表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/25

谷川あさひについて私が語れるところ(後)

 谷川あさひを救急車に乗せたとき、付き添いを求められた私の母は、すぐさま谷川家に向かって雪子さんを連れてこようとした。


 玄関を開けて、いきなり大音量の音の洪水に襲われてぎょっとしつつも、緊急事態で躊躇している場合ではないと、家の中へとずんずん入っていった。だがすぐにヒステリーの前に見せるような、イライラした顔をしながら出てくると、上手く呂律(ろれつ)が回らないのか、何度もつっかえつっかえしながら、付き添いには自分がついていくと言って救急車に乗り込んだ。その際、


「お父さんに早く帰って来てくれるように頼むから、あなたは家に入って鍵をかけて、何があっても開けちゃ駄目よ」


 そう言って母は病院へと向かった。私は言われたとおりに家の中に入り、自分の部屋で息を潜めて隣の様子を窺っていた。暫くすると回転灯を点けた警察車両が音もなく現れ、隣の家に入っていった。


 谷川の母親は、無理心中を図ったらしい。


 元々線が細く気の弱いところのあった女性は、このところの信じられないような醜悪な事態の数々に追い詰められて、実にスピーディにおかしくなっていったらしい。気にするなと言っても、慰めの言葉よりも出てくるのは愚痴ばかりで、訴訟も進まず、不倫相手もだんまりで、隠し子の発覚にショックを受け、仮に心臓に毛が生えていたとしても、おかしくなるなと言う方が酷な話だったかも知れない。


 谷川家に踏み込んだ警察が見つけたのは、リビングでぶるぶる震えながらずっと足踏みを続け、ごめんなさいごめんなさいと、壊れたレコードのように謝罪の言葉をリピートする、雪子さんの姿であった。


 何を聞いてもごめんなさいと繰り返すばかりで、体の震えや目つきのおかしさ、時折支離滅裂な行動を起こそうとすることから、埒が明かないと判断した警察は、見張りを一人だけ残して病院にいる私の母の方へ事情を聞きにいったようだった。


 その内、父が帰宅し、訴訟を起こした事務所の社長が訪れ、谷川の母方の親戚らしき人物がやってきて、私の家で何やらごちゃごちゃやっていた。


 幸いなことに谷川あさひは入院の必要も無いほど軽症であり、事情が事情であったから一泊してきたが、翌日には家へ戻された。


 そしておかしなことに、入れ替わりで彼女の母親の方が入院した。彼女は完全に頭がいかれて、もはや心神喪失状態といって良いほどであったらしい。


 この期に及んで事務所の社長は訴状を取り下げ、報道各社にも取材を自粛するよう求めたファックスを送信した。


 こうして一つの善良な一家を滅茶苦茶に破壊した事件は一応の幕を閉じ、世間一般の関心は、また別の醜聞へと移っていった。


 だが待てしばし。もちろん、この話には続きがある。ワイドショーのネタとしての鮮度は落ちたかも知れないが、そもそも事件は何も解決してはいない。そして、この物語の結末は、意外なところからやってきた。言わずと知れた谷川あさひである。


 事件からおよそ1ヶ月が過ぎたころ、報道各社にまたお騒がせ事務所からファックスが届いた。表題は『当社所属タレント、谷川あさひデビュー記者会見開催のお知らせ』とある。


 谷川あさひは顔こそ知られていなかったが、その存在はもちろん知られていた。そして彼女が無理心中の被害者になりかけたことも、タブロイド紙の知るところであった。


 そんな少女を人前に晒そうなどとは鬼畜の所業である。知らせを受け取った誰もがそう思った。質疑応答の場でその点を質そうと詰め掛けた報道関係者は、しかし想像とは異なった光景に困惑した。


 会場では誰もが、事務所の社長を糾弾すべしと気勢を上げていた。ところがそうはならなかった。彼は冷や汗をかきながら気まずそうな顔をして座っているだけで、質問は全て谷川あさひが淀みなく流暢に答えたからである。


