偽貨の列と締めのズレ#7
それから数日後、実務長が俺を呼んだ。
呼ばれた場所はレギス・レジャーの奥、窓口の喧噪が一段落したあとの通路だった。石壁はひんやり冷たく、どこかで金属が触れ合う乾いた音がする。
金の匂いと焦げた油の匂いが混ざる空気は、驚くほど現世に近い。
「レオン、ちょっといいか」
「はい、何でしょう」
実務長の声は低く、余計な飾りがない。俺は背筋を伸ばし、足の位置をそろえた。
「お前を正式に採用したいんだが……その前に、一つ試練を受けてもらう必要がある」
「試練、ですか」
言いながら、喉の奥が少し乾いた。
採用——嬉しいはずなのに、胸の底に不安がある。ここでの採用は、ただの仕事ではない。名前も素性も曖昧な俺が、この街で生きるための足場になる。
「ああ。これは、うちの決まりでな。見習いから正式な行員になるには、四つの試練を通過しなければならない」
「四つ、ですか」
「ああ。まず一つ目は、『換算と見積り』。計算ができるかどうかのテストだ」
「なるほど」
計算。数字は裏切らない——いや、裏切るのはいつも数字じゃなく、人と運用のズレだ。俺はそのズレを、何度も現世で見てきた。
「二つ目は、『偽貨と削り取りの見分け』。まあ、銀貨の鑑定だな」
「はい」
あの列の騒ぎが、目の裏にちらつく。薄い銀貨。削られた縁。銀行が石畳を転がる音。
あの音は、信用が床に落ちて転がっていく音だ。
「三つ目は、『身元と約束』。お前の素性がちゃんとしてるか、保証人がいるか、誓約ができるか——そういうのを確認する」
「……保証人、ですか」
保証人。現世なら、身元確認の書類や履歴が並ぶだけの話だ。
「ああ。うちで働くには、誰かの保証が必要なんだ。お前、誰か知り合いはいるか?」
「……いえ、この街に来たばかりなので」
答えた瞬間、自分の声が石壁に吸われていく気がした。
「そうか……それは困ったな」
実務長は腕を組んで考え込んだ。
その横顔は硬い。
俺は黙って待った。ここで焦って口を挟むと、こちらの弱さだけが先に露呈する。
「まあ、それは後で何とかしよう。で、四つ目は『帳面を合わせる』。実際に窓口で銀貨を受け取って、記録して、金庫に納めて、最後に帳面を合わせる——これが一番大事な試練だ」
「わかりました」
帳面を合わせる。
その言葉だけで、現世の月末が頭に蘇る。締め前の空気。誰も悪くないのに、誰かの手が止まると一気に崩れる。
俺は、ここで同じことを繰り返したくない。だからこそ、ここにいる。
「よし。じゃあ早速、明日から試練を始める。まずは計算のテストからだ」
「了解しました」
俺は頭を下げた。
そして——その夜、俺は宿で一人、考え込んでいた。
宿の部屋は狭い。風が隙間からすっと入ってくる。外では酒場の笑い声と、遠くの鐘楼の音が交互に揺れていた。鐘の音がわずかに遅れて聞こえるたびに、胸の奥がざらつく。
この街の時間は、きれいに揃っていない。
保証人、か。
この世界では、人の信用が全てなんだな。
名前も、素性も、何もない俺を、誰が保証してくれる?
