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テツヤコムロの略なのか、トマトケチャップの略なのか

 アナボリック・ステロイドの副作用といえば、様々な例が挙げられるだろうが、その最たるものはオナニーが気持ちよくなくなる、と言うことに違いない。


 贔屓(ひいき)にしている球団の外国人助っ人が毛生え薬(ドーピング)で解雇された。このところの絶好調で、ついに万年Bクラスからの脱出も夢ではないぞ、救世主よ! と(あが)(たてまつ)った矢先の出来事である。


 そんなのあの球団のあいつもこいつもやってるじゃねえか、怪しいやつの小便片っ端から検査してから言えよ。国民栄誉賞を貰ったあいつだって、アメリカ行ってからの筋肉のつき方とかおかしかっただろ。何食ったらあんなんなるの……


 と、関係各所からお叱りを受けそうな負け惜しみをのたまっていたら父曰く、


「あの焼肉とAVが大好物のかの御仁が、そんな恐ろしい副作用のある薬に手を出すはずがあるものか!」


 と言われては黙るしかなかった。


 なるほどそれは恐ろしい。90へえくらいあげてもいい。父の取って置きのトリビアである。


 因みに彼のご贔屓であるジャイアンツは今日も勝ち、連勝街道まっしぐら、このままではオールスター前にマジックが点くんじゃないかと気が気でない。


 腹いせに彼の大事な焼酎をぐびぐびやってみせ、


「あっ! てめえこのやろっ! 酒の味も分からねえ青二才が」


 取っ組み合いになった挙句、ドタバタ大暴れしていたら、鬼の形相で母親がすっ飛んできて、二人揃って(ボコ)られた。


 そして借りてきた猫みたいに背中を丸め、険悪な雰囲気のまま、プロ野球ニュースを二人無言で見ているとき、私はふと既視感(きしかん)を覚えたのである。


『本日はナイトゲーム6試合、まずはセリーグの試合結果から。名古屋ドーム、中日vs広島3回戦……』


 はて、なんであろうか? と見つめた画面の片隅を、何か見覚えのある文字列がちらりと(かす)めていった。


 もうちょっとで何かを思い出せそうだと、じっと見守っていたら、キャスターの読み上げた言葉に、ようやくその何かを思い出す。


『続いてパリーグ3試合、まずは首位決戦、ロッテvs日本ハム。千葉マリンスタジアム……』


 えるしってるか……


「世の中には、ロッテvs日本ハムというタイトルのエロ本が存在する」


 なんとなくトリビア勝負を挑んでみたら、父親は度肝を抜かれたようだった。


「うん? ロッテvs日本ハムが、どうしてエロ本になるんだよ、嘘ついてるんだろ……いやしかし、ロッテという女の子が日本ハムと絡むとかなら在り得るのか……?」

「中身まではわかんねえ。昼間、偶然売ってるの見つけたんだ。その場はスルーしたんだけど、よく考えるとすげえよな」

「……え? 本当に売ってるの?」


 興味を示した父親と、その後ロッテは女の子だと仮定して、日本ハムとはなんぞや。ハムなのかデブなのか、それとも日本ハムのユニホームを着てるだけの男か。いや、男とも限らない、文字通り日本ハムのソーセージなのかも知れない。いやいや、もしかしたらロッテのユニホームを着た男が、日本ハムのユニホームを着た女と絡んでるのかも知れない。いやそれどころか、日本ハムをオナホールにして、ただのおっちゃんが云々かんぬん……などと喧々諤々(けんけんがくがく)やっていたら、父親がアルコールでいい感じに出来上がった脳みそで、後先考えずに、


「ああ、いけねえ、いけねえ、じわじわくる……おい三郎、おまえちょっと酒買って来い」などとのたまい五千円札を手渡してきた。「釣りはくれてやるからよ……」


 言わんとしていることは良く分かった。その心意気やよし。


 私は何も言わずにそれを受け取ると、尻に敷かれてぺちゃんこになったデイバッグを背負い、深夜の町へと飛び出した。なんでそんなの背負ってるの? と怪訝そうな顔で問うてきた母親は、マイバッグ持参はエコの基本と言って煙に巻いた。


 ママチャリを取りにいこうと裏庭に回り、経年劣化でペダルを漕ぐたびにキーキー音を立てるそれをガチャガチャやっていると、まだ明かりの点いていた隣家の二階のカーテンがゆらゆらと揺れた。


