ツルリン言うな!(中)
冬。私が清開高校から県立北高校へと『編入』してから半年の時間が流れた。その間、さまざまなことがあったのだが、まずはどうしてこうなったのか……その切っ掛けから話さねばなるまい。
中学三年の冬。父がリストラされた。
折からの不況の煽りで父の勤める企業が赤字決算を連発していたのは、さまざまな報道から知っていた。世界的にも名の知られる企業は足が速く、海外を含めた事業の撤退と人員整理を急ピッチで行っていたのも、隠しようのない事実だった。その上で、日本本社勤めの研究職であった父が対象者になるとは露とも思わず、私たちは楽観的に捉えていたものだが、現実はかくも厳しいものであった。
実際には彼は報道が出始めたころ、真っ先に目をつけられていたらしい。各部署で希望退職者が募られる中、人事部からの呼び出しを食らい、パソナルームのような部署への配置転換を命じられた。
研究職は若くて安くて優秀なものだけを残し、年寄りで実績も微妙であるものは積極的に排除するというのが、社の方針であったようだ。
とはいえ、性格的にも楽観的な彼は、始めは気楽に捉えていたらしい。慣れない営業職の真似事をさせられても、特に気にせず仕事を続け、また会社が持ち直したら、元に戻してもらおうと考えていた。
しかし2期、3期と連続して赤字を続けていくうちに、徐々にパワハラじみた嫌がらせは露骨さを増してきた。社内の人員はガラリと一新され、まるで別物のように変わっていった。
そして一年前の秋口、彼は珍しく真面目な顔で私たちを食卓に並べ、自身の身に起こっていることを告げ、退職を考えていると相談してきた。母は多少渋ったが、結局は彼の選択を受け入れた。
翌日から2ヶ月間の退職準備期間を与えられた父であったが、しかし再就職の見通しは厳しく、始めの数社の面接までは彼も空元気を見せていられたが、面接を受ける間隔が長くなるにつれ、徐々に弱気な面を見せるようになってきた。
母は叱咤激励のつもりで、父を軽んじて扱った。嫌味を言われたくなかったら、さっさと就職してちょうだい、との浅はかな理由であった。それは誰が聞いても冗談交じりの言葉で、もちろん父もちゃんと分かっていた。
しかし、一向に好転しない状況に苛立ちが募り、いよいよ退職の日を迎え、一日中家に居るようになった父には、その言葉は重荷となって突き刺さり、そして母も引っ込みがつかなくなっていった。
家の中は重苦しい雰囲気でどんどん暗くなっていった。どんな言葉も空虚に響き、会話は必要最低限のものとなり、母の愚痴は冗談の持つ軽さを失い、食卓から会話は完全に消えた。何を喋ったらいいか分からなかった。例え励ましの言葉であったとしても、結局はストレスになったに違いないのだ。
そして暮れに恐れていたこと現実のものとなった。
その頃の私は家に帰っても自室に引きこもって、夕飯くらいでしか両親と顔を合わせてなかった。徐々にギスギスしていく空気に嫌気が差し、一応は母に苦言も呈していたが、基本的にはノータッチ、我関せずで自室で勉強ばかりしていた。
そんな時、ドスン! と重いものが倒れる音と、ガシャン! と何かが割れる音が響いた。
嫌な予感がした私が部屋を飛び出すと、一階のリビングで父が呆然と立ち尽くし、床に手をついて倒れこんだ母が表情を無くしている。何があったかは一目瞭然であり、背筋が凍るような恐怖を覚えた。エスカレートするようなら、私が止めに入らねばなるまい。気合を入れて姿勢を正したが、しかし、その必要はまったく無かった。
父は自分がしでかしたことにショックを受けていたし、母は私がやってきたのを見るやヒステリックに父を糾弾し始めた。助けが来て気が強くなったのか、それとも子供に見られたことがショックだったかは知らない。興奮して見境が無くなった母の口撃はすさまじく、やがて手当たり次第に物を投げつけ始めたため、助けに来たはずの私が逆に母を押さえつけねばならないという、出鱈目な事態に陥った。
これ以上おかしなことにならなければいい……その時はそう思っていたが、しかし、あっさりと期待は裏切られた。
