ツルリン言うな!(前)
聞くところによれば、女子校ではタンポンが飛ぶらしい。
では男子校では何が飛ぶと言うのか? 昼休みを丸々使った議論は不調に終わり、男子校では何も飛ばないという結論は、私たち男子校生の矜持を打ちのめした。
こんなにも不潔なのに、こんなにも卑猥なのに、我々に飛ばせるものは、せいぜい下ネタくらいのものである。いや、一応他にも飛ばせるものがあるにはあるが、学校で飛ばしてしまうと色々と社会的にまずいので、自重せざるをえない。飛ばせるのだけれども。
そう考えると、男子校って実は案外平和だよな、ホモもいないし……そんな阿呆な会話をしながら教室に帰る道すがら、私は鼻くそをほじるような気安さで、ふと友人たちに聞いてみたものである。
ところで、共学校だと何が飛ぶんだ? と。
女子校で頻繁に飛ぶと言われるタンポンも、男子校で呼吸をするように飛び交う下ネタも、その場に異性がいると意識されれば、途端に何も無かったもののように扱われる。たかが異性の目ごときに、己を殺してしまうなど、リア充どもは所詮根性なしの集まりであるなあ……と、その時の私たちは嘯いたものだが、ところで、ではその飛ばせなくなったが故に生じたストレスは、一体いずこへと消え去ったと言うのだろうか。
清開付属の学生だった私にはその答えが分からなかった。だが、今の私にはそれが分かる。
共学校で飛ぶのは噂である。抑圧された男女間のあれこれが、形の見えない不安となって、自分たちに都合のいい解釈を呼び、やがて恋の鞘当てに変化する。異性の目を気にするのは、結局はそういう気持ちの裏返しなのだ。
タンポンを飛ばそうとする手をはっと止めて、ちらりと男子を流し見る。その流し目を、あれ? もしかして、あいつ俺に気があるんじゃね? などと勘違いする。
私たちは、そんな青春の勘違いに翻弄され、恋の噂に右往左往し、甘酸っぱい経験と、苦い記憶を積み重ねて、やがて夜中に自分の余りの痛さを思い出して走り出してしまいそうな日々を、送っていくに違いない。
「…………くん……岳くん…………富岳くん!」
肩を揺さぶられる感触で目を覚ました。
徐々に脳みそが覚醒し、まだ寝ぼけた視界が夕焼けに真っ赤に染まる教室内を映し出す。
いつの間にか机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。よだれが水溜りのように広がり、表面がテカテカしている机上に眉を顰めつつ、制服のブレザーの袖で乱暴に口元を拭った。
くすくすと忍び笑いを漏らす女生徒に愛想笑いを返し、大あくびをかましながら、黒板上の時計を見れば4時30分を指し示している。
私はその事実に一気に現実に引き戻され、ガタガタと音を立てながら机から飛び起きた。
「きゃっ」
「ごめん! 起こしてくれて、ありがとう」
私の突然の行動に驚き、身を竦める彼女に感謝と謝罪をし、手近にあった雑巾で机を乱暴に拭いつつ、机の中身をカバンに全部ぶち込んだ。
「あっ、ちょっと待って」
私は4時に待ち合わせをしていた。従ってすでに30分遅れている。慌しく帰り支度をして、教室を飛び出そうとした私を止めるように彼女は言った。
「運営委員会はレクリエーション教室に変更になったよ」
「……そうなの?」
「委員の人に頼まれて呼びに来たの。急いであげて」
「ありがとう、助かったよ」
12月の放課後は薄暗く、背後から夕陽を受けた長い影が、廊下の先まで続いていた。凍えるような息が白く尾を引いている。ロングコートの肩が風を切り、人気の無い教室を横切るたびに、立て付けの悪い扉をカタカタと鳴らした。
遠くから女生徒たちの黄色い声が響いてくる。
窓の外を見下ろせば、タイピンの記章でもあるイチョウの木の下で、恋人たちが二人だけの世界を作っていた。
渡り廊下に吹き付ける風に肩をすくめ、ポケットに手を突っ込み、寒さに耐えながらコツコツと急ぎ足で廊下を進む。実習棟には人の気配が感じられず、私の足音だけが響いていた。
実習棟3階のレクリエーション教室はその名とは裏腹に、レクリエーションで使われることは一切無い、基本的に物置のような部屋だった。通常の教室を二つ続きにした広い教室の四隅に、各教科の備品や、製作物、余ったり壊れたりした机や椅子が乱雑に積まれており、学校で一番の無駄スペースとして知られている。