 彼女はまず、一連の騒動を謝罪し、そしてその場に集まった人々に対して感謝の意を表した。図体はでかいが、小学生の小娘がである。続けて、父親に関する質問に対し、


「育ててくれた恩もありませんが、恨みもありません。楽曲につきましては、これは彼に差し上げたものですから、今更返せとも思いません」


 まるで自分が作曲していたと言わんばかりの言葉に疑問を呈すと、彼女は自分が作ったと言う。事務所の社長が追認し、流石にそれははったりだろうと失笑する記者に対し、


「どちらにしろ、私は曲を作り、歌い続けるよりありません。それしか取り柄がないのですから」


 涼しい顔でそう言ってのけ、その場にいる皆を当惑させた。


 これがアイドルにしてシンガーソングライターであるところの、谷川あさひのお披露目会見である。


 残念ながら、この記者会見はほぼ黙殺され、三面記事の片隅にほんの数行載った程度のものであった。しかしその後の彼女の快進撃は、今更説明することもないであろう。彼女は瞬く間にスターダムにのし上がり、その足跡を芸能界に残していくこととなる。


 しかし、どうして彼女は醜聞を利用してまで芸能界にデビューしようとしたのか。


 当時、小学生の子供でしかなかった私は分からなかったが、今になってみれば、自分の身を守るには結局そうするしかなかったのだろうなと、漠然と考える次第である。

 

 

 さて、時を同じくして、谷川あさひは小学校へも復帰した。


 一ヶ月以上も欠席していた彼女は、ある日何事も無かったかのようにふらりと学校へやって来た。


 それは隣人である私も知らなかったことで、自然体で佇む彼女とは裏腹に、クラスメートたちはみな動揺した。


 そして止せばいいのに小学生らしい厭らしさで、彼女の身に起こった様々な不幸をからかう者が現れた。人の意見は十人十色だ。彼らの両親の中には、谷川の家族のことを口汚く罵っているものも居ただろう。彼はそれを真似たのだ。


 私はそのクラスメートを殴ってやろうかと足を向けた。しかしその必要は無かった。


 谷川は一切の躊躇も見せず、思い切り平手打ちをすると、


「気安く話しかけないでくれる。私は特別なのよ」


 耳を疑うような言葉である。だが、誰もが腹になにか冷たいものを押し付けられたような、言い知れない迫力を感じていた。


 谷川あさひは高飛車になった。クラスメートを子ども扱いし、嘲弄し、睥睨し、以前の面影を一切感じさせない変貌を遂げ、私たちの度肝を抜き、そして怒りを買った。


 絶対売れっこない。さっさと落ちぶれやがれ。ちょっとでも同情して損した。そんな言葉を発しながら、そして谷川イジメの急先鋒である私に何かやってくれよと期待した目を向けてきた。


 しかし私は何も出来なかった。彼女の変貌に戸惑っていたのはもちろんのこと、それ以前に、彼女は私の目を決して見ないのだ。そして話しかけても貫徹無視を決め込まれ、何か圧力のようなものを感じていた。


 そんな消化不良の日々が続き、やがて谷川がテレビにちらほら映されるようになってくると、だんだんと風向きが変わってきた。


 日本人気質的なものと言うか、長いものには巻かれやすいというか、他人に評価されているものに(おもね)る例の感覚である。特に子供は流されやすく、気がつけば徐々に谷川に尻尾を振る人間が増えてきて、女子に至っては徒党を組んで彼女に媚びへつらった。


 その手のひら返しはとても惨めで、私は吐き気がするほどおぞましく思えた。しかしそれは私だけの感覚だったようである。おそらく私は谷川あさひとの距離が近すぎたのだろう。近すぎたが故に、彼女のその変化を受け入れられなかったのだろう。


 そして、いつしか谷川を馬鹿にしていた連中は、シンパとなって彼女を取り巻き、まるで相手にされていないのに彼女をクラスの中心人物へと祭り上げていった。元々よく知らない相手だから、手のひら返しに抵抗がなかったのだろう。


 谷川は仕事の無い日は学校に来たが、いつも面倒くさそうにしていた。子供同士の派閥争いに、うんざりしていた。子供の相手は疲れると、面と向かって言われてへらへらしている連中に、露骨に嫌味を言ったこともある。しかしもはや女王である彼女のそのような振る舞いは問題視されず、寧ろ彼女の大人びた一面であると好意的に受け止められる始末だった。


