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そして私は事件のことを考えるのをやめた(後)

「あんた、遅かったわね」


 家に帰ると、パート帰りの母が夕飯を作っている最中だった。時計は9時半を回っており、学校から帰るには遅すぎる時間である。と言っても、息子が深夜徘徊していてもまるで気にせず、ケロッと寝てしまうような親である。特に何のお咎めも無い。


 リビングのソファにカバンを投げて、テレビを点ける。プロ野球中継の延長のせいか、人気俳優のドラマのオープニングが始まったばかりだった。


 主題歌を歌うのは谷川あさひ。私はチャンネルを変えようとして、結局やめた。


「なあ、隣が引っ越したようだけど、母さん知ってたの?」


「ええー?」母は食器を洗う手を止めて、蛇口をひねる。「当たり前でしょ」


「いつからだ。急に引っ越したようだけど」

「一月前には知ってたわよ」


 初耳だ。そんなに前から決まっていたのか。


「なんで教えてくれなかったんだ」

「聞かれなかったからじゃない。お母さん知らないわよ。なあに、あんた、あさひちゃんの話になると機嫌悪くなるじゃない」

「……それほどでもないけどさ」

「おかしな返事ね」

「どうして引っ越したんだよ」

「一昨日、あさひちゃん来たでしょ。その時に聞いたんじゃないの?」

「聞いてないから、今聞いてる」

「変ね……あさひちゃん、あの日はあなたに引越しのこと話すからって言ってたわよ。あんた、まさか変なことしたんじゃないでしょうね」

「するかよっ」

「……昔はあんなに仲良かったのにねえ」


 母はそれだけ言うと、むっつりと口を噤んで、また蛇口をひねって食器を洗い出した。暫く待ってみたが返事をする気配が無い。


 私はため息をつくと、テレビを消して部屋へ戻ろうとリビングのドアを開けた。


「雪ちゃんがねえ……ずっと調子悪くて。このところ私も会えなかったのよ」


 足が止まる。


「お隣のお母さんが?」


 昼日中から、ずっと家中のカーテンを閉め切って、引きこもり続けた隣の母親が、


「あさひちゃんも、あの通り忙しいでしょ。もう手に負えないからって。二月くらい前から、あっちの親戚やら、事務所の人やらが協議して、なんとかって言う施設に入れようって……」


 ガチャガチャと食器を洗う母の手つきが荒くなる。


「みんな勝手ね。あさひちゃんも、芸能人なんかやめちゃえばいいのに」


 悔しそうに呟く母に何も言うことが出来なかった。母は隣人と昔からの友達だった。


 それ以上、何かを聞く雰囲気でもなく、私は黙ったまま二階へと上がった。

 

 

 

 週末になっても雨が続いた。黒い雲で空が覆われ、朝なんだか夜なんだか分からないような一日だった。


 テスト期間中の週末だけあって、流石に友人たちとの約束はなく、私は朝から教科書とにらめっこしながら、期末テスト対策に頭を悩ませていた。


 しかしいくら活字を追っても、まったく頭に入ってこない。


 三度目の休憩の後、昼食を食べたところで私は音を上げた。


「腹ごなしに散歩してくる」


 そういい残し、家を出る。


 激しい雨が地面を叩き、数十メートルも歩かないうちに、私の靴を水浸しにした。まるでプールの中を泳いでいるような気分にさせられるほどの視界不良の中、谷川あさひのでかい看板だけは、どこからでもはっきり見えた。


 この大雨では客も寄り付かないだろう。芳賀書店の中で、暇そうに大あくびをしている亀田を見ながら、路地裏へと足を運ぶ。それこそもっと客が来るわけ無さそうなオモーロビデオの文字がブラックライトに照らされる中を突っ切り、裏通りへと出た私は、目の前の赤茶色のビルを見上げた。


 TKビル。あの晩、谷川あさひは何故、ここから出てきたのか……何故、私を口止めしようとしたのか……何故、警察は私と彼女の関係を疑っていてもおかしくないのに、何も言ってこないのか。


 そして何故、彼女は私の前から何も言わずに消えたのか。


 薄暗いエントランスに入って、傘の雫をパタパタと払った。郵便受けの並ぶ玄関からL字に曲がった先に小さなエレベーターホールと、管理人の詰め所があった。


 受付には暇そうにしている若い男。奥には監視モニターの前で堂々と居眠りをしている、おっさんが見える。


「この間、ここで人が死んだってニュースがありましたけど」


 私は受付に近づくと、軽い調子で尋ねた。


「ん? ああ、それが?」


 若い管理人は、突然そんなことを聞く私を訝しんだようだが、相手がまだ子供といっていい年齢と分かると、そっちの方が気になる様子だった。


「警察の人はもう来ないんですか? 実は、あの晩、このビルの前でちょっと怪しい人物を見かけたもので……警察に通報した方がいいのかなと」


 私は心底困ったと言った素振りで尋ねた。それが功を奏したのか、それとも男が元々おしゃべりだったのかは分からないが、警戒が取れた彼はべらべらと色んなことを喋ってくれた。


