偽貨の列と締めのズレ#8
実務長は俺を事務室に連れて行き、一枚の紙を取り出した。
事務室は静かだった。外の両替場の喧噪が嘘みたいだ。机の上には帳面が積まれ、角が擦り切れた革紐が何本も転がっていた。灯りは油皿の小さな火だけで、鼻の奥に煤と古い紙の匂いが残る。
実務長は俺の顔を一度だけ見て、視線を紙に戻した。手の動きに無駄がない。指先が紙の角をそろえ、机の上にまっすぐ置く。その仕草だけで、「ズレ」を嫌うのが伝わってきた。
「これが、採用試練の概要だ。よく読んでおけ」
紙には、四つの試練が書かれていた。
一、換算と見積り——貨幣の換算、重量の見積もり、利率の計算
二、偽貨と削り取りの見分け——鑑定の実技
三、身元と約束——保証人の確保、誓約書への署名
四、帳面を合わせる——実務の実演、締め処理の完遂
紙の端は何度も握られた跡がある。過去の受験者が、ここで手汗を残してきたのだろう。俺はそれを見て、喉の奥が少し乾いた。
「試練は、順番に受けてもらう。全部通過したら、正式採用だ」
実務長の声は低く、淡々としている。励ましはない。落ちたら終わり。受かったら仕事。ただそれだけだ。
「わかりました」
自分の声が少し硬く聞こえた。緊張ではなく、余計なことを言わないように意識している。
「じゃあ、明日から始めるぞ。準備しておけ」
「はい」
実務長は紙を俺に渡すと、すぐ別の帳面に指を滑らせた。
俺は紙を受け取り、宿に戻ることにした。
外に出ると、街は夕方の匂いがした。粉を焼く匂い、汗の匂い、濡れた石畳の冷たさ。露店は片付け始めているのに、人の流れは途切れない。レギス・レジャーの前には、まだ列の残りが揺れていた。怒鳴り声は減っているが、代わりに低い不満が滲んでいる。
宿の階段は狭く、木が軋む。部屋は小さく、机も小さい。だが、紙を広げる場所はある。それだけで十分だ、と自分に言い聞かせる。まずは状況を整理する。
部屋で紙を広げ、内容を確認する。
換算と見積り——これは、たぶん大丈夫だろう。俺は計算は得意だ。
偽貨の見分け——これも、さっきの実績があるから問題ない。
……と言いたいが、今日のは序の口かもしれない。現場のズルは、一段じゃ終わらない。削り取り、混ぜ物、印章。どれか一つだけなら見つけやすい。でも、複数が重なるとそれっぽく見えてしまう。俺は自分の目を過信しないように、もう一度秤の針の揺れ方を思い出した。
身元と約束——実務長が保証人になってくれるから、通貨できる。
ここで胸が一瞬だけ軽くなる。だが、保証人になってくれるということは、俺が失敗した時に、実務長の信用にも傷がつく。現場でそれは致命傷だ。借りを作ったままでは働けない。返すには、結果を出すしかない。
問題は、四つ目だ。
帳面を合わせる。
これは、実際の業務をやりながらのテストだ。
ミスが許されない。
しかも——この組織は、帳面が合わないのが日常化している。
ということは、俺がどれだけ正確にやっても、他の担当者のミスで帳面が狂う可能性がある。
それを、どうやって防ぐか。
俺は紙を見つめながら、考えた。
紙の上の「締め処理の完遂」という文字が、妙に硬く見える。締める。それは、終わらせることじゃない。責任を確定させることだ。誰が何を受け取り、誰が何を払ったのか。現世でも、締めの文化が弱いところは必ず事故る。ここは、事故が日常の形になっている。
俺は思った。俺一人が頑張っても限界がある。だが、俺一人が仕組みを作れば、他の人のミスは減らせる。完璧に防げなくても、見つけやすくできる。
そして——一つの案が浮かんだ。
——チェックリストを作ろう。
受け取った銀貨を記録するとき、必ず確認すべき項目をリスト化する。
枚数、重さ、厚み、色、傷——そういうのを、一つ一つチェックする。
そして、記録するときも、決まった書式に従う。
そうすれば、ミスは減る。
俺が欲しいのは、天才的なひらめきじゃない。誰でも同じ動きができる型だ。型があれば、最低限の正確さは残る。疲
——よし、これで行こう。
俺は紙に、チェックリストの項目を書き出し始めた。
ペン先が紙を引っかく音が、部屋の静けさにやけに大きく響く。項目を増やしすぎると現場は回らない。少なすぎると穴が残る。ちょうどいい線を探す。上から下へ、手の動きが迷わない並び。記入欄の位置も、迷いを減らすために揃える。こういう小さな整理が、あとで大きな差になる。
窓の外では、鐘楼の鐘が鳴っていた。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン。
六回。
夜の六ベルだ。
俺は鐘の音を聞きながら、思った。
この鐘のズレ、いつか直さないとな。
それが、この街の秩序を作る第一歩になる。
今は、一つ一つ、積み上げていくだけだ。
俺はペンを走らせ続けた。
明日からの試練に向けて、準備を整えるために。