 いくらなんでもそれはおかしい。その状況に際して私は覚悟を決めた。谷川にまっこうから対立したのである。


 そんなに嫌なら学校に来るな。クラスの調和を乱すようなことはするな。おまえは異分子なのだ。


 私はそう言って、かつてのように谷川に食って掛かった。しかしその言葉はそっくりそのまま私に返ってくることになった。


 始め谷川は私の主張に面食らったようだった。しかし、それに論駁(ろんばく)する前に、周りの取り巻き連中が彼女をガードした。有りがちな構図は谷川を無視して、私とクラスメートの対立を作った。そしてそれがクラス全体へと浸透していったのである。


 私は完全に孤立した。


 始めのうちは嫌がらせをしてくるクラスメートに対処すると言うアクションもあったが、いつしかクラス全体で私を無視(しかと)するという暗黙の諒解が得られると、私はやれることが何も無くなった。


 クラス替えもなく6年に進級すると、谷川は殆ど学校に来なくなった。


 別に私に言われたからではない。単に仕事が忙しくなったからだ。


 私は彼女のいない教室で、いつも一人で過ごしていた。いや、教室だけではない。通学路でも家でも街のあらゆる場所であっても、私はずっと一人だった。かつては常に二人一組であったはずなのに、ついてくるなと言ってもついてくるストーカーが居なくなって、喜ばしいはずなのに、私の心は空虚であった。


 手持ち無沙汰になった私は、それから馬鹿みたいにガリ勉を始めた。他にやることがないからである。


 クラスメートはそんな私の姿を滑稽に思っていたようだが、そんな中で、立山という男だけが学外ではあるが私に話しかけてきた。


 塾通いを始めた私は休日になると、毎週模試を受けていた。その同じ模試を受けに来ていたのが立山だった。彼は私に、クラスで起こっていることはおかしいと思っていたと言った。


「あいつらは自分が無いんだよ。自分に自信の持てる確固たる物が無いから、先生やママや友達が言うことはみんな正しいって思い込む。おまえのことを無視してるのだって、全員が全員、みんながやってるからって言うんだぜ? 元を正せば谷川なのに、肝心のそいつがロクに学校に来ない上、相手もしてくれないってのに、何言ってんだろうな。おまえは運が無かったよ。でもある意味運がいい。馬鹿の相手しないで済んで」


 立山は少々変わり者で、クラスでも浮いた存在だったが、とにかく頭が良かった。テストは常に満点で、小学3年生から受験勉強を始め、有名な学習塾のトップクラスに通い続けている秀才であった。


 それ以来、私たちは週末の模試で会うと一緒に行動するようになった。


 成績が段違いなので、模試を受ける教室は違ったが、昼飯時と帰りの電車で色々と話をした。お互いに友達が居ないという自虐的な共通点で、うまがあったのかも知れない。私はどうしたらおまえみたいに頭が良くなれるのかと聞いた。すると彼は嬉しそうに様々なことを教えてくれた。私は彼が教えてくれたことを素直に聞いて、黙々と勉強を続けていた。


 やがて夏が来て、秋が来て、冬が来て年が明けて、私は相変わらず一人寂しく勉強をしていた。担任は私が孤立していることに気づいていたようだが、時折気にしてる風にそわそわするだけで、特に何も言ってはこなかった。


 塾の最後の模試で清開付属のA判定が出た私は、特に何も考えずに受験する学校を選んだ。一応、小学校でも進路指導のようなものがあるらしく、私は進学希望を担任に尋ねられ、清開を受験することを伝えた。


 それがクラスに知れ渡ると、私は嘲笑の的となった。ちょっと受験勉強をかじったくらいで、馬鹿が清開のような超難関校に受かると思っていやがる……と言うわけである。しかし、結果は知っての通りであり……私は清開の受験に合格し、私を笑ったクラスメートに一矢報いたわけである。


 私は立山には感謝していた。彼が居なければ、きっと受験勉強も上手くいかなかったに違いない。


 ある日、学校帰りに誰もいないところを見計らって呼び止めると、私は彼に感謝の言葉を送った。しかし彼は不機嫌そうな顔を隠そうともせずに私を睨むと、何も言わずに去っていった。


 そして谷川あさひが全く学校へやってこない中、卒業式を迎え、私は私を知る者の誰も居ない中学校へと進学した。


 

