採用試験と合わない帳面#1
翌朝、俺は事務室に呼ばれた。
廊下はまだ冷えていて、石床が靴裏に硬く返ってくる。夜のうちに拭いたのだろうが、湿った匂いがわずかに残っていた。窓の外では荷車の軸がきしみ、遠くで鐘が鳴っている。
扉の前で一度呼吸を整えた。
昨日は列を整えて場を収めた。だが、ここで通らなければ、ただの流れ者だ。
扉が開くと、事務室は思ったより狭かった。机がいくつも並び、羊皮紙の束と木札、封蝋の残りが散らかっている。インク壺の匂いが強い。窓際には秤と分銅が置かれ、金属の鈍い光が朝の薄明かりを返していた。
実務長と、もう一人——痩せた老人が待っていた。
老人は白髭を蓄え、鋭い目で俺を見ている。視線が、顔ではなく手元に落ちた気がした。癖か。帳方は、手を見てくる。
「レオン、紹介する。こちらは帳方の筆頭、ベルナルド殿だ」
声が通る。実務長の言葉は迷いがない。
俺は背筋を伸ばした。
「初めまして。レオン・ミナトです」
俺は頭を下げた。
老人——ベルナルドは、ゆっくりと頷いた。頷きは小さいが、空気が一段引き締まる。
「ふむ。お前が、実務長の推す新人か」
声は低く、威厳がある。
「お前の試練を、私が監督する。まず一つ目、『換算と見積り』から始めよう」
俺はうなずいた。
「よろしくお願いします」
ベルナルドは机の上に、いくつかの貨幣を並べた。
金貨、銀貨、銅貨。音が違う。金は短く澄み、銀は少し重い響きで、銅は乾いた音がする。並べ方も、ただ置いただけではない。端がそろい、間隔が均一だ。こういう人は、乱れを許さない。
クラウン金貨が3枚、シルバ銀貨が15枚、カッパ銅貨が30枚。
「問一。この貨幣を、すべてシルバに換算せよ」
俺は暗算した。
クラウン1枚は、名目レートでは25シルバ。
だから3枚で75シルバ。
既にあるシルバが15枚。
カッパ30枚は、名目レートではシルバの1/10だから3シルバ。
合計で、75+15+3=93シルバ。
「93シルバです」
答えた瞬間、俺はベルナルドの目を見た。数字そのものより、迷いの有無を見られている気がした。
ベルナルドは一拍置いて頷いた。
「正解だ」
ベルナルドが次の問題を出す。
机の上の貨幣を軽く寄せ、今度は言葉で問いかける。
「問二。商人が『シルバ100枚分を両替したい。一割の手数料を払う』と言ってきた。手数料を差し引いた後、商人が受け取るべきシルバはいくらだ?」
「90シルバです」
ベルナルドが目を細める。よし、通った。
「正解。問三。ある商人が、三十日後に返すという約束でシルバ50枚を借りた。利息が一日あたり1パーセントだとすると、三十日後に返すべき総額は?」
——複利か単利か、が問題だな。
ここで勝手に前提を置くと落ちる。現場では確認が命綱になる。
だから先に確認する。それ自体が、評価になるだろう。
「ベルナルドさん。確認です。利息は単利ですか、複利ですか?」
一瞬、室内が静かになった。
ミラなら、この沈黙に飲まれて目を泳がせるかもしれない。だが俺は沈黙を待つ。沈黙は、相手が考えている証拠だ。
実務長が、目だけで頷いた。いい問いだ、という合図だ。目の動きが小さいのに、妙に心が軽くなる。
「複利だ。毎日、元本に利息を足していく」
「承知しました。では、日ごとに増えた分も元本に組み込みます」
「続けろ」
「初日は50に1パーセントで0.5。二日目は50.5に1パーセント。これを三十回繰り返します」
「答えは」
ここで細かい計算を紙に書かせないのは、俺の頭の中の筋道を見たいからだろう。
正確さと速度の両方が要る。
「計算は50×1.01の30乗。だいたい1.35倍。よって、67.5シルバ前後です」
「正解だ」
ベルナルドは満足そうに頷いた。
その頷きは、さっきよりわずかに大きい。ほんの少しの差だが、俺には十分だった。俺は息を吸って、肩の力だけ抜いた。
「計算は問題ないようだな。次は、見積もりだ」
彼は俺に小さな袋を渡した。
革は使い込まれ、手汗が染みている。口紐は固く結ばれていた。中身の重さが、指にずしりと来る。
中には、シルバ銀貨が入っている。
「この袋の中身を数えずに、重さだけで枚数を見積もれ」
俺は袋を手に取り、重さを感じ取った。
ここで役に立つのは、記憶だ。1枚が10グラという数字だけでなく、実際のばらつきも体が覚えている。
袋を軽く揺らすと、硬貨同士が擦れて鈍い音がする。音の密度でも、枚数の目安がわかる。
シルバ1枚の重さは、10グラ。
この袋は——だいたい200グラくらいか。
「20枚、だと思います」
「数えてみろ」
俺は袋を開け、中身を取り出して数えた。
机の上に並べる。端をそろえる。
1、2、3……20。
「20枚でした」
「正解だ。よろしい」
ベルナルドは俺を見て、小さく笑った。
たぶん本人は笑ったつもりがない。だが、目尻がわずかに緩んだ。
「お前、なかなかやるな。一つ目の試練は合格だ」
「ありがとうございます」
胸の奥が熱くなる。だが、まだ入口だ。
「だが、次はもっと難しいぞ。覚悟しておけ」
ベルナルドは、そう言って、部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、乾いて響いた。事務室に残ったのは、インクの匂いと、秤が反射する鈍い光だけだ。
実務長が俺に近づいてきた。
「よくやった、レオン。ベルナルド殿は厳しい人だが、お前のことは認めたようだ」
「ありがとうございます」
俺は、そう言いながら、窓の外の列を思い出した。現場は待ってくれない。苛立ちの目、押し寄せる声。認められたなら、次はその前に立つ側だ。
「次は偽貨の鑑定だ。これは明日やる。今日は、実際の窓口業務を見て学んでおけ」
「わかりました」
俺は窓口に向かった。