 あいつ、まだ起きてるのか……


 ちらりと視線だけで確認し、えっへんおほんっ! とワザとらしく咳払いをきめて、泥棒ではありませんよとアピールする。そして垣根の取っ払われた隣家の軒先をすり抜け、住宅街の狭く緩やかな下り坂を、ゆっくりとママチャリで滑り降りていく。


 深夜1時過ぎの住宅街は静けさに包まれ、自転車を漕ぐ音だけが耳障りに響いた。


 我が家はJRの駅からまあまあ遠い高台にあり、家の目の前には、まるで時を駆けてしまいそうな長い坂が延々と続いている。


 行きはよいよい帰りはこわい。夏の夜露にべたつくTシャツをパタパタさせながら、快調に下り坂を飛ばすと、高速道路の赤いテールランプの川の向こうに、おぼろ月夜に皓々(こうこう)と、見知った顔が浮かび上がった。


 その清涼飲料水の宣伝看板は、周囲のどれよりも一際大きくその存在を知らしめており、うな垂れて歩いてでもいない限り、目に触れないことはあり得なかった。


 真っ青な空と白い砂浜、無邪気に微笑む少女の手には水の滴るペットボトル。数年前に小学生の子役としてデビューし、いまや売れっ子となったアイドル歌手、谷川あさひ、我が家の隣人である。


 自分の家から出たらすぐに、自分の看板がこれ見よがしに掲げてあるとは、どんな気分なのであろうか。


 考えるともなし考えて、コンプレックスを刺激するその美しい顔から逃れようと、前傾姿勢で全力で自転車を飛ばした。




 昼間でも薄暗いその県道は深夜であれば尚更暗く、辺りには人っ子一人いなかった。


 数年前に街灯をLEDに変えたは良いものの、指向性の高い照明のせいでいまいち光量調整がおぼつかず、以前の薄暗さに輪をかけて、隣を歩く顔の見分けもつかないほどに真っ暗になった。逆に明るくなるといった気の利いたボケなどかまさない。


 高架を走る高速道路とは打って変わって、下道は交通量がほぼゼロで、もはや街灯代わりにしかなってない30メートル間隔の信号を無視して、気の向くままに自転車を走らせた。


 雑居ビルはその殆どがオフィスであるのか、窓から漏れる明かりはほぼ見当たらない。これでコンビニと自動販売機の明かりが無かったら、世紀末のごとく犯罪天国であったに違いない。


 ぎゃぎゃぎゃっと盛大なブレーキ音を響かせて、目的地の芳賀(はが)書店へと到着。薄暗い街灯の下にママチャリを止め、辺りを見渡す。


 数十メートル先のコンビニの前には誰もおらず、遠い国道のほうから自転車が一台ゆっくりと走ってきているくらいで、誰に見咎められる心配もない。尤も、見られていたところで躊躇するような性格でもなし、鼻くそをほじりながら路地裏へと足を運んだ。


 ブラックライトはそれが発する光自体は明るくないが、照らされた物体を光らせるという性質があるため、間接的にであるが意外に眩しい。そのため、昼間は点いていた電気を落とされた路地裏は、手探りで進まなければいけないほど真っ暗で、なんで普通の蛍光灯を使わなかったの? と、亀田を問い詰めたい気分にさせられた。


 もしくは暗幕が開いていたら、自販機の明かりでそれなりに明るかったかも知れないが、こちらの方も日中に訪れたまま、ぴったりと閉じられていた。


 防犯意識とは違うのだろうが、まあ、一応成人コーナーであるし、隠したいという気持ちは分からないでもない……頭上にはオモーロビデオの文字列が掲げてあったが、こうも暗いと昼間に見たときのような滑稽さは感じられず、その意味不明さは不気味さに拍車をかけた。


 とまれ、中で何者かがハッテンしていないか慎重に確かめつつ、暗幕をめくると、私は滑るように自販機コーナーへと入っていった。


 室内は昼間の暑さと自販機の熱気とで蒸し暑く、冬場であるなら快適であったろうが、今は残念ながら夏である。ゆだってしまう前にさっさと用事を済ませようと、件のエロ本がどこにあるのかきょろきょろと見回す。


 別段、隠しているわけでもないから、あっさりとそれは見つかった。


 複数ある自販機の一番端の端っこに、金髪の姉ちゃんを表紙にして、一見するとマジックの手書きと見間違えてしまいそうな投げやりなフォントで、ロッテvs日本ハムと書かれたそれは存在した。