結婚後、夫婦最大の危機に際し、双方の祖父母まで出てきて話し合いが持たれたが、父の我慢はどうやら限界を超えていたらしい。そして母も引くに引けなくなっていた。説得空しく、年が明けて暫くすると、父は家から居なくなり、話し合いはいつの間にやら離婚協議へと変わっていた。
そんな鬱々とした出来事が続く中、私は初めて全国模試で1位を取った。
学校で友達相手に馬鹿をやる気分にもなれず、家では息を潜めて自室から出ることも出来ず、やれることと言ったら勉強くらいのもので、嫌なことを忘れていられるからそれは好都合でもあり、私は暇さえ見つけては教科書や参考書を片っ端から暗記し、問題集を解き続けた。
それは学校で始めての快挙でもあり、もろ手を挙げて喜んだ教師陣から表彰され、友人たちから祝福されたが、私は結果を家に持ち帰ることはしなかった。離婚協議で争っている中で、誰に何を話せばいいか分からないのだ。
勉強が出来ても何も意味が無い……漫画みたいな言い訳をしながら、私は試験結果の紙を破り捨て、そして両親のいざこざに、一切関わることはやめようと決意した。
事前にネットを駆使して調べておいた知識で、弁護士の質問をかいくぐり、両親のどちらに肩入れすることなく、積極的に第三者を演じていた。
それが仇となるとは露ほども思わず……
事態が思わぬ結果となって現れたのは3月、桜のつぼみがほころび始めた、春休みを間近に控えた午後のことだった。
ある日、かつての事情聴取のときのように、いきなり予告無く生活指導室に呼ばれた私は、そこで翌年度の授業料が払い込まれていないことを告げられた。寝耳に水の出来事だった。
授業料が未納である場合、学校は予告の後に退学処分にすることが出来ると、入学約款には書かれている。督促状は何度も送ったが、一向に改善されない。学校としては特例を認めるわけにもいかず、このままだと4月に私は放校処分になってしまう。先生たちも困っているので、どうにかして欲しい……
何でこんなことになってしまったのか?
土壇場になって学校にやってきた母が言うには、現在、私の親権について係争中であり、養育費をどちらが払うかが争点となっている。と言うわけで、入金することが出来ない。もう少ししたら相手方が払い込むから待って欲しい。
私の家庭の事情も初耳であれば、その奇妙な要求にも絶句して教師陣が黙り込む中、私は一人、爆笑した。悲しいとか悔しいとか思うよりも、まるで三流のドラマの筋書きみたいな馬鹿馬鹿しい出来事は、他人事のようにしか思えず、私はかつて両親に翻弄されて人が変わってしまった幼馴染を思い出しながら、これはもう駄目だなと、何か悟りめいたものを感じていた。
そして、つまらない諍いに巻き込まれるくらいなら、いっそ学校を辞めると言い出した私に、大人たちは動揺した。流石に母も焦ったようだが、決意は固かった。誰かに迷惑をかけて私立校に通う金を捻出するくらいなら、自分でバイトでもして公立に通いたい。そう言う私を大人たちは説得したが、正直なところ、両親は頼りたくないのだから、他にしようもない。
一時の感情に流されて間違いを犯してはいけない。
君の将来のために言っているんだ。
そんなようなことを言われたが、私の心には響かなかった。
そして話し合いが平行線を辿るなか、意外にもその軽薄な言葉を黙らせたのは、毎日だるいだるい言っていた担任だった。
「そうは言っても、こういう親は、またやらかすよね~」
多分、面倒くさくて、さっさと帰りたかったのだろう。その言葉に教頭はひきつけを起こしそうなくらい狼狽し、学年主任は腕を組んで黙り、母は泣いた。だが、案外真理をついた言葉だったと思う。
そして私は学校をやめた。いざ、そうと決まれば手続きなど、実にあっけないものだった。
しかし受験シーズンもすでに終わった3月末、本来ならばすでに手遅れであり、私は自動的に浪人状態に陥るところであった。流石に高校で一浪は厳しい……通信制や定時制ならまだいけるだろうと調べていたところ、学校の計らいで1ヶ月の猶予期間を貰うことが出来、ゴールデンウィーク明け、私は晴れて県立北高校へ『編入』した。