「へえ、それだったら、もう必要ないよ」

「なんでですか?」

「あの事件は事故死ってことで片がついたみたいだよ。警察もそれで捜査打ち切ったんじゃないかな。あれ以来ここにも来ないしね」

「……ニュースにもなってないようですけど」


 続報が無い時点で、もしかしてと思っていたが、


「まあ、ぶっちゃけただの自殺だからね。寧ろ、事件直後が騒がれすぎだったんだよ。いや、こういっちゃ不謹慎かも知れないが、笑っちゃうような死に方だったけどね」


「そうですよね……」私は食らいついた。「不自然すぎるし、偽装とかって可能性はないんですか?」


「それは、警察にも最初に言っといたけど、有り得ないよ。このビルって全フロアの出入り口と、非常階段にも監視カメラが回ってて死角がないから、窓からでも侵入しなきゃ、どこかのカメラに映ってるはずだ」


 今、目の前でおっさんが居眠りしているが……まあ、録画が残っているだろうから問題ないか。


「その窓から入るにしても壁をよじ登らないとね。おまけに現場は最上階だ」

「監視カメラに細工を施すとかは?」

「はっはは! 探偵小説じゃあるまいし」

「ですよね」


 もちろん、そんな痕跡なんかなかったよと、笑いながら男は言った。


 こちらから問いただすこともなく、彼は自分が第一発見者だと名乗った。事件直後はマスコミ数社がやってきて、彼に根掘り葉掘りと尋ねていったらしい。しかしすぐに事件が下火になると、あっという間に以前の通り、誰も近づかなくなって暇になったと、彼は残念そうに愚痴り始めた。


 ところで、


「谷川あさひは好きですか?」

「ん……? ああ、嫌いじゃないけど。それが?」

「いえ、そこにでっかい看板ありますよね」


 反応を見ても、別段変わらないところを見ると、彼は事件当日、谷川あさひを目撃してはいないらしい。


 私はそれを確かめたあと、適当に相槌を打って礼を言い、そこから去った。


 谷川あさひの姿を見なかったと言うことは、彼女は管理人室の前のエレベータホールには行かなかった。また、監視カメラに映るような場所にもいかなかった……


 彼女は本当に、偶然にあの場に居合わせただけと言うのか?


 私は単にからかわれただけなのだろうか?


 家に帰り、試験勉強を再開したが、内容は頭にさっぱり入ってこなかった。

 

 

 

 週が明けてテスト本番、私はどの教科も手ごたえを感じることが出来ず、それを証明するかのように順位を落とした。一度に30番も落としたことが問題視され、生活指導室に呼ばれ説教された後、夏期休暇の補習授業への出席を言い渡された。


 クラスメートも私の不調を気にかけて、通っている塾の夏期講習を勧めてくれたりもしたが、口さがない友人の一人が、不調の原因は女がらみだと言いだしたために、寧ろ憎悪の対象とされた。


 まあ、あながち間違ってもいない。


 私は谷川あさひのことばかり考えていたし…………剱は毎日のように下校時に顔を出すようになった。


 学校が終わってから、わざわざ電車に乗ってやってくる彼女は、すぐに学校の連中の話題になった。彼女の目的が私であることを知った彼らは目を光らせた。そして私はいつからか、彼女と約束をしていたわけではないのだが、待ち合わせるかのように学校近くの交差点でぼんやりすることが多くなった。


 待ち合わせの交差点で待つ私を見つけたときの彼女は、まるで太陽を一身に浴びるヒマワリのような笑顔を(ほころ)ばせ、見る者を魅了した。


 そして待ち合わせの交差点で待つ彼女は、月の光の下でひっそりと咲く月見草のようで、私の胸はほんの少し痛んだ。


 遠くからわざわざやって来るのも大変であろう。だが一緒にいるだけで楽しいという彼女にやめろとも言えず……


 また、以前のようにガツガツと付き合ってくれなどと言い出さなくなった彼女を、拒絶する切っ掛けを失ったまま、なんの結論も出せずにズルズルとした関係が続いて……


 そしてそのまま夏休みに入っていった。


 尤も、私は夏休み初日から始まった夏期補習の出席を余儀なくされ、夏休みとは名ばかりの日々を過ごしていた。


 剱はそんな私の補習に付き合って、夏休みだというのにそれまで同様、下校時にいつの間にか現れて、まるでカルガモの親子みたいにくっついてきた。



 谷川あさひのことは毎日のようにテレビで見かけた。


 かつて隣人だった彼女は、液晶テレビの中だけの存在となり、徐々に幼馴染の存在は希薄となって、変わりに商品としての彼女の記憶が蓄積していく。


 いくら事件について考えても、まるで出てこない結論に嫌気もさしていた。なによりテストの結果にダイレクトに響いてくるのが、時限スイッチのように私に焦燥感を抱かせるのだ。


 そしてイライラとしたまま事件から一ヶ月の時が過ぎた。


 8月に入り、補習の行き帰りですっかり日焼けした私は、コンビニで買ったアイスを齧りながら、もはや申し合わせることもなく、当たり前のように待ち合わせの交差点で剱を待っていた。