 すると彼女がロッテであろうか……


 買う気満々であった私の動きは固まった。


 その表紙では、野球のユニフォーム(ロッテでも日本ハムでもない)を着た金髪の姉ちゃんが、胸元をはだけて微笑んでいると言うかニヤついていると言うか、なんとも微妙な顔で愛想を振りまいていた。


 野暮ったいというか腫れぼったいと言うか、バタ臭いというか油ギッシュと言うべきか、アメコミのように骨太い姉ちゃんがである。欧米スタイルと言えば聞こえがいいかも知れないが、スタイルが欧米であると言えば何となく分かるだろうか。多分、あそこもガバガバだ。


 ユニフォームで巧妙に隠されているが、腹はおそらく三段腹であろうし、安産型と言うより雲竜(うんりゅう)型と言った方が分かりやすいケツを見て、私はもしかしてこいつはロッテではなく、日本ハムなんじゃなかろうかと思うようになってきた。


 これを買うのか……


 なかなか勇気のいる作業である。


 何が嫌かって、いっそ店頭販売であるなら、「YO! YO! 俺はこんな有り得ないエロ本を買っちゃうんだぜ!」とドヤ顔の一つも決められるものだが、相手は無人の自販機である。こんな微妙を通り越してドン引きしそうな代物を、コソコソ人目を避けて買うという行為そのものが、とんでもなくストレスなのだ。


 私は逝くときは前のめりに倒れて逝くようなオープンなHENTAIでありたい。


 結局、証拠さえ親父に見せればいいのだから、写真だけ撮って帰ればいいんじゃないか? などと二の足を踏んでいると、


 ――キィ~ッ! ガチャガチャガッチャン! と、自転車を停める音が響いた。


 コンビニはまだ数十メートル先である。こんな離れた場所に停める理由は無い。


 とすると、やはりここに用事がある人間なのか。


 おいおい、まさかエロ本の自販機コーナーで同志と鉢合わせしてしまうのか?


 コツコツと足音が近づいてくる。


 入り口からすぐ見える場所には、警察官立寄り所とこれ見よがしに看板がかけられていた。普段は気にも留めないが、こういう時だけ目に飛び込んでくる。


 さてはまさか巡回にきた警官ではあるまいか。


 逃げようにも袋小路。隠れようにもそんな場所など無い。


 お手上げ状態で、ドキドキと早鐘を打つ鼓動を抱えながら、息を潜めて成り行きを待った。


 もしも誰かが入ってきたらどうしていいのか、頭が真っ白で何も考えられなかった。一体何者かは知らないが、この際、補導されても構わないから、すまないがホモだけは帰ってくれ……


 果たして神への祈りが通じたかどうかは知らないが、足音は暗幕の向こう側をそのまま素通りしていった。


「おいおい、なんだよ、びびらせんなよ」


 安堵して、思わずため息が漏れる。


 どちらにしろ、入り口に書かれている通りに警官の立寄り所である。もし鉢合わせしたなら補導は免れない。


 あんまり長居しているわけにもいくまいと、私はそれまでの逡巡を綺麗さっぱり忘れて、さっさとエロ本を買うため財布から五千円札を取り出した。


 五千円札である。


「って、自販機で使えんがな!」


 ドゲシっと、自販機に突っ込みを入れた拳がひりひり痛んだ。


 この自販機は馬鹿高いエロ本ばっかり売ってるくせに、高額紙幣は使えないときている。これだけ何台も自販機を並べて電気代も馬鹿にならないだろうに、本当に売る気はあるのだろうか。


 コーナーの存在そのものに疑問を抱きつつ、私は仕方なし、お金を崩しにコンビニへと向かった。もう写メだけ撮って帰ればいいと思うのであるが、半ばやけになっても居たし、父の言う酒をかって来いの言葉は、文字通り酒も買って来いとの意味であるから、結局はコンビニにも用はあるのだ。




 本当に20歳? と言わんばかりの目つきの店員に、堂々と20歳ですと宣言しつつ年齢確認ボタンを押して店を出る。酒とつまみを買ったお釣りをジャラジャラさせながら、再度芳賀書店の路地裏まで帰ってきた。


