01/Pluviose
「あ、そこのあなた。
残念ですけど、あと三分で死んじゃいます」
横断歩道の、ど真ん中。
何の前触れもなく現れた〝死神〟は、ぶしつけにも、そんなことをのたまった。
◆三分まえ◆
「いや。むしろお前が死ねよ……」
「わ、ひどい……」
どっちがだ。
子供の頃なんかには、勢い余って「死ね」などと口走ってしまうのはよくある話だが、初対面の人間から、しかも真顔で死を宣告されたのはさすがに初めてだった。
「べ、別に悪気があるわけじゃないんですってばぁ……。だってほら、あのっ、私、ただの死神で……」
〝ただの死神〟というフレーズも、いかがなもんなのか。
少女は目に涙を浮かべながら、しどろもどろに訴える。しかし、俺はロリコンではなかったので、さほど良心には響かなかった。
「初対面の幼児体型に、いきなりそんなこと言われて信じられるかよ」
「幼児体型じゃなかったら信じるんですか……?」
しゅん、と俯く少女。見ていて悲痛なほど落ち込んでいた。
「でもほら……周りの景色、よく見てみてくださいってば。何か、ヘンだって思いません?」
すがりつくような少女の声音。俺はため息をつきながら、しぶしぶ辺りを見回した。
当然だが、何の変哲もない通学路の風景である。ひしめく雑踏。車の通行量が多い十字交差点には、今も車の走行音がブンブンと――
「……あれ? なんだ、これ」
――静かだった。静かというより、完全な無音だ。ミュートボタンを押したみたいに、世界の音量が、ことごとくゼロになっている。
さらに、さっきまで周りに溢れていたはずの車も、人の姿も――ウソみたいに全部、消えていた。ビルや空は完全に色を失い、信号機は白黒写真のように沈黙している。まるで、街全体に液体窒素をぶちまけたような有様だ。
そして、幅の広い横断歩道の上には。
気付けば、俺と――そして、少女の姿しかなかった。
どんな超展開だよ。
「えへへぇ。驚いたでしょう」
首を斜めにして、嬉しそうに少女は微笑む。
よく見れば――少女の姿かたちもまた、とてつもなく異容だった。
幼いながらも、精緻な美貌。透けるような白い肌は、高級なビスクドールみたいだ。身を包むフリルのドレスと長い髪は、チェス盤をテクスチャにして貼りつけたような格子模様で包まれている(どうやって染めてるんだろう?)。さらに、大きな瞳の虹彩にまで、人工的な格子模様が刻まれていて――その有様は、ちょっと普通じゃない。
極めつけは、少女が手にしている巨大な鎌だ。彼女の身の丈をゆうに超える柄の先には、長い刃と短い刃がついていた。それぞれゆっくりと、基部を中心にして回転している。一秒ごとに、大きな歯車が、がちりと鉄の噛み合う音を立てる。
刃物としての機能性を度外視したその意匠は、どうやら、時計の針を模しているらしい。刃の向きは現在時刻と連動しているようだが……六時半のときとか、鎌として機能しなくね? 十二時ちょうどだと、薙刀になっちゃうし。
「私が死神だってコト、信じていただけました?」
「ああ、信じた」
死神ってよりは、チェス盤のお化けって風情だけど。
「――ですよね。えへへ、私も信じてもらえるなんて期待していませって、えええっ!?」
「? 信じてもらいたいんじゃないのかよ」
「だって! ついさっきまで幼児体型の言うことは一切信じないって! あんなに力強く!」
別にそこまでは言ってねえよ。
どんだけ根に持ってるんだ。
「で、その死神さまが、俺に何の用だよ」
「あなたを看取りに来ました」
「あ、そう」
貧乳のくせにおこがましい奴だな。
「……だいたい、ここは、何なんだ?」
我ながら気分の転換は早い方なので、とりあえず、現状の把握に努めることにする。
「はい。ここは現し世と隠り世の中間点――〈世界の終わり〉です」
「世界の……なんだってぇ?」
なんて突拍子もない。戸惑う俺に、少女はくすりと含み笑う。
「〈あなたの終わり〉とも、言い換えることができますけど」
「へー」
「鼻をほじらないでくださいっ! どんだけ自分に関心ないんですか!?」
そんなこと言われたって、その通りだし。
生への執着は、我ながら薄い方だ。たぶん。
「……もうっ」
リアクションの薄さが気にくわないのか、少女は白い頬を膨らませながら、上目遣いで俺をにらむ。
「……で、私は、ふたつの世界の緩衝材のようなものです。名前は――」
そこで、少女は言葉に詰まった。思案するように、桃色の唇に指を当てる。
「名前は、そうですねぇ――〈プリュヴィオーズ〉とでも、しておきましょうか」
そうして、自称死神――プリュヴィオーズは、天使のように微笑んだ。
