谷川あさひについて私が語れるところ(前)
「……おっぱい……おっぱい……ひとなみにしこれや」
けたたましく鳴り続ける携帯電話の待ち受け画面に表示された数字の列を、私は語呂合わせてそう呟いた。
同室のじいさんがびくりと肩を震わせ、隣の兄さんがわざとらしく寝返りを打った。私は苦痛に悶えながら携帯の通話ボタンを押した。
『もしもし? あのね、今日ね……』
「悪いんだけど、電話かけてこないでくれる? ここ病院なんで」
有無を言わさず携帯を切ると、私はそれを枕元にぶん投げた。
小学5年の夏休みのこと、私は大怪我をして入院していた。
体がぎくしゃくして、まともに動かせるのは腕くらいのものであり、その腕だって動かせば痛い。トイレにも満足にいけないから尿道カテーテルを突っ込まれ、必要なものが全てベッドの上の手の届く範囲に置かれた状態で、全身の痛みと、尿道に突き刺さった管の痛みに悶え苦しみながら、何で自分がこんな目に遭わねばならないのかと、天を呪った。
私はその年の夏、頚椎骨折と言う大事故に遭い、生死の境をさ迷い、何とか生還したは良いものの、まるで自由の利かなくなった体を抱えて、夏休みの全てを病院のベッドの上で過ごすと言う、絶望的な目に遭っていた。
それは非常にギリギリの状況だったらしい。
病院に運び込まれたときの私はもちろん意識などまったく無く、レントゲンを見るや否や緊急手術となった息子の状態を聞いた両親は、顔面蒼白を通り越して土気色になって文字通りぶっ倒れた。寝たきりも覚悟して欲しいと言われたらしい。
どうにかこうにか手術は成功し、私は意識を取り戻したが、集中治療室内で目を覚ました私がまず最初に直面したのは、自分の体が一切動かないと言う事実であり、麻酔だか薬だかで意識が朦朧とする中で、私を覗き込む人たちの顔がみんなやたらと優しく、なんだか異様な不安感を感じたことだった。
おそらく頭ではわかっていなかったが、体は分かっていたのだろう。一眠りごとに徐々に感覚を取り戻してくる体は、目覚めるごとに激痛を伴い、そして体の自由がまったく利かないという感覚も、よりリアルに理解できるようになってくる。すると、もしかしたら一生寝たきりかも知れないという、その恐怖も実感出来るようになり、私はいずれ動くようになると言う医者の言葉をひたすら信じ、恐怖に怯えながら起きてるんだか寝てるんだか分からない三日間を過ごした。
そして三日後、どうにか指先くらいは動かせるようになってホッとしたのも束の間。待っていたのは地獄のリハビリの日々だったのである。
ピロパロピロリン……と、携帯の音が鳴る。
私は苦痛に呻きながら、先ほどぶん投げた携帯に手を伸ばす。
『もしもし? あのね、今日ね……』
「すみません、ホント勘弁してください。マジ余裕無いんで」
私は通話を切ると、電源も切ろうとしたが思いとどまった。一応、緊急事態のために持たされてるものだ。特定の電話がうざいという理由で切っては本末転倒である。緊急事態と言えばもう一つ、ナースコールのボタンも枕元に置かれていた。私は携帯電話を置くと、代わりにそちらを手に取り、ボタンを押した。
看護士が中々来ない、イライラとする数分間が過ぎる。
「富岳君、どうしましたかー?」
「チンコがっ!」
「え?」
「チンコが痛いっす! マジ痛いっす! 抜いてっ、お願いっ! チンコ抜いてよ!」
同室の爺さんが顔を赤らめた。隣の兄さんが肩をプルプル震わせている。女性看護師は引きつった笑みを浮かべながら、まだカテーテルを抜くことは出来ないから我慢してくださいねと、通りいっぺんの返事を返し、その場を離れようとした。
このナースコールはもう5回目である。私は逃がしてなるものかと、
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いたいたい!! チンコが痛いよおぉ~~~!!」