 そして、エロ本コーナーへと足を向けた、その時である。


 ふと、路地の奥……というか、路地を抜けた裏通りで人影が揺らめいた。


 そこにはテツヤコムロの略なのか、トマトケチャップの略なのか分からないが、入り口にでっかく『TKビル』なる看板を掲げた、赤茶色の雑居ビルがあった。


 問題の人物は、そこから首だけを突き出して、辺りをきょろきょろ見回している。


 何か見えるのか? それとも誰かを探してる? 高速道路から聞こえてくる車の音を除けば、閑静な住宅街は静けさに包まれており、人通りは全くない。


 何をそんなに気にしているのだろうと、好奇心の赴くままに近寄っていくと、それがよく見知った顔であることに気づいて、尚更興味が沸いてきた。


 谷川あさひ。すぐ傍にはでっかい看板も掲げられている、おらが街の売れっ子アイドルである。


 はて、一体どうしたことか。


 そりゃ、近所に住んでいるのだからこの場にいてもおかしくないが、それにしたって意外すぎる。やたら辺りを気にする素振りもさることながら、時間が時間でもあった。好奇心が刺激されないわけにはいかない。


 不自然極まりない彼女のその仕草に首を捻りつつ、私は裏通りまでテクテク歩を進めると、同じように左右を見回した。


 裏通りは信号やコンビニが無いせいで、表の県道に輪を掛けて暗かった。


 正直なところ、女性が一人で歩くのはお勧めできない、見通しの悪い暗い夜道が左右に続いているだけだった。


 私はついでとばかりにスマホを取り出し、暗視モードを起動して、遠くをズームアップしてみたが、やっぱり何も見えやしない。


「なんか見えるのか?」


 と独りごちながら、そのまま件の人物へとカメラを向けると、出会いがしらに痴漢にぶつかっちゃいましたよ、と言わんばかりの物凄い驚愕の表情で、谷川あさひが私のことを睨んでいた。


 美人の睨み顔である。物凄い迫力である。


 私は思わず、「踏みつけられたい」と口走りながら、パチリと写メを一枚撮った。


 フラッシュが焚かれ辺りが一瞬白く染まる。


 谷川あさひはそれに面食らったように目を(しばたた)かせ、小さく「ひっ……」と息を漏らし、脱兎のごとく駆けていった。


「あっ! おーい……」


 まんま痴漢みたいな行為をしてしまった、釈明せねば……と呼び止めようとするが、何しろ深夜の閑静な住宅街での出来事である。大声を出すわけにもいかず、追いかけようとも余計に恐怖心を煽るだけである。


 結局、私は「まあいいか」とさっさと諦め、(きびす)を返した。


 もう何年もろくに口を聞いてもいない相手なのであるから。


『イラッシャイマセ』


 自販機に挨拶されながら、苦笑いしつつ当初の予定通りにロッテvs日本ハムを手に入れた。そして、背負ってきたデイバッグにそれを詰めると、あまり長居して本当に補導されてもたまらないと、さっさと帰ることにした。


『アリガトウゴザイマシタ』


 きーこきーこと軋む音を立てながら、緩やかではあるが延々と長い坂を登っていく。


 地上間際に落ちてきたおぼろ月は不気味なくらいに大きく、町を赤く照らしている。


 気がつけば高速道路の自動車もまばらであった。


 いつの間にか看板をライトアップする照明も落とされ、闇の中に谷川あさひのうっすらと白い顔が浮かんでいた。


 彼女は何をしていたのだろうか。




 家に帰ったはいいがすでに深夜二時近く、両親共に爆睡していた。


 仮にもまだ中学生のお子様が深夜徘徊していると言うのに、なかなか信用されてるな、ちくしょうめ……買ってきた酒を乱暴に冷蔵庫にしまい、点けっぱなしだったリビングのテレビを消して自室へと戻る。


 何しろエロ本が2冊もあるのだ。やることは決まっている。


 私はズボンを下ろして丁寧に畳むと、いざ目くるめく官能の世界へと向かうために、ライトハンドをエクササイズしながらブックスをオープンしマイサンをスタンダップさせようとウォウウォーしたが、ピクリともムーブメントしなかった。


 中学生男子のマイサンがである。


 そんな馬鹿な話があるか、集中しろ集中……と頑張ってみるものの、凝視すればするほど、それはエロスとはかけ離れいき、なにやらソロモン諸島の伝説の獣神のように思えてくる始末であった。


 すわ、これは本当にエロ本なのか? 驚愕の事実に打ちのめされながら、私は(くだん)の二冊をED養成ギブスと(うやうや)しく命名し、カバンの奥底へと厳重に封印した。明日学校に行ったら有無を言わさず突っ返そう。ついでにロッテvs日本ハムも押し付けよう……