◆二分まえ◆
「で、ヴィオ」
「さっそく略されてるし……」
そんなこと言われたって、そんな長ったらしい名前覚えられない。
プリュなんとかとか、どんだけ中二病だよ。
「あと三分って、どういう意味?」
ともあれ、まずはそこである。今朝もいつも通り登校していたはずの俺が、どうしていきなり、こんな極限状態に追い込まれているのか。
「えぇと……ですね」
ヴィオは困ったように眉根を寄せ、鎌の刃を見やった。細い秒針が、かちかちと音を立てて回っている。
「正確には、あと一分五〇秒ですね。あなたは一月二十一日、午前八時十五分……この交差点でトラックに轢かれちゃいました」
轢かれちゃいました、って。
「今、あなたの魂は、リポビタンDのCMみたいに、かろうじて体に引っかかっているだけの状態でして……三分というのは、その魂が体から離れるまでの残り時間です」
「…………」
まさか、リポビタンDのCMが死神との会話の引き合いに出されるとは思わなかったな。シリアス度が著しく低下した気がする。
「へぇ、交通事故かー。ハードラックとダンスっちまったってわけだ」
不運だなー、と他人事のように思う。さしたる感慨もわかないあたりが救いか。
「あの、私には、ですね。その……」
苦笑する俺とは裏腹に、ヴィオは気まずそうに目を逸らした。
「――わざと、飛び込んだみたいに、見えたんです、けど」
もじもじと、歯切れ悪くヴィオは告げた。
「はぁ?」
俺が、自分から、道路に飛び込んだ? 自殺ってことだろうか?
どうして俺がそんなこと。
そこまで思案したところで、俺はかぶりを振った。――どうでもいいか。なにせ、現在進行形で死にかけているのだし、今さらあれこれ考えたところで、どうにもなるまい。
「で、死んだら俺は、どうなるわけ?」
興味本位の質問である。本当に死ぬ前に、それだけは知っておきたかった。死後の世界とかあったりするのだろうか。なにせ、死神がいるくらいだし。
「んー、何も感じなくなりますよ。単なる無に帰すだけです」
「夢がねえな、おい!」
興ざめだよ!
「わわわわわっ、怒らないでっ、あうあうあうあう」
ヴィオの胸ぐらをつかんで引っ張りまわす。理不尽な暴力に悲鳴をあげつつ、ヴィオは慌てて片手を突き出した。
「けほっけほっ……し、しかしです。もしもあなたが、ど~~~~しても! 私と『同じ存在』になりたいと願うのでしたら、叶えてあげないこともやぶさかではありませんよぅ?」
ヴィオはつま先立ちで、俺の顔面を覗き込んできた。格子模様の瞳は、期待からなのか、きらきらと輝いている。
あとどうでもいいけど、『やぶさか』に打ち消しの意味はない。これじゃ意味通らない。頭は悪いらしい。
「同じって――つまり、俺に、お前みたいになれって?」
はいっ、とヴィオは元気よくうなずいた。長い髪がさらりと揺れるが、規則的な幾何学模様は少しも崩れない。本当にどういう構造なんだあれ。
「もともと私たちは、あなたと同じ人間ですから。今のあなたなら、転職する資格はじゅうぶんにありますっ」
……ああ、元人間なの。どおりでリポビタンD知ってるはずだよ。伏線だったんだアレ。
ところで――私〝たち〟っていうことは、他にも同じような仲間がいるのだろうか。
「ちなみに、もしも〝死神〟になると、どうなるんだ?」
「この世にあなたが存在したという『すべての痕跡』が、消えてなくなります」
脳天気なヴィオの笑顔が――ふと、凍りついた。
「あなたの両親や兄弟、友達――大切なひと。全員が、あなたのことを忘れます。あなたが残した影響も、結果も、可能性も、そのすべてが次元の向こうに消え失せます」
早口言葉のように、ヴィオは言葉をつむぐ。
「…………」
押し黙りながら、俺は考える。
それって、もしかして、すげえいいんじゃねえ? 誰も悲しまないってことだろ。俺が死んでも、家族がショックで一家離散とか、そういう面倒事が起こらないってことだろ? 最高じゃん。
「それに今なら、こーんなにステキな先輩もついてきてハイパーお買い得っ!」
えっへん、とヴィオは胸をはる。ちなみに悲しくなるほど胸はなかった。
「私、この仕事を始めて今日で一年目の若輩ですが、先輩方には『歩くおっぱいマウスパッド』という異名で呼ばれるほどの……」
「聞いてるこっちが悲しくなる嘘つくんじゃねえよ!」
そして俺の人生最後の貴重な数分間をくだらねえ突っ込みで浪費させんじゃねえよ。
――がなりたてながら、ふと思う。ずっと前に、誰かとこんなやり取りをしたことがあったような気がする。
誰と?
