続ける。
「……なら、何故その後、俺の携帯を着信拒否して街から出たんだ?」
これが最大の疑問である。
「まるで犯人みたいじゃないか。いくらなんでもやりすぎだ。このせいで、俺はおまえが事件に関わりがあって、逃げ回ってるんじゃないかと、ずっと気になっていたんだぞ」
「だとしたら、ごめんなさいね。でも、もう良いじゃない。私は犯人じゃなかったのだし、こうして三郎君とも再会したのだし」
「駄目だ。俺がどんだけ頭を悩ませたと思ってるんだ」
「そうは言っても……剱さんから聞かなかったのかしら」
心臓がドキリと鳴った。剱が知ってる? どう言うことだ……私が動揺してるのを見て取ると、残念そうな顔をしながら、彼女は言った。
「知らない方がいいわよ。だって知っても、誰も得しないのだし」
私は胸に渦巻くモヤモヤした感情を、どうにかやっつけながら、なおも尋ねた。
「損得の問題じゃないだろう。理由があるなら、はっきり言ってほしいんだ」
「……どうしても、知りたいのね?」
「ああ、どうしてもだ。頼むよ」
すると彼女は、はあ~っと溜め息を吐いてから、あさっての方向を向いて、上の空でこう言った。
「だって、あなた、アイコラ作ってたじゃないの」
それは全く私にとって寝耳に水で……私は息をするのも忘れて固まった。
「アイコラ、作っていたじゃない」