と叫んで号泣した。
癇癪をおこした私に流石に手を焼いたのか、都合5回目にしてようやく看護師はマニュアルから脱し、主治医に聞いてくれると約束してくれた。とにかく、もう一刻も待つ余裕などない私は、少しでも早く来てもらいたい一心で、チンコチンコと連呼して、やってきた医者を呆れさせた。
リハビリの歩行訓練は始まっていたが、まだ満足に歩けるような状態ではないので、「一人でトイレに行けないでしょう? まだ外せないよ」と言われたが、日増しに体の感覚が戻るに連れて、とにかく体の節々が尋常でなく痛み出し、その中でも特に男性の急所に得も言われぬ激痛が走り、寝返りをうつたびに、生きる気力を根こそぎ奪っていくのである。
「ゴンナ状態ヲォ、あどっ! あどいちにぢッドゥエモぉ~っ……ッハァン。ンンンッハアアン。続いだら、しぬ゛ぅ~じんじゃぁっハアン、ンオンオハッハッハ。ハァ。ウア゛アアアアアアーーー!!! アウアウ! ア゛ー! 世の中を……ガエダイッ!」
もうこれ以上耐えられない。世を悲観して舌噛んで死ぬ。きっとそっちの方がマシだ! と号泣しながら力説したら、医者は呆れ果てながらも了解し、明日からの歩行訓練を頑張ることと、オムツをつけることを条件に、カテーテルを抜いてくれることになった。
「いたたたたっ! 痛いたい! もっと優しく抜いてよっ! チンコもっと優しく抜いてよ!」
しかし抜くなら抜くで、これまたとんでもなく痛いのである。膀胱までへの数センチと、我が相棒ジョニーの長さ、合計10数センチを、ズリズリズリズリなにやらざらついたものが通り過ぎるたびに、脳天に突き抜けそうな痛みが走る。
医療関係者は頭がおかしい。なんで尿道に管を突き刺すことなんてことを考え付いたのだろうか。大体、私はナースさんに優しく抜いてと頼んだのに、男に抜かれているのもマイナスだ。
ピロパロピロリン……と、再度携帯が鳴りだした。当たり前だが出られるような余裕など無く、それを放置した。10コール……20コールと鳴っても切れる気配が無い。さっさと留守番センターに繋いでくれ。
イライラしながら、死ねっ! ファックっ! この豚野郎! と、F言葉を大量に発していたら、私同様に徐々に脳みそに血液が滞留してきたらしい医者が、目を血走らせながら抜く速度を速めた。この速さはフィニッシュに向かっている!? 私はアホみたいに叫んだ。
「い~たたたた、いたいいたい痛い!! あーっ! 出ちゃう! 出る出る出る! 先っちょから……出ちゃうよおおおーーーー!!! ッコ……コハァ……」
私はびくんびくんと体を震わせながら、ベッドに横たわった。
放心状態の私に医者が容赦なく言い放つ。
「抜いたけど、おしっこするとき痛むから。まだ暫くは結局我慢ね」
「なん……だと……」
もはや久保帯人先生風のつっ込みくらいしか出来ないほど体力を消耗した私は、いまだに枕元でピロピロ鳴り続ける携帯を掴むと、通話ボタンを押さずに電話を切った。そしてそのまま、着信拒否リストに、
「ひ、と、な、み、に……しこれやっ!!」
お馴染みとなった番号を登録し、自分の汗で湿って不快なベッドにぐったりと体を沈めた。
「それじゃ、あとよろしく」
医者はそばに控えていた看護師に指示すると、疲れきった顔をして去っていった。
「あふんっ」
うつ伏せに体を横たえていた私はころんと転がされて、足を持ち上げられた。下半身むき出しのケツにオムツが当てられるが、足腰の痛みの方が勝って羞恥心など微塵も感じられない。
ぐったりしながら痛みに耐えていると、パロパロピロピロ……メールの着信音がした。
看護師と目が会う。
オーケー分かった。心のゆとりを持とうぜ。
私は携帯を掴むと電源を切って枕の下に突っ込んだ。どんだけしつこいのだ、あの女は……