いや、そもそも、だ。
一月二十一日って、なんの日だったっけ?
◆一年まえ◆
一歳下の幼なじみがいた。
名前は、雨月という。
〝トモくん、知ってる? 中学ってね、かくさしゃかいなんだよ! だからね、だからね、これからトモくんには敬語使うからね! ……です? ます!〟
雨月が俺に敬語を使い始めたのは、中学に入学して、少し経ってからだった。その妙なクセは、高校に上がっても、結局、最期まで抜けることはなかった。
生まれたときから、ずっと一緒だった。俺の短い歴史の底にある原初の記憶は、母親でも父親でもなく――きっと、雨月だ。
まあ、ゲームとかによくあるお約束に漏れず、俺はいつの間にかあいつのことが好きになっていて、あいつもたぶん、俺のことが好きだった。んじゃないかな? そう思う。たぶん。
〝――トモくん、ごめんね。すきです〟
一年前。どうしてか、謝罪と告白を同時に受けた。
本当に、踊りだしたくなるほど、死ぬほど、嬉しかった。
〝いや、俺、幼児体型に微塵も興味ねえし〟
しかし、俺は容赦なく袖にした。
その日は一月二十日――あいつの誕生日の、一日前だったからだ。バースディ・イブだったからだ。
一度断っておいて、明日になったら、俺の方から告白してやろうなどと画策したのである。
誕生日プレゼント兼、ドッキリである。驚いた雨月の顔を想像すると、笑えた。
次の日。通学路の交差点で、あいつは車に轢かれて死んだ。笑えなかった。
◆一分まえ◆
「なぁー。ヴィオはさ、死ぬって、どういうことだと思う?」
ふと思いついて、なんとなしに訊ねてみる。
唐突な質問に、ヴィオはきょとんと目を丸くする。
「えっとぉ……消えること、だと思います」
「俺は、こう思うんだよな」
近くにあったヴィオの手を、おもむろに握る。誰かの体温が欲しかったからだ。
しかし、彼女の手は、悲しくなるほど、ガラスみたいに冷たかった。まるで生きていない。
「死ぬことと消えることって、たぶん、別だ」
どうして俺は、突然そんな感傷めいたことを思ったのか。答えは出てこない。ただ、レコーダーのように機械的に、単語だけが次々と口をついて出る。
「消えるっていうのはさ、ただの『消失』。何も無い」
「…………」
俺はいきなり、なに語っちゃってるんだ。痛すぎる。
なのに、口をついて出る言葉は止まらない。
「けどさ――死ぬっていうのは、誰かの記憶の中に残ることなんだって、思う」
魂の居場所が、ただ移るだけ。死んだ人間の人格は、誰かの思い出として生き残る。
死は死へと連なっていき、連環して、世界を構成する。
「……だからさ、どうせ死んじまうんだったら――俺は、ちゃんと死にたいっていうか。みんなの記憶の中に残って、憶えていてもらいたいっていうか」
無に還ること自体は、それほど怖くない。むしろそれは、救いであるようにすら思う。
ヴィオと一緒に、〝死神〟として生きるのも、それはそれでアリな気もする。
けれど、もしも俺まで完全に消えてしまったら――きっと、俺の中に居る『誰か』まで、一緒に消えてしまう。
それが誰だったかなんて、もう思い出せないけど。
それだけは、絶対にイヤだと、さしたる根拠もなく思ったのだ。
「――そう、ですか」
ヴィオは、一瞬だけ泣きそうな顔になったあと、感情を塗り潰すようにして笑った。
「うん……それって、とってもあなたらしいです」
「出会って三分未満なのに、らしいもクソもねえよ」
「それに、冷静に考えると、男の死神とか誰得ですし」
「誰得とかいうんじゃねえよ!」
どんな傲慢な価値観だ、それは。
「……期待させて、悪かったな。その、なんだ。仲間が欲しかったんだろ?」
急に申し訳なくなって、謝ってしまう。
