偽貨の列と締めのズレ#4
その夜、俺は街の片隅にある安宿に泊まった。
石畳の路地を曲がった先、看板の文字はかすれていて、灯りは煤で曇っている。扉を開けた瞬間、酒と汗と煮込み料理の匂いが混ざって鼻に刺さった。旅人の笑い声、どこかの卓で転がるカッパの音、床板の軋み。ここが安宿だと、音だけで分かる。
カッパで30枚。相場を知らないので、ぼったくりかどうかもわからないが、他に選択肢もない。
俺は、帳場で受け取った木札の部屋番号を確かめた。
部屋は狭く、ベッドは硬かった。
壁は石で、湿気が抜けない。薄い毛布は洗っているのか怪しく、窓の隙間から冷たい風がすうっと入り込む。ベッドに腰を下ろすと、藁がぎしりと鳴って、背中に小さな棒が当たった。けれど不思議と、嫌ではなかった。とりあえず眠れる硬さだ。現世で炎上対応をしていた頃、会議室の椅子でも眠ったことがある。
毛布をかぶり、天井の染みを見つめているうちに、意識が落ちていく。その直前、あの銀貨の違和感が脳裏に浮かんだ。重さのぶれ。削りの癖。匂い。混乱の渦に都合よく紛れ込むもの。
そして、もう一つ。鐘楼のベルがずれていたこと。時間がずれると、締めがずれる。締めがずれると、責任が薄まる。責任が薄まると、不正は濃くなる。
俺は寝返りを打ち、乾いた笑いを喉の奥で噛み殺した。
異世界でも結局、俺が相手にするのは人の弱さか。
そして——翌朝、俺は再びレギス・レジャーの前に立っていた。
空気は冷たく、息が白い。街はもう動いている。荷車の軸がきしみ、馬の蹄が石畳を叩く。遠くで焼きたてのパンの匂いが流れてきて、腹が鳴りそうになる。けれど腹より先に、目が仕事を始めた。
今日も、長い列ができている。
列は昨日よりも太い。人の肩が重なり、革袋が擦れ、誰かの苛立ちが空気をざらつかせている。列の端では、手持ちのカッパを数え直している少年がいる。商人は腕を組み、兵士は槍を床に打ちつけ、獣人は鼻をひくつかせて周囲を警戒している。
今日は早い段階で弾けそうだ。
俺は列には並ばず、建物の入口の脇に立って、中の様子を観察した。
入口の陰は、ちょうど死角だ。守衛の視線は列と扉に集中し、窓口の担当者は硬貨と紙に目を落としている。こういう場所に立つと、現場の癖がよく見える。誰が焦り、誰が怠り、誰が抜け道を探しているか。
俺は呼吸を整え、目だけを動かした。鐘楼の音も耳に入れる。ベルの間隔。鳴り方。今日は、昨日と同じずれ方か。
すると、一人の若い女性が出てきた。
彼女は帳面を抱えていて、何か困った顔をしている。肩が少しすくみ、足取りが落ち着かない。扉の外に出た瞬間、列の視線が彼女に刺さって、彼女はびくりと背中を丸めた。
帳面を抱える手が、ほんの少し震えている。あれは寒さではない。追い詰められた時の震えだ。
俺は声をかけてみた。
「どうかしたんですか?」
彼女はびくりとして、俺を見た。
目が泳ぐ。逃げ道を探す目だ。部外者に弱みを見せたくない。しかし弱みを抱えたままでは潰れる。そういう葛藤が、一瞬で表情に出る。
「あ、あの……いえ、大丈夫です」
「大丈夫には見えませんけど」
「……実は、帳面が合わなくて」
「帳面?」
「はい。昨日受け取った銀貨の数と、金庫に入っている数が合わないんです」
——ああ、やっぱりか。
俺は心の中で呟いた。
現世でも、現場が詰まると、勘定相違が起こる。合わない理由は、だいたい三つ。数え間違い、書き間違い、盗まれた。
そしてこの街では、偽貨という四つ目が混ざる。
「どれくらい合わないんです?」