その後、うら若い女性にオムツを履かせてもらうという、何だか癖になりそうなうれしはずかし体験を終えると、疲れが溜まっていた私は猛烈な睡魔に襲われた。激痛に耐えていたせいで、ロクに睡眠も取れなかったからであろう。
あー、マジ死んだほうがマシだわー。マジマシだわー……と、地獄のミサワのごとく呟いて、私は眠りに落ちていった。午前のリハビリも終え、午後の面会の時間に差しかかろうという時間帯だった。
目が覚めると寝汗でぐっしょりだった。壁掛けの時計を見ると、まだ三時間しか経っていない。それなのに、何年も寝たきりでいたかのように体が軋んで、動かすのにとても苦労した。
しかしこれでも昨日の寝起きよりはなんぼかマシだったし、一昨日の朝に比べれば天と地ほどの差があった。回復期に向かっており、一眠りごとに良くなるはずだと言った医者の言葉は本当らしい。安堵すると同時に、まだ一眠りごとに新しい痛みを発する自分の体に嫌気がさす。
布団の中で自分の手を揉んでほぐしながら、手足の節々を慎重に曲げて血液の流れを促す。まるでロボットになった気分である。
ようやく腕が自由に動かせるようになったら、枕の下に突っ込んだ携帯を取り出し、電源を入れた。
ブーンと起動して待ち受け画面が表示されるのを待つ。
メール38件。何を考えてるんだ、あのアホは……と思いつつ、仕方なくそれを開く。
『あのね、今日ね。アサガオの観察をしたよ』から始まり、『今日のお昼はおそばです』『ピアノのおけいこ終わったよ。お母さんが褒めてくれた』などなど、愚にもつかない内容が次々現れる。
メールだからまだ良い。メールでなければ、電話が数分おきにかかって来るのだから堪ったものじゃない。
5~6件見たところで、残りはどうせ見る価値もないだろうと思い、消去してしまおうとしたところ、『おでかけ』のタイトルのメールに気づき、開いてみる。
『お母さんが、お見舞いに行ってもいいって』『おば様から着替えを受け取りました』『いまバスに乗るところ』『バス来た』『停車ボタン押せなかった……』『いまタバコ屋の角を曲がったところ』『猫~♪ 写メ送るね』『いま病院に着いた』『エレベーターが中々来ないよ』『階段だよー』『病室見えた』『着いたよ』『三郎君が寝てるよ』『いま後ろに居るよ』
ギギギと振り返れば、隣人である谷川あさひが、にこやかに笑みを浮かべて座っていた。
「メリーさんかっ!!」
私の渾身の突っ込みに、同室の爺さんが入れ歯を吐き出し、チッと舌打ちをしながら隣の兄さんが寝返りを打った。この兄さんは谷川が来るたびに、私を親の仇でも見るような目で見る。君は少し誤解をしている。いつか話し合おうじゃないか。
「三郎君。今日も来ちゃった」
にこやかに宣言すると、谷川はまったく躊躇無くベッドに腰掛けて、私の上体を起こしてギュッと抱きついた。そして汗でべた付く肌に頬ずりしながら言うのである。
「いだだだあだだだだ!! いだいっ! いだいっ!」
「えへへへ、三郎君はいつもちっちゃくて可愛いね」
「俺がちっちゃいんじゃないっ! お前がデカイんじゃ、このデブ!!」
痛い痛いと苦しみ悶えている私のことなどお構いなく、小学生なのに170センチはあるという巨体の谷川は、私のことをぎゅーと抱きしめて放さない。
「やめてっ! マジ勘弁して! 死んじゃう死んじゃう!」
隣の兄さんの舌打ちが強くなった。てめえ、これを見てまだそんな態度を取るのか。変わって欲しいなら変わってやりたい。これはそんな良いものじゃない。谷川はまるで私のことをぬいぐるみか何かと勘違いしているかのように、一方的に可愛がるだけ可愛がると、今度は冷や汗でぐっしょりとなった私の服を引っ張り出した。
「それじゃお着替えしましょうね」
「…………はぁっ!?」
実に自然な動作だったので反応が遅れた。今、この服を剥がされたら、私はオムツ一丁である。これは見られたくない。