いや、なかなか晴れてとは言いがたい状況ではあった。
もちろん、清開高校には深く感謝しているが。
なにしろ5月の連休明けの転校である。そんな高校一年生など、どこぞの超能力者くらいのものである。私の転校は否応無く学校中から注目された。おまけに、ただの転校生の噂が、どこでどうねじくれたのか、私は前の高校に馴染めず、いじめを受けて学校をやめたと言うことになってしまった。
それで同情されるならまだマシであったが、逆にいじめやすい標的がやってきたとは、いかにも低俗な連中の考えそうなことである。頭には来たが、しかし子供じみた嫌がらせも、面倒なしがらみも付き合う気分には到底なれず、私は孤立するのも恐れずにそれを黙殺した。
他人と係わるのが面倒くさかった。そのまま、誰とも話さない高校時代を受け入れてもいいつもりであった……だが、お誂えむきに、嫌がらせをやめさせる目処は立っていた。なにしろ、もう間もなくに中間試験である。
そしてテスト明け……職員室前にデカデカと張り出された紙切れに救われ、私は新しい学校での足場を築いた。その更に二週間後、全国一斉学力テストで三年を抑え、校内トップの成績をたたき出したことで、私においそれと話しかける者は居なくなった。
様々な噂が飛び交った。だが数字の前では無意味だ。私は友達付き合いは悪いが、勉強は出来るというキャラクターを確立し、それを演じた。誰に誘われても遊びにはいかないが、テスト勉強について聞かれれば、丁寧に答える。真面目な優等生タイプである。
そうやって学校内でのいざこざを回避して、ぼんやりとした日々を過ごしていた。
やがて梅雨に入り、じめじめとした空気が肌にまとわりついていた頃、両親の協議離婚が成立し、親権は父、養育権は母が持つと言うことになった。
家のローンと私の養育費も父が払うことになり、一体どうやっていくのだろうか? 借金でもするのかと危惧していたが、彼は韓国で就職することで、あっさりとそれを成し遂げた。実はリストラに会う前から引き抜きの話はあったらしい。
会社を裏切るとか、国を裏切るとか、そういうセンチメンタルな気持ちは、この期に及んでは毛頭無かったが、年を取ってから日本で再就職先があるか考えると踏ん切りがつかず、一度は断ったのであるが、「いろいろ馬鹿らしくなった」と言い残し、父は海を渡った。
私の口座には、毎月養育費が振り込まれるようになった。しかし、その金に手をつける気には到底なれず、私は離婚が成立すると同時にアルバイトを始めた。母も思うところがあったようで、離婚調停の最中からフルタイムの仕事に就いていたため、私たちは同じ家に住んでいながら、メールや置手紙で会話する仲となった。
こうして私の家族はバラバラになった。ほんの小さな綻びから、こうも見事なまでに壊れてしまうとは、人生とは分からないものである。
新しい生活には案外すぐに慣れた。疲れるような人間関係を極力省いていたからかも知れない。
アルバイトは新聞配達と喫茶店のウェイターを掛け持ちし、それで得た給料を養育費から使った分だけ貯金した。
喫茶店はルナマウンテンというなんの捻りもない店名で、月山の家が経営する客席20程度のこじんまりとした店だった。彼とだけは、転校してからも交友が続いており、「バイト探しをしているんだけど、なにか楽で儲かるバイト知らないか?」と舐めたことをほざいて見せたら、じゃあうちに来いと誘われ、容赦無くこき使われた。話が違うぞと文句を言ったが、個人経営ゆえに身軽であり、休みは直前申告であっても自由に取らせて貰えるので、それなりに気に入っている。
月山の家で働いていることで、清開高校のノートやプリントを写させて貰えるのも大きかった。
何しろ、超がつくほどの進学校からの転校である。清開は中学3年と高校1年の計4年で高校卒業までのカリキュラムを終え、あとの2年は理文に別れ、延々と受験勉強をするような学校である。北高の授業はまるっきり周回遅れなのだ。
そういうわけで、私は朝に新聞配達を行い、学校が終わったら喫茶店でバイトし、夜は貰ってきたノートやプリントで勉強し、授業中に寝ると言うおよそ高校生らしくない生活を続け、学校で他人と話すことが殆ど無くなった。