しかしその広さや、人通りが少なく邪魔されない立地から、各種イベントの準備や、大所帯の運動部などが会議をしたり、果ては男女の密会など、多目的に幅広く使われる教室でもあった。
クリスマス会の準備に追われる12月。会長がこの教室をチョイスする可能性も十分に考えられたため、私は警戒を怠った。そこで待っていたのが準備委員の女子だったせいもある。
「遅れてすみません。会長は? ……えっと、君は委員の子だっけ。他の人たちは?」
「あの……富岳君。突然呼び出したりして、ゴメンネ?」
呼び出すも何も、準備会の会合に遅れたのは自分だ。真っ赤な夕陽を背に受けて、モジモジと体をくねる女子を訝しげに眺める。よく見ると、顔が赤いのは何も夕陽のせいだけではなさそうだった。
「委員会で一緒になったときから、ずっと気になってました」
ここに来てようやく、私は彼女の様子がおかしいことに気づいた。
私の背後、廊下の方からキュキュッとゴム底の上履きを鳴らす音が響く。こんな人通りの少ない場所で珍しい。前方にはトラ、後方にはデバガメ。これは、面倒ごとに巻き込まれたなと覚悟を決めた。
この教室は各種イベントで使われた。もちろん、告白イベントもその一つである。
「優しくって飾らない君が好きです。準備会が終わってからも、会ってほしいな」
ストレートな言葉に思わず赤面する。言われて嬉しくないと言ったら嘘になる。しかし、それは準備会が終わってから言えよ。明日っからも顔を会わせるのに気まずいだろうが、馬鹿なのか……もちろん本音は隠しつつ、
「えーっと……あれ? もしかして、これは例のやつ?」
などと、とぼけてみる。
「例のやつです」
真っ向から見つめる視線にたじろぎそうになる。しかしもちろん受け入れるわけにはいかない。
「気持ちは嬉しいんだけど……ごめん。付き合うとかはちょっと」
「なんでですか? 他に付き合ってる人がいるんですか?」
おまえに興味がないからだ……などとは、もちろん言わない。
「付き合ってはないけど、好きな人が居るんです」
最近はこう言って断っている。すると必ずと言っていいほど聞かれる。
「それって誰ですか? うちの学校の人?」
それを言ったら、君ら言いふらすよね?
「ごめん……それは言えないんだけどね」
「そ、その……お、男の人ってのは、ホントなんですか?」
「誰がホモだっ! アホかーいっ!」
「きゃあーー!」
途端に背後から上がる黄色い歓声。入り口の扉に隠れるようにして、複数人の女生徒が居た。見れば、教室で私を起こした者も含まれている。私は今の今まで気づかなかったという素振りで、大仰に振り向いてから怒鳴った。
「わ! おまえら、覗いてやがったのか! 俺のことからかってやがったな!」
「ごめんなさーい!」「ごめーん!」
きゃいきゃい言いながら女生徒たちが駆けて行く。残された女生徒も気まずそうに胸の前で手を合わせて、
「ごめんね?」
と言って、私の脇をすり抜け去っていった。
その顔が少し残念そうに見えたのは、私がホモじゃなかったせいなのか、それとも私に振られたせいなのか……どちらでも構わないが、この馬鹿馬鹿しいやりとりで、彼女の自尊心が傷つかないで済むのであれば、お安い御用だと私は思う。
彼女たちが消えるのを見送ってから、追いついてしまわぬように走るわけにもいかず、ゆっくりと教室から離れた。
準備会の会合は、当初の予定通り講堂で4時からだったのだろう。寝坊して盛大に遅れた上に、こんなイベントにまで付き合って、もはや言い訳もきかない大遅刻では、副会長にどんな嫌味を言われるか分かったものでない。
どこか遠くで会長の怒鳴り声が聞こえる。
元々、生徒会も準備会も興味なんか無かったのに、どうしてこんなことにつき合わされなきゃならないのか……バイトだってあるのにと、私は溜め息を吐きながら、寒くて暗い県立高校の廊下を、ゆっくりと踏みしめながら歩いた。
冬の夕暮れは早足で駆けて行く。
まだ5時前だと言うのに、辺りはもう足元を確かめながら歩かねばならないほどの暗さだった。