ミラは優しいが、彼女も見習いだ。彼女の保証では弱いだろう。
実務長は……たぶん、立場上、保証人にはなれない。
じゃあ、誰か他に——
俺は天井を見上げた。黒い木目の間に、小さな虫が動いている。現世でも異世界でも、こういう些細なものは変わらないのに、俺の立っている場所だけが違いすぎる。
息を吐くと、指先が少し冷えた。恐怖じゃない。焦りだ。焦りは判断を早め、判断の早さはミスを呼ぶ。現世で何度も痛い目を見た。
そう考えていると、ふと、昨日の光景が頭に浮かんだ。
あの痩せた商人。
偽貨を流している男。
彼を捕まえれば、実務長に貸しを作れる。
そうすれば、保証人の問題も解決できるかもしれない。
胸の中の霧が少し晴れた。
ただし、都合よく偶然に見せかけないといけない。捕まえるのに必要なのは、運ではなく、観察力だ。
——よし、やってみるか。
俺は決意を固めた。
翌朝、俺は窓口の列を観察した。
朝の石畳は夜露で湿り、靴音が少し鈍く響く。窓口前にはすでに人が集まり始めていた。革袋を抱えた商人たちの肩がこわばっている。
列の端に立つだけで、空気の揺れが分かる。今日は荒れる。そういう日だ。
案の定、あの痩せた商人がいた。
奴は今日も、色の薄い銀貨を持っているはずだ。
俺は奴の動きを注意深く見守った。
奴は列の中で、何度も周囲を見回している。視線が落ち着かない。革袋を握る手に、妙に力が入っている。
怪しい奴は、手が語る。
彼が窓口に近づく。
銀貨を差し出す。
担当者が秤で測る。
「……うん、大丈夫だな」
受け取る。
その瞬間、俺の背中に冷たいものが走った。
今、受け取ったら、薄い硬貨は帳面に入り、金庫に混ざる。混ざった瞬間、追跡は難しくなる。ここで止めなきゃいけない。
——今だ。
俺は窓口に駆け寄った。
「ちょっと待ってください!」
担当者が驚いて振り向いた。
「何だ、お前は?」
窓口の空気が一瞬だけ止まる。列の人々が顔を上げる。
「その銀貨、おかしいです。厚みを測ってください」
「厚み?」
「はい。色が薄いでしょう?たぶん、中身が削られてます」
言い切った瞬間、痩せた商人の喉がごくりと動いた。ほんの小さな反応。でも、それが答えだ。
担当者は銀貨をよく見た。
「……確かに、色が薄いな」
そして、実務長が作らせた厚み測定用の板を取り出した。
銀貨を溝に嵌め込む。
——スカスカだ。
板と硬貨の間に、ありえないほどの隙間ができた。
その隙間は、ただの空間じゃない。誰かが削って作った、そんな意図を示している。
「本当だ……これ、薄いぞ!」
担当者が叫んだ。
痩せた商人の顔が、さっと青ざめた。弁明の言葉より先に、血が引く。嘘をつく奴の反応だ。
「ま、待て!これは——」
「お前、偽貨を流そうとしたな!」
担当者が商人の腕を掴んだ。
「守衛を呼べ!」
騒ぎを聞きつけて、守衛が駆けつけた。
鎧の擦れる音が近づき、列の人々が半歩だけ後ろに引く。人は危険から距離を取る。
そして、守衛が商人を取り押さえた。
「離せ!俺は何もしてない!」
「黙れ!偽貨は重罪だ!」
商人は引きずられていった。
石畳に靴が擦れ、革袋が床に当たって鈍い音がする。小さな叫びが周囲に飛び、すぐに飲み込まれる。
俺はその様子を見ながら、ふうと息を吐いた。
——これで、一つ片付いた。
息を吐いたのは安堵だけじゃない。
失敗したら、俺はただ口出しする見習いで終わっていた。たぶん、それでこの街での足場は消えていた。
実務長が俺のところに来た。
「レオン、よくやった」
「いえ、当然のことをしただけです」
強がりだ。内心は小刻みに震えている。でも、この震えを見せたら負ける。ここは仕事の場だ。仕事の場では、感情よりも結果だ。
「いや、お前のおかげで偽貨の流通を一つ止められた。これは大きい」
実務長は俺の肩を叩いた。
叩かれた瞬間、肩の骨まで響いた。思ったより力がある。現場を支える人間の手だ。
この人は、誰かを簡単に褒めるタイプじゃない。褒めるときは、褒める理由が帳面みたいに揃っている。
「よし。お前の保証人、俺がなってやる」
「本当ですか?」
「ああ、特例だがな。お前は信用できる。だから、安心して試練を受けてくれ」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。
そして——心の中で、頷いた。
よし、これで第一段階はクリアだ。
次は、試練を乗り越えて、正式な行員になる。
そして——この現場を、まずは整えていこう。




