偽貨の列と締めのズレ#5
実務長と名乗った太った男は、俺を金庫の前に連れて行った。
石造りの廊下はひんやりしていて、足音がやけに大きく響く。鼻の奥に、金属と油と古い木の匂いが混ざって入り込んでくる。壁際には鍵の束が吊るされ、どれも使い込まれて黒ずんでいる。
金庫扉は、とにかく大きい。分厚い鉄板に、王冠の紋章。小さな傷と打痕がいくつも刻まれていて、ここで何度も揉め事が起きたのが見て取れる。扉の前には守衛が二人。鎧の隙間から汗の匂いが漂い、手は槍の柄を離さない。
実務長は扉の前で立ち止まり、俺の顔を横から覗き込むように見た。笑っているようで、笑っていない目。腹は太いのに、視線だけは鋭い。
「お前、名前は?」
「レオン・ミナトです」
「レオンか。変わった名だな」
「……まあ、そうかもしれません」
名前を言った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。ここでは名前が身分になる。俺にはそれ以外、何もない。だからこそ、名前を差し出す感覚が妙に生々しい。
「で、お前は何者だ? 旅の商人か?」
「いえ、ただの……仕事を探してる者です」
「仕事をねえ……」
実務長は腕を組んで、しばらく俺を観察していた。沈黙が長い。わざとだ。沈黙は人を喋らせる。現世の会議でもそうだった。沈黙を恐れた方が、余計な情報を吐く。
俺は視線を逸らさず、呼吸の速さだけは隠した。
そして、実務長は、ふと金庫の中を指差した。
「さっき、ミラの帳面を直したんだって?」
「はい。二重計上と単位ミスを見つけました」
言いながら、ミラの慌てた手つきが脳裏に浮かんだ。汗で紙が波打ち、墨が滲んでいた。焦りは字に出る。字は嘘をつけない。
「ほう。じゃあ、これも見てくれるか?」
実務長は、別の帳面を取り出した。
革の表紙は擦り切れていて、角が丸い。何度も開かれ、閉じられ、誰かの指先に触れられてきた重みがある。ページをめくると、墨の匂いがふわっと立った。湿気を吸った紙が、指に少しだけ張り付く。
「これは一昨日の記録だ。これも合わない。シルバで50枚ほどな」
俺は帳面を受け取り、ざっと目を通した。
まず目に入るのは、書式の乱れだ。行の高さが揃っていない。桁の位置も統一されていない。受領と返却の扱いが混ざっている。誰かの頭の中では整理されていても、紙の上では崩れている。
そして——ある行に、明らかにおかしな記述がある。
『シルバ×50 受領 ※重量確認済』
だが、その下の行には——
『シルバ×50 返却 ※品位不良』
「……これ、受け取ったあとに返してますね」
「ん?」
「ここです。同じ商人から50枚受け取って、その場で品位不良として返却してる。でも、合算する時に受領分だけが足されてる」
実務長の目が一瞬だけ鋭くなり、次にふっと緩んだ。理解した顔だ。
「ああ……そうか、そういうことか」
実務長は頭を掻いた。指が短く、太い。だが手の甲には小さな古傷がある。机の仕事だけじゃない。現場で揉め事を止めてきた手だ。
「窓口で弾いたものは、そもそも記録から消さないといけないのに、消し忘れたんだな」
「そうだと思います。だから、帳面上は50枚多くなってる」
「なるほどな……お前、目がいいな」
「いえ、慣れてるだけです」
慣れ。そう言ってしまった自分に、少しだけ苦笑いが出そうになった。現世の俺なら、ここで余計なことは言わない。だが、今の俺は身分証がない。信用が必要だ。
「慣れてる? どこで?」
「……前にいた場所で、似たような仕事をしてました」
「ふうん」
実務長は興味深そうに俺を見た。
その視線の裏に、二つの計算が見える。使えるか、危険か。現場の責任者は、善人か悪人かで人を見ない。役に立つかどうかで見る。俺も同じだった。
「じゃあ、もう一つ聞くが——お前、偽貨は見分けられるか?」
「偽貨、ですか」
「ああ。最近、妙な銀貨が混じってるんだ。重さは合ってるんだが、色が薄い。たぶん、中身を削って別の金属を混ぜてるんだと思う」