パンイチなら別に構わない。カテーテルを見られたのもきつかったが、私はおちんちんを堂々と見せることに慣れている。しかしオムツは勘弁して欲しい。
見られてなるものかと、私は必死になって布団を引っ張った。
ビキッ! と音がして激痛が走る。
有り得ないような激痛がつま先から脳天まで走りぬけ、唐突に肺の酸素を全て奪われたかのように、呼吸がまった出来なくなった。
「はがっ……はが、はがががが……」
「大丈夫? ……ほら、布団から出ようよ?」
流石に私の様子に心配そうな素振りを見せたが、それでも布団を引っ張る手は緩まない。
誰のせいでこんな目に遭ってると思うのか……怒りでプルプルと震える指先で、布団を手繰り寄せる。私はそんな状態になっても、必死に布団を死守した。
「母ちゃん! 母ちゃんはいずこかっ!」
「今日は私一人だよ。おば様によろしくって頼まれたの」
ちくしょう、あのババア、息子を売りやがった。私は涙目で抵抗した。
「ナースさん! ナースさん、ヘルプ!!」
部屋の外を通り過ぎる看護師がにこやかに手を振った。
「先生! 見てないで助けてよ……あっ! てめえ、どこ行くんだ、ファッキン豚野郎!!」
私のリハビリにやってきた先生が、その光景を見ると何も言わずに出て行った。おそらく隣室を優先するのだろう。
爺さんが緑茶を啜っている。隣の兄ちゃんはマシンガンのように舌打ちしている。
孤立無援となった私は、その後5分くらいは抵抗したが、結局は力尽きて醜態を晒した。
谷川は私のその姿を見てニヤニヤとした笑みを浮かべながら、屈辱的な台詞を吐くのである。
「三郎君、赤ちゃんみたい」
「う……う、うぁああああああああ~~~~~!!!!!」
谷川あさひについて私が語れるところは、正直言ってたいしたものがない。
何しろ、彼女のことは今も昔も苦手であったし、この数年に関して言えば、彼女を知ろうとする努力よりも、彼女のことを忘れようとする逃避のほうがずっと勝っていたからだ。
だが、もしも彼女を一言で言い表すとするならば、私はこの言葉を彼女に捧げるであろう。
谷川あさひはうざかった。
心底救いようのないストーカーで、私の都合などお構いなしの自分勝手な少女であった。
どんなに私に嫌がられても、めげることなく私に着いて来て、そして私の気を引こうと躍起になった挙句に、その被害が私に降りかかり、ひどい目に逢うというのがいつもの落ちだった。
彼女はおそらく自信があったのだろう。谷川は発育がよく、誰よりも大人びており、穏やかそうでにこ
やかな笑みは、美人のもつ優越感にいつも満ち満ちていた。なにしろ彼女はその当時から完璧だった。道を歩けば誰もが振り返る美少女は、その当時から健在だった。
小学生とは、とても思えない長身は、グラビアアイドル顔負けのナイスバディだ。腰に届きそうな長い髪は、まるでシルクのように艶やかで細い。黒目がちの大きな目は、いつも潤んでいるかのように清涼な水を湛えて煌めき、筋の通った綺麗な鼻は見るものを魅了し、口紅を塗ったわけでもないのに朱に染まった唇はいつも瑞々しく、口角を上げて微笑んでいた。
そして、まるで神様の理想をそのまま具現化したような彼女は、神話の中から飛び出してきたかのような作り物めいた美しい笑顔を、一身に私に向けていた。
はっきりと面と向かって言われたわけではない。
しかし、おそらく彼女は私のことが好きだった。
けれども、私は彼女が好きでない。
幼い頃からずっと一緒にいた私たちは、何の因果かこの一方通行な関係を、幼馴染と言う歯車に乗せられ、延々と何年間も続けていた。それは甘い幻想的な日々であったが、それと同時に残酷でしかなかったと、今にして思えばそう思う。
その何年間かの行く末に、私たちはお互いを雁字搦めにする経験と共に、決定的な別れを迎えることになる。それは妥協の許されない選択を突きつけた彼女と、それから逃げ出した私の物語であった。