ヴィオの気丈な笑顔が、置いて行かれた子供みたいに、寂しそうに見えたからだ。
「お気になさらず。お友達はたくさんいますし……」
それに、とヴィオは付け加える。薄い唇が言葉をなぞる。
「『消え』ちゃった私にまで、あなたはちゃんと――居場所を残してくれたから」
「あ?」
――どういう意味、と聞く前に、ヴィオは仮借なく、手にした大鎌を振り上げていた。
次いで、凪いだ刃が俺の胸に容赦なく喰い込んだ。洋梨に果物ナイフを突き刺すような手軽さで、ずぶりと、俺の身体に針が刺さる。
「――――」
出血も、痛みもない。ただ、ぞっとするような冷たさだけが、血の流れに乗って、全身を這い回っていた。
「大丈夫、こわくない」
震える体を、ヴィオに抱きしめられる。むせ返るような甘い匂いが、鼻をつく。華奢な手が背中に回される。体温も鼓動もない、ただ冷たいだけの小さな体躯。人を模しただけの、精巧な創造物。
なのに、不思議な一体感があった。ひとつの心臓をふたりで共有しているような、共生じみたその在り方に、不覚にも泣きそうになる。
「〝魂の逆行〟なんて本当は厳罰モノなんですけど……」
いつの間にか、鎌の柄についた秒針が、もの凄い勢いで逆回転を始めていた。
それに呼応するように、無声映画じみた世界に、大きな亀裂が入った。空が、ビルが、地面が――〈世界の終わり〉が、音を立てながら壊れて、軋んで、崩れて、少しずつ、終わっていく――
「ねぇ」
耳元で、声がした。ヴィオの吐息が耳を撫でた。
「あなたは勘違いしてるみたいですけど、私あのとき、自殺したわけじゃないですからね?」
「いやいや、どのときだし」
ときどきいるよね、こういう自分の体験を当然のように他人に押し付けてくるやつ。
しかしヴィオは、俺の疑問を無視して続ける。
「たまたま風が強く吹いて、押されただけ。それで横断歩道に倒れこんじゃって……轢かれちゃって。ただの、おっちょこちょいってやつです」
「いやそれ、おっちょこちょいってレベルじゃねえから」
おっちょこちょいキャラも、そこまで体を張られると弱る。
「だから、お願い」
鎌が刺さったままの胸に――不意に、ヴィオの顔が押し付けられた。
「お願い、ですから……」
やがて、制服のブレザーを通して、冷たい液体がじわりと胸に滲んだ。
「その死に、あなたが責任を負って、それで後を追って死ぬなんてマネ、――もう絶対、しないでください」
ヴィオの声は、震えていた。泣いているのか、もしくは思い出し笑いかもしれない。たぶん後者だ。
「……じゃあね、ばいばい」
「ばいばいって、おい」
ちょっとまて行くな。ちょ、おま、鎌、邪魔。何か今、俺すげぇ大切なこと思い出せそうな気がする! おっ、出る出る! ……あ、引っ込んだ。便秘に悩む主婦か俺は!
「私なら、もう大丈夫ですから」
「大丈夫なわけねえだろカス! クサレ貧乳! やっぱタンマタンマ、俺死神になるわ!」
口に出しすとかなり間抜けな響きではあったが、なりふり構っている余裕はなかった。出どころのわからない切迫感に押し潰されそうになりながら、俺は無我夢中で叫んだ。
「……さっきは、死神になんてならないって、言ってたクセに」
いじけたようにつぶやくヴィオを、強く抱きしめる。腕に力が入らない。
「だって、何か知らねえけど、お前――もう、ひとりになっちゃいけない気がする」
かき氷みたいに摩り下ろされていく思考の中で、声を嗄らして叫ぶ。何がいけないのか、理由すらわからないまま、必死に彼女を繋ぎ止める。
「普段はいじわるだけど、こうやって、いざっていうときに一生懸命になってくれるところ――大好き」
「だまれ馴れ馴れしい!」
あーもう! 女ってどうしてこう勝手に自己完結したがるの!?