——やっぱり、内部では気づいていたか。
俺は頷いた。
「昨日、窓口で見ました。確かに、色と厚みがおかしい銀貨がありました」
「お前も気づいたか」
「はい。ただ、秤では弾けないんですよね。重さが基準を満たしてるから」
言いながら、頭の中に『削り取り』の指先感覚が蘇る。縁のわずかな段差。指の腹が拾う微細な違和感。現世では数字だった。ここでは金属だ。だが、仕事の本質は変わらない。
「その通りだ。困ったもんだ」
実務長はため息をついた。
「で、どうすればいいと思う?」
「……重さだけじゃなくて、厚みも測るべきです」
「厚み?」
「はい。同じ重さでも、厚みが薄ければ、中身が削られてる証拠です。厚みを測る道具を用意すれば、ある程度は弾けると思います」
実務長の顔が、わずかに明るくなった。
「なるほど……それはいいな」
実務長は顎に手を当てて考え込んだ。
顎の脂肪が少し揺れたのに、目は揺れていない。太っていても、鈍くはない。むしろ鋭い。
「だが、厚みを測る道具なんて、うちにはないぞ」
「作ればいいんじゃないですか? 簡単なものでいいんです。基準の厚みに合わせた溝を彫った板を用意して、そこに銀貨を嵌め込む。嵌まらなければ厚すぎる、スカスカなら薄すぎる」
口に出しながら、頭の中で現場の動線を思い浮かべる。窓口の横に板を置く。受領前に銀貨を一度通す。怪しいのだけ二段目の確認へ回す。全部を精密にやる必要はない。最初のふるいがあるだけで、列は進。
「……お前、本当にただの旅人か?」
「まあ、そういうことにしておいてください」
旅人で通すなら、ここまで口を出すのは危険だ。だが、危険を取らないと信用は取れない。
実務長は笑った。
笑い声は短い。だが、それだけで警戒が一段ほど解ける。
「面白い奴だな。よし、お前を雇おう」
「え?」
心臓が一瞬だけ跳ねた。都合が良すぎるが、それは相手の事情のせいだ。
「うちは常に人手が足りてないんだ。特に、帳面をちゃんと読める奴がいない。お前みたいな奴がいてくれると助かる」
「……でも、俺は何の身分証もないですよ」
言いながら、喉が乾いた。ここで引かれたら終わりだ。
「構わん。見習いとして雇う。給金はシルバで一日10枚。食事と寝床も用意する」
一日10枚。
カッパに換算すると、100カッパ。
昨日の日雇いよりも多い。
悪くないな。
「……わかりました。お願いします」
「よし。じゃあ、今日から働いてもらう。まずはミラの手伝いをしてくれ」
「了解しました」
俺はそう答えて、実務長に頭を下げた。
そして——ふと、聞いてみた。
「あの、一つ聞いていいですか?」
「何だ?」
「さっき、窓口が三ベルで締まりましたよね」
「ああ、そうだが?」
「でも、鐘楼の鐘って、正確なんですか?」
実務長は眉をひそめた。
「正確? どういう意味だ?」
「いえ、昨日、門の外で仕事をしてたときに鐘の音を聞いたんですけど、間隔が一定じゃない気がして」
「……ああ、そうだな。あの鐘は手動で鳴らしてるからな。多少のズレはある」
「ということは、締めの時間も、実際には曖昧なんですか?」
「まあ……そうなるな」
実務長は少し困った顔をした。
「本当は、日時計を基準にすべきなんだが、日時計は曇りの日には使えない。だから、鐘楼の鐘を基準にしてる。多少ズレても、まあ、許容範囲だと思ってる」
「でも、それだと商人たちが混乱しませんか? 昨日も、締め時間ギリギリで来た人たちが怒ってましたけど」
「……まあ、そうだな」
実務長は頭を掻いた。
「だが、どうしようもないんだよ。鐘楼の管理は街の評議会の管轄だ。俺たちには変えられん」
「なるほど……」
——つまり、締めの時間が曖昧なのは、構造的な問題なのか。
これは、簡単には直せないな。
だが——逆に言えば、ここに手を入れられれば、大きく変えられる。
「わかりました。ありがとうございます」
「おう。じゃあ、頼むぞ」
実務長はそう言って、事務室を出ていった。




