偽貨の列と締めのズレ#6
その日から、俺はレギス・レジャーの見習いとして働き始めた。
朝、石畳の通りに出ると、露店の焼き麦の匂いと、馬糞の酸っぱい匂いが混ざって鼻を刺す。遠くで鐘楼が鳴る。その鐘の間合いが微妙に歪んでいるのが、もう耳に馴染んでしまっている。現世では、時間は正しいのが当たり前だったが、ここでは「大体」だ。
最初の仕事は、ミラの手伝いだった。
ミラは帳方の見習いで、窓口で受け取った銀貨を記録し、金庫に納める役割を担っている。
だが、彼女一人では手が回らない。
窓口の担当者は三人いて、それぞれが好き勝手に記録を書く。
それを集めて、整理して、金庫の実数と照合する。
——これを、ミラは毎日やっている。
窓口の前では、硬貨が皿の上で跳ね、金属音が響く。指の腹に残るシルバの冷たさ。革袋を開けた瞬間の湿った匂い。たまに混じる怒鳴り声。
ミラはその全部を受け止めながら、帳面を丁寧に整えようとしている。だが、現場は容赦なく彼女の丁寧さを削ってくる。
そして、毎日のように帳面が合わない。合わない数字の裏には、必ず理由がある。
「レオンさん、これ、どう思います?」
ミラが困った顔で帳面を見せてきた。
彼女の指先が少し震えている。
「この行、数字が消されてるんですけど……」
俺は帳面を見た。
確かに、インクで数字が塗りつぶされている行がある。黒い染みが紙に沈んで、そこだけ紙が波打っている。消した人間の焦りまで滲み出てるみたいだ。
「たぶん、書き間違えて、上から塗ったんでしょう」
「でも、元の数字が読めないです……」
ミラの声が小さくなる。
「光に透かしてみてください」
ミラは帳面を窓の光に透かした。
朝の斜光が紙の繊維を浮かび上がらせ、インクの下の筆圧が影になる。
「あ……読めます! 『シルバ×15』って書いてあります!」
「じゃあ、それを記録しておいてください。で、横に『訂正あり』って注釈を入れておく」
「わかりました!」
ミラは嬉しそうに帳面に書き込んだ。
その笑顔を見て、俺の胸の奥が少しだけ温かくなる。現場は、こういう小さな成功でしか持たない。俺は彼女の様子を見ながら、思った。
この子、真面目だな。
ちゃんと教えれば、伸びるタイプだ。
ただし、伸びる前に折られないように、守り方も用意しないといけない。
「ミラさん」
「はい?」
「一つ提案なんですけど、帳面の書き方、統一しませんか?」
「統一、ですか?」
ミラの目が一瞬泳ぐ。統一というのは、現場にとっては面倒になりがちだ。だが、面倒を先にやることで、後の混乱が消える。
「はい。今は担当者によって書き方がバラバラですよね。それが、集計ミスの原因になってる」
「確かに……」
ミラは帳面の端を無意識に指で押さえる。
「だから、書式を決めるんです。たとえば——」
俺は手近な紙を取り、書いてみせた。
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日付 | 時刻 | 商人名 | シルバ枚数 | 担当者名 | 備考
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「こういう表を作って、全員にこの形式で書いてもらう。そうすれば、集計が楽になります」
ミラは目を輝かせた。
「それ、すごくいいです!」
その反応に、俺は少しだけ笑ってしまう。現世だと、こういう提案は「とりあえず検討します」で終わることが多い。だがここでは、すぐに現場に落とし込めそうだ。ゼロから作れる世界は、やっぱり面白い。
「ですよね。じゃあ、実務長に提案してみましょう」
「はい!」
俺たちは実務長のところに行き、提案した。
実務長は最初、渋い顔をしていたが——
眉間の皺が深く、目は疲れている。現場の責任者の目だ。
「……まあ、試してみる価値はあるか」
そう言って、承認してくれた。
誰かが「やっていい」と言ってくれるだけで、現場は前に進める。許可のない改善は、ただの反抗になり得る。
「よし。明日から、この書式を使え。担当者たちにも伝えておく」
「ありがとうございます!」
ミラは嬉しそうに頭を下げた。
俺も頭を下げた。
頭を下げながら、俺は内心で別のことを考えていた。
そして——その日の夕方、窓口が閉まった後、俺は金庫の前で立ち止まった。
昼間の喧騒が嘘みたいに静かで、金庫の扉だけが鈍い光を返している。空気はひんやりして、金属と石の匂いが濃い。
金庫の奥に、あの七つ星の印章がついた扉がある。
セブン・ヴォルトの倉庫。
あの印章を見ると、胸の奥がざらつく。
あの中には、何が入っているんだろう。
そして——ひょっとすると、あの偽貨は、ここから流れてきているんじゃないか。
俺はそんなことを考えながら、扉を見つめていた。
すると——背後から声がした。
「何を見てるんだ?」
振り向くと、実務長が立っていた。
「あ、いえ……あの扉のことが気になって」
「ああ、セブン・ヴォルトの倉庫か」
「はい。彼ら、ここで何をしてるんですか?」
実務長は腕を組んだ。
「両替と、約束札の保管だ」
「約束札?」
「ああ。商人たちが使う、約束の紙だ。『後で払う』って約束を紙に書いて、それを担保に取引する」
「なるほど……」
——つまり、現世で言う手形取引の仕組みか。
「で、その約束札を、セブン・ヴォルトが保管してるんですか?」
「ああ。彼らは街で一番大きい商会連合だからな。信用もある。だから、みんな彼らに約束札を預ける」
「……ということは、彼らは街の商人たちの約束を全部把握してるんですね」
「まあ、そういうことだ」
実務長は少し苦い顔をした。
「本当は、俺たちがそれをやるべきなんだが……うちには、そこまでの信用がない」
「信用、ですか」
「ああ。帳面が合わない、記録が曖昧、締めの時間がズレる——そんな組織を、誰が信用する?」
実務長は自嘲気味に笑った。
「だから、セブン・ヴォルトに頼るしかないんだ」
「……でも、それって危なくないですか?」
「何がだ?」
「彼らに依存しすぎると、彼らに支配されます。情報も、金も、約束も、全部彼らが握ることになる」
実務長は黙った。
そして——しばらくしてから、ぽつりと言った。
「……お前の言う通りだ」
「だったら——」
「だが、今のうちには、それを変える力がない」
実務長は俺を真っ直ぐ見た。
「だから、お前には少し期待してるんだ」
「俺に?」
「ああ。お前は、物事を整理するのが上手い。仕組みを作るのも上手い。そういう奴が、今のうちには必要なんだ」
「……」
「だから、うちをまともな組織にしてくれ」
実務長はそう言って、俺の肩を叩いた。
「期待してるぞ、レオン」
「……わかりました。やってみます」
俺はそう答えた。
だが——心の中では、少し不安だった。
——俺一人で、この組織を変えられるのか?
しかも、敵は内部にもいる。
セブン・ヴォルトは、この街の金と情報を握っている。
奴らを相手に、どうやって戦えばいい?
だが——同時に、こうも思った。
——これは、やりがいのある仕事だ。
現世では、俺は既に出来上がったシステムの中で働いていた。
ルールは決まっていて、手順も決まっていて、俺はそれを守るだけだった。
だが、ここは違う。
ルールも、手順も、何もない。
全部、ゼロから作れる。
それはそれで——とても、面白い。
俺は拳を強く握った。
よし、やってやろう。
この世界で、戦わずに勝つ仕組みを作るんだ。