「シルバで10枚……いえ、15枚くらい」
「それは大きいですね」
「はい……どこで間違えたのか、全然わからなくて……」
彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。
唇がきゅっと固まり、目尻が熱を帯びる。必死に堪えているのが分かる。泣いたら仕事が崩れる。彼女はたぶん、それを知っている。知っていて、なお怖い。
俺は少し考えて、言った。
「ちょっと見せてもらえますか?帳面と、金庫の中身」
「え?でも、あなたは……」
「ただの通りすがりです。でも、こういうのは得意なんで」
「得意、って……」
彼女はまだ疑っている。そりゃそうだ。だが、彼女の視線が帳面に落ちるたび、息が浅くなる。限界が近い。迷いは長く持たない。
彼女は迷ったようだったが、相当困っていたのか、結局頷いた。
「……わかりました。でも、内緒でお願いします」
「もちろん」
俺は彼女について、建物の中に入った。
扉をくぐると、外のざわめきが一段だけ遠くなる。代わりに、硬貨の擦れる音と、秤の針が跳ねる小さな金属音が耳に残る。窓口の奥では、担当者が疲れた顔で銀貨をひっくり返し、光に透かし、時々舌打ちしている。
空気は乾いていて、金属の匂いが濃い。金庫の匂いだ。
窓口の奥には、小さな事務室がある。
そこには、いくつかの机と、大きな金庫が置かれていた。机の上にはインク壺、擦り切れた羽ペン、紙片の山。床には銀貨が落ちていないかと、思わず視線が走る。
俺は一瞬だけ、現世のオフィスを思い出した。モニターの光とプリンタの排熱。ここにはない。だが散らかった机が招くミスという本質は同じだ。
彼女は帳面を広げて、俺に見せた。
「これが、昨日の受付の記録です」
帳面には、商人の名前と、受け取った銀貨の枚数が書かれている。
だが——記録の仕方がバラバラだ。
ある行は『シルバ×20』と書かれているが、別の行は『20枚』とだけ書かれている。さらに別の行は『銀貨 二十』と書かれている。
インクの濃さも違う。筆圧も違う。書き手が違うのが、文字だけで分かる。
——これじゃ、集計できないだろ。
俺は心の中でため息をついた。
集計できないというのは、誰も責任を持てないということだ。責任が持てない場所は、穴だらけになる。穴は、意図せずとも誰かの得になる。
「この帳面、誰が書いてるんですか?」
「窓口の担当者が、それぞれ書いてます」
「それぞれ?」
「はい。担当者が三人いて、それぞれが自分の受け取った分を記録するんです」
「で、それを最後に合算するんですね」
「はい」
——これは駄目だ。
書式が統一されていない。単位表記も曖昧。
そして——たぶん、途中で書き漏れもあるだろう。
俺は金庫を見た。中には、銀貨がざっくりと入れられている。袋にも分かれていない。種類ごとの仕切りもない。
混ざった銀貨の山は、それだけで誤差を生む。誤差が生まれると、妥協が生まれる。妥協が生まれると、盗みが生まれる。
「これ、数えました?」
「はい、今朝数えました。シルバが352枚でした」
「で、帳面上は?」
「367枚です」
「15枚足りない、と」
「はい……」
彼女の声が小さくなる。
たとえ本人が盗んでいなくても、足りないと言った瞬間に疑いの目は彼女に行く。
俺はなるべく淡々と、帳面をもう一度確認した。
そして、ある行に目を留めた。
『銀貨 二十五』
だが、その上の行には『シルバ×25』と書かれている。
——これ、二重に数えてるんじゃないか?