 清開に進学して暫くすると、おかしな噂が聞こえてきた。かつて立山と同じ塾に通っていたと言う奴が、彼が私の悪口を吹聴して回っていたと教えてくれたのだ。冗談だろうと思い、同じく電車通学であるはずの彼を駅のホームで待ち伏せしたが、出会った瞬間それが事実だと私は確信した。私はその場で彼を引きずり倒すと、あほな噂を流すなと誓わせた。後で聞いたところによると、彼もまた清開進学が第一志望であったとのことだ。


 彼の流した噂とは谷川あさひに関するものだった。簡単に言えば、私が彼女を手篭めにしているとか、そういった類のものである。噂を流す奴も馬鹿であるが、信じるのも馬鹿馬鹿しい話であった。しかしその馬鹿馬鹿しい噂が馬鹿を呼んできた。


 ある日、私は学校帰りに地元中学の3年連中に囲まれた。間抜け面した馬鹿が、「俺のあさひちゃんを傷つけるなんて許せない」と来たものだ。冗談だろうと愛想笑いを作っては見たが、どうやら冗談ではないらしい。


 多勢に無勢、体格だって違いすぎる。そんな彼らに挑んだところでボコボコにされるのが落ちである。私はさっさと諦めて、大声で助けを呼んだ。実に無様なものである。しかし冷たい都会の人間は、隣人が餓死していても気づかないほどドライである。逃げ惑う私が雑木林に引き擦り込まれても、誰も助けてはくれなかった。


 顔を殴られ、目から火花が散った。


 腹が殴られ、息が詰まった。


 とにかく羽交い絞めにされたり上を取られないように、泥だらけになりながら地面を転がり続けた。


 長いリハビリ生活で鍛えられていたからか、思ったよりも耐えられたが、しかしそれもいつまでもというわけにはいかない。


 私は隙を見つけると、地面の砂や石を手当たり次第にぶん投げて相手をひるませ、どうにかこうにか通りに飛び出し、近くにあった川に飛び込んだ。


 生活排水垂れ流しのそのどぶ川は、オールシーズン薄汚く、ここなら絶対に追いかけてこないだろうと腹を括ったのだ。


 その目論見は当たり、そして私が川に飛び込んだことで、ようやく異変に気づいた近所の人が大声を上げて連中を追い払い、警察を呼んでくれた。


 川から引き上げられた私は、寒くも無いのにぶるぶる震えていた。頭は冷静であるのに、無意識下ではそうではなかったのかも知れない。私は冷静にパニクっていた。警察に保護されても、何があったのか説明が出来ないくらいに。


 翌日、学校で生活指導室に呼び出された私は、一体何があったのか説明を求められた。警察が動いたことで、騒動は両方の学校に知れたらしい。私が保護された後、あっけなく御用となった連中は、ちょっとからかっただけなのに、相手が大げさにしただけだと答えた。


 一夜明けて落ち着きを取り戻した私は、それに反論出来るはずだった。


 しかし、何を喋ろうとしても、一向に言葉が出てこなかった。


 だってそうだろう。一体、何から話せばいい。谷川あさひのことか、受験のことか、無視をされていたことか、かつての無理心中のことか、それともあのろくでなしの親父のことか、幼馴染の苦しみか。


 構図は単純かつ明快だ。谷川あさひがらみで、私は襲撃された。たったそれだけのことではある。


 しかし、それじゃなんで私が襲撃されるのか。私と彼女の関係は何なのか。答えようとも、私は言葉を持っていない。


 谷川あさひについて私が語れるところは、驚くほどに何もない。


 何故なら、彼女はあの日あの時から、まるで別人になってしまったから。


 きっと彼女もまた壊れてしまっていたのだろう、彼女の母親と同じように。


 そしてそれを、誰も救ってやることが出来なかったのだ。


 生活指導の先生が私に重ねて尋ねる。


 しかし涙がぽろぽろぽろぽろ流れるだけで、私は何も言うことが出来ない。


 何か言わなければいけないのに、色々なことを言いたいはずなのに、どんな言葉も出てこない。


 もしかしたら、これは罰なのかも知れない。彼女に一番近しかったはずなのに、救うことが出来なかった私に対する。あの日あの時、連れて逃げてと懇願する彼女を、連れ出すことが出来なかった私に対する。