 射精してもいないのに、信じられないくらい異様な疲れを感じた私は、ベッドに体を投げ出すと、抵抗する気もなく意識を手放した。


 明けて翌朝。


「ひ~っ、遅刻遅刻ぅ~っ! ヒッチコック! ヒッチコック!」


 重い(まぶた)を無理矢理開き、昨日深夜まで起きていたせいで無駄にくたびれた体に鞭を入れて、どうにかこうにか起きだすと、先に起きていた父親がバタバタ忙しそうにしながら、くだらない駄洒落を飛ばしていた。


 起き抜けにこれはきつい。また眠ってしまいそうになるが、なんとか堪える。


 時計を見れば7時半を回っており、私もそろそろ急がないとやばい時間帯であった。


 洗面所で顔を洗っていると、隣に立った父親が髭剃りをジョリジョリやり出した。


「ロッテvs日本ハム買ってきたぜ」

「ん? なんだそれは」


 昨晩はかなり飲んでいたからだろうか、父はちんぷんかんぷんといった感じで首を捻った。


 覚えていないなら仕方ない、朝からアホな話題を蒸し返して、お互いに遅刻してしまっては元も子もないので、何でもないよと黙っていると、


「そういえば……5千円札がないんだが、おまえじゃないだろうな」

「てめえ、それすら覚えてねえのか。冷蔵庫に酒が入ってんぞ!」


 濡れ衣を着せてきたので思いっきり睨んでやると、ばつが悪いのかわざとらしく腕時計を確認してから、大慌てで出かけていった。


 トースターにパンをセットして、焼け焦げたコーヒーを目覚まし代わりに流し込む。


 天気予報を見るためテレビのチャンネルを変えようとしたら、母親が冬木さんの番組を見てるんだからやめてよと抗議してきた。


 冬木さんとはセクハラで降板したキャスターの後釜に据えられた、おばちゃんに大変人気のあるアナウンサーのことで、母親も多分に漏れず彼の熱狂的ファンであった。


 その彼は、前任が降板した理由が理由であったためか、朝っぱらから北朝鮮の国営放送みたいな仰々しい表情で、堅苦しいニュースばかりを読み上げている。


 仕方なし、私はネットで天気予報を確認すると、リビングのソファにぶん投げておいたカバンを掴み、トースターが吐き出したパンを(くわ)えて、お気楽にテレビを見ているパートタイマーを尻目に、急いで玄関へと移動する。


「いってきます」

「はいはーい、いってらっしゃい……あらやだ、近所じゃない」


 走ればいつもの電車に間に合うか……ぼちぼち怪しい時間帯に差し掛かっていた。


『昨夜未明、上ヶ原市中区○○にて、芸能プロダクション経営、大山誠さん55歳が何者かに首を絞められた状態で発見されました。上ヶ原署では捜査本部を設置し自殺、他殺の両面にて捜査を行っている模様……』


 テレビから聞こえてきたニュースによると、昨晩近所で殺人事件があったらしい。


 ふ~ん、物騒なこともあるもんだと、靴紐を結びつつパンをもぐもぐやりながら、


「テツヤコムロなのかしら、トマトケチャップなのかしらん?」


 母の暢気な独り言を背に、私は家を出た。


 どこかで聞いたことのあるフレーズに、心臓がドキリと鳴った。


 それは昨夜あの路地裏で、谷川あさひを見かけたTKビルのことではないか?


 やはり親子であるからか、考えることも似てるのか。大慌てでスマホでニュースサイトを開く。


 行きがけに隣家をちらりと仰ぐと、窓ガラスに反射した日差しに目が眩んだ。見上げる太陽は眩しく、もはや夏の日差しそのものである。隣家のカーテンは相変わらず全てがぴっちり閉められており、中の様子は窺えなかった。


「ヒッチコックヒッチコック……」


 早足に坂を駆け下りる。道行く人にぶつかりそうになり、何度も足を止められる。


 急がないと遅刻してしまうのであるが、私はスマホをタップする指先が急がしくて、歩く速度が維持できないでいる。


 芸能プロ? 殺人?


 ニュースサイトで分かったことは、殺された男が方々から恨みを買っていたろくでなしであるということだけだった。


 そして4インチディスプレイに映し出された昨夜の谷川あさひは、見られてはいけないものを見られてしまった……そんな焦燥を表しているようにも思えるのである。


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本作が映画になりました。詳しくは下記サイトにて。2月10日公開予定。
映画「正しいアイコラの作り方」公式サイト
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