 その日は補習が予定よりも早く終わり、待ち合わせの時間までかなりの猶予があったのだが、私はその場で待ちぼうけるしか選択肢が無かった。なんとなく気恥ずかしさから携帯番号の交換をはぐらかして、彼女との連絡手段を持たずにいたせいで、長い時間待ちぼうけを食う羽目になったのだ。


 午後二時を過ぎ、日差しは強さを増して、ジリジリと肌を焼いていく。


 私はそれから逃げるように木陰に入り、ぼんやりと遠くの逃げ水を眺めていた。


 こういう手持ち無沙汰のときこそ、よく事件のことを思い出した。考えても出ない結論を考えて、無駄に時間を潰すのに適していたからであろうか。


 ただのストレスにしかならないそれは悪癖と言っても良かったが、その日はそれが功を奏したかも知れない。


 私の視界の片隅に、何となく見覚えのある姿が()ぎっていく。事件のことを思い出していなければ、きっと気づかずスルーしていたに違いない。


飯豊(いいで)刑事!」


 昼食でも取っていたのだろうか、古い暖簾(のれん)のかかった蕎麦屋から出てきた男に、私は咄嗟に声を掛けた。


「……ああ、君は確か」


 男は最初、私のことが分からなかったようだが、制服を見て思い出したらしい。


「清開付属の富岳です。先月の事件のときにお会いしました」

「あの時は悪かったね、学校まで行くこともなかった」

「いえ。あの、まだ事件について調べてるんですか? 続報もないですし、もう自殺で決着ついたって聞いたんですけど」

「……こう言うのはあまり言いふらすものじゃないが。一応、捜査本部はまだあるよ」

「そうですか。実はその……この間、学校でお伝えしなかったことがあるんですが」

「……んん?」

「あの日、本当はもしかしたら事件に関係あるかも知れないことを、目撃してたんです。けど、その時は言い出しにくくて……」

「どういうことだろうか」

「実は、俺はあの日、あのビルの前で、隣人に出会ってまして……」

「ああ、そのことか」


 刑事は肩をすくめて、


「知ってたよ」


 こともなげにそう言った。


「知ってた……?」

「もちろん。だって、僕はそれを確かめにいったんだから」


 刑事の言葉に、私は言葉を失った。


「ビルの前の街灯にね、監視カメラがあるんだよ。一見しただけじゃ分からないだろうけど。そのカメラにあの晩、谷川あさひと君が映っていた。他の映像と示し合わせると特に事件と関連は無さそうだったけど、被害者と谷川あさひとの関係が問題視されてね。前後関係を確かめるために、しなくてもいい事情聴取に狩り出された」

「…………」

「もちろん、彼女の疑いは晴れたよ。いや、最初から疑っては居なかったんだけどね」

「……そうですか」

「しかし君、彼女のことをかばってるのだとばかり思ってたのだが。どうせ黙ってるなら、最後まで貫き通せよ」


 私は何も言い返せなかった。


「ふん……蛇足か。忘れてくれ」


 そう言って、刑事は手をひらひらさせて去っていった。


 私はそれを呆然としながら見送った。


 ずっと、喉の奥に棘が刺さっているような感じがしていた。ずっと胸がつかえて、息苦しいような気がしていた。きっと言えば開放されると思っていた。しかし実際には、開放されるどころか、胸の中にもう決して塞がることのない穴が、ぽっかりと空いたような、空虚な気持ちが新たに生まれただけだった。


 喋ってしまいたい、喋って楽になりたいと思う気持ちは、何故喋ってしまったのか……という後悔へと変わった。その顔を見かけるたびに、その歌を聞くたびに、記憶の中の彼女が醜く歪められていく……


 そして私は事件のことを考えるのをやめた。




 その夏、谷川あさひはソロシンガーでは数年ぶりとなるミリオンヒットを飛ばし、街角は彼女の声で満たされた。いくら下を向いて歩いても、彼女の歌声が否応無く耳に飛び込んでくる。いくら耳を塞いでみたところで、町中いたるところに彼女の姿があふれている。


 美しいバラードは、片思いをする少女の健気な恋心を歌っていた。その覚えることが容易いフレーズが、何故裏切ったのか、何故喋ってしまったのか、そう責めさいなむ鋭い牙のようになって、私の胸に突き刺さった。


 どこへ行っても逃げ場は無く、私は言葉も知らないどこか異国の街を歩いているかのような、そんな気分にさせられた。


 だから早く忘れてしまおうと、蟲毒(こどく)のようにじわじわと浸透していく彼女の歌を、私は剱鈴との思い出に変えていった。そうやって誤魔化してしまえば、忘れていることが出来るのだ。


 そして一年の時が過ぎた。


 私は新たに生じた様々なトラブルのうちに、事件のことを殆ど思い出さなくなっていた。


 雪が降り積もるように、全てを白く染めていく。


 季節はまさに冬本番だった。


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本作が映画になりました。詳しくは下記サイトにて。2月10日公開予定。
映画「正しいアイコラの作り方」公式サイト
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