 涙がぽろぽろ流れる中で、もしも何か言葉を発すれば、きっと私は声を上げて泣いてしまうに違いない。私は奥歯をかみ締めてじっと耐えながら、あのときの事を悔恨(かいこん)していた。


 確かに私は子供だった。何かが出来たわけもない。だけど、彼女だってそうだったのだ。たとえ二人で野垂れ死んだとしても、私は彼女を抱きしめなければいけなかった。


 私が逃げ出したせいで、彼女は一人で大人になった。独りにならざるを得なかった。


 つまるところ私はあの時、彼女を見捨てたのだ。


 お母ちゃん、なんとかしてよと泣きついて、他人任せにして逃げ出したのだ。


 それは私を無視(しかと)したクラスメート達とどう違うのか。


 私を殴ったあの馬鹿どもと、何が違うと言うのだろうか。




 時は流れ、私は高校生になったけれども、相変わらず子供のままだった。自分の食い扶ちを稼げないまま両親に翻弄され、幼馴染の足元にも及ばない、雀の涙ほどの賃金を稼ぐのがやっとなのである。


 谷川あさひはどんどん手の届かない高みへと上っていき、商品として完成した彼女に、かつての面影はまったく見受けられない。私の知らない、モンスターか何かに乗っ取られてしまったかのようである。


 チュリス上ヶ原のブティックの前のCDショップの60インチモニターに映し出された谷川あさひのPVは、圧倒的な迫力でもって道行く人々の関心を拾った。


 私はそんな彼女の姿を見つめたまま、かつて私の元に訪れた、剱鈴(つるぎりん)のマネージャーを名乗る男の言葉を思い出していた。


『彼女の人生を台無しにしていいのか?』


 どうして私は谷川あさひと一緒に落ちていくことが出来なかったのか。そんな私が剱を犠牲にしてさえも、彼女を奪い去る勇気など持てるはずもなく……


『彼女の一生を面倒見切れるのか?』


 かつて谷川あさひを拒絶した私に、そんな覚悟などあるわけもなく……そして、もう助けてくれる母親もいないのだ。


 その年のヒットチャートを独占した彼女の歌は、耳障りのいい歌詞と、可愛らしい振り付けと、彼女の美しい歌声とがマッチして人々を夢中にさせた。カラオケの定番となって、世の女の子なら誰でも歌えるありふれたポップスだ。


 けれど私の頭にその歌詞は、まるで記憶に残らなかった。何を聞いても彼女の声は、別の台詞に変換される。


『ねえ三郎君、私を連れて逃げて。一緒に居てくれるだけでいいの。三郎君は何もしなくていいから。私が働いて、私があなたを養うから。だからずっと傍にいて。ねえ、お願いよ。この地獄から私を連れ出して。もういやだ。あそこには戻りたくない。もう誰も信じたくない。あなたさえ居れば、もう何もいらないから。だから私をあなたの物にして。私を奪って逃げてよ!!!』


 胃袋の中でちくちくと、何か棘の生えた物が暴れている。


 げんなりしながらモニターから顔を背けると、相変わらずセンスの悪い服を着た剱が、困ったような顔をして私を見つめていた。


 私はばつの悪い思いがして、咄嗟に目を背けた。


 視界の切れ端で、彼女が何かを呟く。「やっぱり敵わないのかな」と、そんな言葉を口ずさんで居たように見えた。


 思えば、私のことを一方的に嫌い続けるあの学校に通っていながら、どうして彼女だけが私のことを好きだと言うのだろうか。


 本当に、それが何故だか未だに良く分からない。


 ただ分かっていることは、かつて谷川あさひを見捨てた私には、剱を受け入れる覚悟がてんで足りていないということであり……


 北高へ編入した春の日。私は谷川あさひの映し出されたテレビモニターの前で、半年程度続いた私達の曖昧な関係を清算した。


 それは私のエゴに他ならず、せっかく出来た親友を失うことも致し方ないほど、最悪で傲慢な決断であった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本作が映画になりました。詳しくは下記サイトにて。2月10日公開予定。
映画「正しいアイコラの作り方」公式サイト
小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