俺は彼女に聞いた。
「この二つの行、同じ取引じゃないですか?」
「え?」
彼女は帳面を見て、目を見開いた。
まぶたが大きく開き、そこから一気に血の気が引く。
「あ……そうかもしれません。同じ商人の名前です」
「たぶん、担当者が交代するときに、引き継ぎミスで二重に書いちゃったんでしょう」
「そうなんですかね……」
「他にも、似たようなミスがないか確認してみてください。たぶん、帳面上の数字が実際より多く計上されてると思います」
彼女は帳面を見直し始めた。
指先で行を追い、唇で小さく数をなぞる。必死だ。必死だが、さっきまでの必死とは違う。今の必死は助かるかもしれない方向に向いている。
そして、数分後——
彼女の呼吸が一度止まり、次に勢いよく息が漏れた。
「ありました!ここも二重です!それから、ここは単位を間違えて十倍に書いてます!」
「でしょうね」
「全部直したら……合いました!本当に352枚です!」
彼女は顔を輝かせた。
頬がぱっと明るくなる。肩が落ちる。抱えていた重みが消えた人の動きだ。
救われたのは数字だけじゃない。彼女の立場も、たぶん今日一日は守られた。
「ありがとうございます!本当に助かりました!」
「いえ、大したことじゃないですよ」
俺はそう言ったが——心の中では、別のことを考えていた。
この組織、相当やばいな。
帳面が合わないのが日常化してる。書式も統一されてない。チェック体制もない。
これじゃ、不正をやろうと思えばいくらでもできる。
そして——昨日見た、あの偽貨。あれも、こういう混乱に乗じて紛れ込んでくるんだろう。
混乱はただの事故じゃない。誰かにとっては好都合、それが積み重なると、仕組みになる。誰かの仕組みだ。
俺は彼女に聞いた。
「あの、一つ聞いていいですか?」
「はい、何でしょう?」
「この建物の奥にある、七つ星の印章がついた部屋——あれは何ですか?」
彼女の顔が、一瞬曇った。
さっきまでの光が陰る。目がわずかに伏せられる。答えたくないが、嘘はつけない。そういう顔だ。
「……あれは、『セブン・ヴォルト』の倉庫です」
「セブン・ヴォルト?」
「はい。この街で一番大きい商会連合です。うちの金庫の一部を、彼らに貸してるんです」
「なるほど……」
——つまり、内部に敵を招きこんでいる、と。
俺はそう理解した。
外からの敵は分かりやすい。厄介なのは、内側からじわじわ攻めてくる敵だ。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ、こちらこそ!あの……よかったら、名前を教えてもらえますか?」
彼女の声は、さっきより少しだけ強い。救われた人は、次の一歩を踏み出せる。
「……レオンです。レオン・ミナト」
「私はミラ。ミラ・フェルンです。帳方の見習いをしてます」
「帳方、ですか」
「はい。でも、まだ見習いで……こうやって、失敗ばかりで……」
「大丈夫ですよ。誰でも最初はそうです」
俺はそう言って、彼女に微笑みかけた。
微笑んだ自分に、ほんの少し驚いた。現世では、笑う余裕などなかった。ここでは逆かもしれない。笑えた方が、相手が動く。
そして——その時、建物の入口から、太った男が入ってきた。
足音が重い。床板がきしむ。空気が変わる。周囲の会話が一段静かになる。現場のお偉方が来た時の反応だ。
彼の服はよく仕立てられていて、腹のあたりだけ無理をしている。指には指輪。靴は磨かれている。だが目は、磨かれていない。疲れと苛立ちがそのまま残っている。
彼は俺を見て、眉をひそめた。
「誰だ、お前は?」
「あ、実務長!この人は——」
ミラが慌てて説明しようとしたが、男は手を上げて遮った。
「部外者を事務室に入れるな。規則違反だぞ」
「でも、この人が帳面を直してくれて——」
「帳面を?」
男は俺をじろじろと見た。
俺の服を見て、次に手を見て、最後に目を見る。値踏みされている。味方にする価値があるか、危険か。
こういう視線は、現世でも何度も浴びた。会議室で、監査で、上層部の席で。
「……お前、帳面が読めるのか?」
「ええ、まあ」
「ふうん。じゃあ、ちょっと来い」
男は俺を手招きした。
その手は、命令の形をしている。だが、声の奥には焦りがある。帳面が合わないのは彼の胃も削っているはずだ。
俺はミラと目を合わせて、小さく頷いた。ミラは不安そうに唇を噛んだが、それでも、どこか期待が混ざっている。
そして、俺は男について行った。
——これは、チャンスかもしれない。