学校で孤立してしまうが、それこそ望むところだと、その時はそう思っていた。
ところが、実はこの他人を遠ざけるような生活サイクルが、逆に他人の目を引き付けることになったと気づかされたのは、夏休み直前のうだるような暑さの中である。
ある日、期末試験が間近に迫る中、逆転生活を送っていた私は授業をろくに聞いてはおらず、試験範囲がさっぱりわからないので、眼鏡のクラス委員を捕まえて聞いていた。すると、その光景が珍しいのか、クラスメートがぞろぞろと集まってきたのである。
「富岳君も試験勉強とかするの?」
私は君付けで呼ばれていた。ジャニーズで言うところのさん付けである。
当たり前のことを聞かれても困るが、もちろんだと答えると、
「山とか張るの? 良かったら教えて」
と言うので簡単にレクチャーした。
全教科、試験範囲を聞いたその場で山を張っていったので、えらく感心された。大雑把だからあまり信用するなと断っていたら、話が別方向に進み、
「富岳君って朝、新聞配ってない?」
すると自分も配達してる姿を見たことあるという者が数人おり、意外と見られていたんだなと、気恥ずかしい思いをしたが、別に隠すことでもないので肯定する。ついでに喫茶店もとっくにばれていた。客に同級生が居たことはないはずだ。何で知ってるのだろうと首を捻っていると、
「自分で自分の生活費を稼いでるってマジ?」
「……どこで聞いたの?」
間違っていないから返答に困る。しかし、それは簡単に言えば私のエゴであり、決して褒められたものではない。かと言って、こうなった経緯を話すわけにもいかず、モジモジしていたら、その反応が肯定と受け取られ、いつの間にやら私は勤労青年として祭り上げられていた。
さらに私は何も言っていないのだが、いつしか私立校をやめたのも家計を助けるためと解釈され、こちらもあながち的外れではないので否定しづらく、まごついていたら、その様子がツボに入ったのか、やたら生暖かい視線で見られる羽目に陥った。
「だからいつも授業中に寝てるんだ」
いや、それはそういうわけではないのだが……罪悪感と羞恥心で進退窮まり、試験前の半ドン授業で逃げ帰るようにクラスメートの視線を掻い潜ったのも束の間、翌週のテストで私の山は悉く的中し、クラス平均を学年トップに押し上げた。そして私は『富岳君』から『富岳さん』になり、クラスの中心人物として認識されるようになった。ジャニーズで言うところの様呼ばわりである。
人間、マイナス印象からプラスに転じるエネルギーとは凄まじいものがあり、私はそのギャップに喜ぶと言うよりは、うんざりするほど悩まされた。クラスの男子はやけにフレンドリーになり、どこへ行ってもついてくる始末。そして唐突に訪れたモテ期は、夏休み前のおよそ一週間という土壇場さも相俟って、恐ろしい事態を引き起こした。私はその一週間で7人の女生徒に告白され、その全員を振った。増税前の駆け込み需要じゃあるまいし、当たり前である。
夏休みはいつも待ち遠しいものであるが、この年の待ち遠しさは人生でもピークであったと断言出来る。学力テストで名前を売っていたのも仇となった。派手に女生徒を振りまくった私の所業は学校中に知れ渡り、それは悪評とも伝説としても語られ、真面目な優等生であるはずの私の風評を著しく損なった。挙句の果てには上級生にもさん付けで呼ばれ、もはや私の手には負えなくなり、終業式を終えた私はクラスメートの誘いも断って、逃げるように学校を後にした。
一時的に目立ってしまったが、夏休みが明ければ落ち着くだろう。その時はそんな風に思っていた。
何しろ夏休みは長いのだ、飽きっぽい現代っ子がこんなネタをいつまでも引っ張ったりはしない。ビバ、夏休み。人の噂も七十五日と言うではないか……
9月。新学期早々、GSの短期バイトで真っ黒に日焼けした私の耳に飛び込んできたのは、私が女には興味が無いホモ野郎であるという噂であり……
私は夏休みが40日しかないことを思い知るのだった。