「……うん、本当に平気です。だって私、消えるんじゃなくて、ちゃんと人間として死ねるんだもの」
ヴィオの顔は相変わらず伺えない。今だって、無様にしゃくりあげている。
だというのに、その声だけが、本当に、苛立つほどに安らかで。
「ありがと、トモくん」
感覚のなくなってきた俺の背中を、ヴィオの腕が掻き抱く。
「――?」
いや、あれ。待て。どうしてこいつ今、俺の名前、
「またね」
――そして、世界が、決壊した。
◆2ヶ月ご◆
「あー……フランス革命暦は、フランス革命直後にだけ使われたフランスの暦で――」
二ヶ月前。
運悪く交通事故に遭った俺は、それでも運良く一命を取り留め、何事もなかったかのように世界史の授業を受けていた。
医者が言うには、意識が回復するどころか、生きていたことすら何かの間違いにしか思えないとの弁。五回くらい心臓止まったらしいし。
病院のベッドで目を醒ます直前まで、何か夢を見ていた気もしたが――結局、いくら考えても、その内容を思い出すことはできなかった。臨死体験をした人間には、よくあることなのだそうな。
まあ夢なんて、大概、そんな曖昧なものである。
「で、月名は上から、葡萄月、ヴァンデミエール。霧月、ブリュメール。霜月、フリメール。雪月、ニヴォーズ……で、えっと、雨月、雨月は、っと――」
淡々とした教師の声が遠い。
生き残っておいて何だが、事故から目を醒ました日以来、俺の心はネジが抜け落ちたみたいに空っぽだった。
――いや。この得体のしれない虚無感は、そもそも一年以上前から、病巣のように俺の心にへばりついているものだった。
あーあ。
ふと思う。いっそのこと俺なんて、轢かれたときに死んじまってりゃなあ――
「あー、そうそう! ……ブリュヴィオーズ。まったく覚えにくいよな、フランス人何考えてるんだよって感じだよなぁ! テヘッ!」
まったく可愛くない、というかむしろ不快感を煽る声で、三四歳独身教師が照れ笑いした。くすくすと響く、クラスメイトの失笑。
「…………」
その中で、俺は教師が口にした単語を、何度も何度も反芻していた。
雨月。プリュヴィオーズ。雨月、プリュヴィオーズ。なんだっけそれ。
「……ま、いっか」
結局、思い出すことは諦めた。
かわりに、なんか知らないけど、生きる気力が湧いてきた。まあ人間、生きてりゃいつかは思い出すこともあるだろってね。ポジティブポジティブ。
窓の外を見る。薄い雲のかかった蒼い空は、春の到来を告げている。
しっかしまあ、なんだ。
世界史の単語いっこで救われる人生なんて、我ながら単純なもんだ。
◆十一年まえ◆
雨月が飼っていた亀が死んだ。
死因は溺死で、甲羅が石とガラスに挟まって、そのまま浮上できなかったらしい。
当然ながら、雨月は大泣きだった。
二人で近所の河原まで、亀の死体を流しに行った帰り、隣を歩いていた雨月が、枯れた声でたずねてきた。
〝ねえトモくん……生き物って、死んだらどこへいくのかな……?〟
夕日に照らされた雨月の顔は、泣き腫らした跡と相まって真っ赤に染まっていた。
〝さあ。消えて、なくなるだけだろ〟
夢も希望もない俺の返答に、雨月はうるうると瞳を潤ませる。マジで暴発する五秒前。
やばい。ゴレンジャイを見る間も惜しんで、ようやく雨月をなだめたというのに(もちろん録画したが)、ここで泣き出されたら、元のもくあみである。
俺はろくに意味も考えず、咄嗟に頭に浮かんだことを口にする。
〝雨月の、きおくの中とかじゃねーの。たぶん〟
〝……うん〟
目尻に涙を溜めたまま、雨月はこくりとうなずくと、俺の手を強く握ってきた。
強く。
《La fin》