偽貨の列と締めのズレ#2
最初に感じたのは、匂いだった。
土と草と、それから――ぬるい獣の匂い。家畜の体温が近くにあるときの、甘くて生臭い感じ。現世のオフィスでは絶対に嗅がない匂いだ。
次は音。鳥の声と、風に揺れる草の擦れる音。そして、遠くで鳴り響く鐘の音。
鐘は、金属の澄んだ音じゃない。少し濁って、空気に溶けるような、古い音だった。
「……は?」
声が出た。自分でも間抜けだと思う。
でも、仕方ない。倒れる直前まで、蛍光灯に照らされた白い天井を見ていたはずだ。視界に広がっているのは、空。青い。目が痛いほど青い。雲がゆっくり流れている。
俺はゆっくりと体を起こした。背中に湿った草の感触が貼りついてくる。指で地面を押すと、土は柔らかい。爪の間に入り込む。
見渡す限り、緑の草原だった。遠くには城壁のようなものが見え、その向こうには石造りの建物が並んでいる。煙が細く立っていて、生活の匂いがここまで届く。
空は青く、太陽は高い位置にある。影は短い。体感では昼前――いや、ここではそんな言い方は通じないかもしれないが、少なくとも夜明けの寒さではない。
「夢……じゃないよな」
言いながら、自分の声が妙に乾いて聞こえた。喉が渇いている。心筋梗塞の後ってこんな感じなのか――いや、そんな知識はない。
夢なら、痛みや匂いは薄い。こんなに生々しく、喉の奥が焼けるように乾くことはない。
……つまり、現実だ。
手を見る。自分の手だ。だが、何かが違う。指が少し長い。皮膚が若い。血管の浮き方が違う。
そして、服が違う。さっきまで着ていたはずのスーツは消えて、代わりに粗末な麻の服を着ている。縫い目は荒く、布は硬い。汗を吸って重くなるやつだ。
腰に紐。ポケットはない。――現世の俺なら、ポケットがない服は不安でしかない。財布もスマホも、何も入れられない。
立ち上がって周囲を確認する。
人の気配はない。ただ、遠くの城壁の方から、かすかな人の声が聞こえる。叫び声ではない。生活のざわめきだ。
風が吹くたびに、草の波が揺れる。その向こうに、城壁が見える。巨大な塊だ。ここが本当に中世っぽい世界なら、城壁は都市の命綱だ。
――ということは、壁の内側には守られた秩序がある。外側は、その逆だ。
「とりあえず……あっちか」
俺は城壁に向かって歩き出した。足元の草が膝をこする。靴が違う。ビジネス向きの革靴ではない。薄い革の靴だ。石畳を歩いたら足が死ぬやつ。
歩きながら、状況を整理する。
そうして、パニックを避けるのだ。
まず、俺は死んだ。たぶん、心筋梗塞か何かだ。
次に、目が覚めたらここにいた。
つまり——これは、いわゆる異世界転生ってやつか。
全くもって荒唐無稽な話だが、目の前の光景が現実だと肯定している。
ならば、受け入れるしかない。
問題は、これからどうするかだ。
まず、情報を集める。ここがどこで、どういう世界で、どういうルールで動いているのか。
次に、生きる手段を確保する。食う・寝る・金を稼ぐ。
そして——できれば、この世界で何か役に立つ仕事をしたい。
俺は、仕事をしていないと落ち着かない性質なのだ。
……この、仕事をしたいという自分の欲求が、今は少しだけ心強かった。
城壁に近づくと、門が見えた。
門は思ったより生々しい。木材は黒ずんでいて、鉄の金具で補強されている。傷だらけだ。何かがぶつかった痕、刃が当たった痕、焦げた痕。
ここは、守るために作られた場所だ。守る相手がいる。守られる側もいる。
門の前には、何人もの人が並んでいる。
商人らしき者、冒険者風の武装をした者、荷車を引く者。
そして、人間だけじゃない。耳が尖った者、背が低くて肩幅の広い者、毛の多い者。
……亜人種が普通に混じっている。
その事実に驚く暇はない。列は流れでできている。流れに入らないと、ここでは生き残れない気がした。
門の脇には守衛が立っていて、一人ずつ何かを確認している。
紙切れではない。木札のようなものを見せる者もいれば、袋を開けて硬貨を見せる者もいる。
守衛は目だけじゃなく、手で触っている。硬貨を指でつまみ、秤に乗せるしぐさ。
重さがここでは価値の根っこなのかもしれない。
俺も列に並んだ。
列に入った瞬間、背中に視線が刺さった。俺の服装が浮いているのだろう。あるいは、俺の顔が知らない土地の顔なのか。
こういうとき、目立つのはまずい。目立つのは、狙われる。
だから俺は、視線を受け流す顔を作った。
現場で鍛えられた、管理職の無表情だ。
しばらくして、俺の番が来た。
守衛は俺を見て、少し眉をひそめた。見慣れない臭いでもしたのか、鼻を鳴らす。
「旅人か?身分証は?」
声は硬い。仕事の声だ。
俺は正直に言った。ここで嘘をついても、裏が取れない嘘はすぐ破れる。
「……ない」
「ないだと?じゃあ入市税を払え。カッパで50だ」
カッパ。貨幣の単位らしい。
現世の俺は、単位を聞いた瞬間に脳内で換算表を作ることができた。
だが、いまの俺には基準がない。換算できない。換算できないのは不安だ。
それ以上に――財布がない。
「金もない」
守衛は露骨に嫌そうな顔をした。
人間、どの世界でも金のない奴には同じ顔をする。
その顔が、妙に懐かしくて、少しだけ苦くなった。
「じゃあ入れんな。向こうの詰所で日雇いの仕事でも探せ」
そう言って、俺を脇に追いやった。
列の流れが俺の横を通り過ぎていく。肩がぶつかり、荷車の車輪がきしむ。誰も俺に構わない。
仕方ない。まずは金を稼ぐしかないか。
「入るための金がない」なら、「入る前に金を作る」。
ただそれだけのこと。ルールは単純だ。
俺は守衛に教えられた詰所に向かった。
詰所は門の外にある小さな小屋で、中には数人の男たちが座り込んでいた。
空気がむっとする。汗と土と、染みついた酒の匂い。
視線が一斉にこちらを向く。獲物を見る目が混じっている。
俺は背筋を伸ばした。弱く見えたら終わりだ。その終わりは、ここでは文字通りの終わりになりかねない。
「仕事を探してるんだが」
俺がそう言うと、小屋の奥から太った男が出てきた。
太っている、というより「よく食っている」。腹が前に出ているのに、動きが妙に軽い。
こういうタイプは、現世にもいる。現場を知っていて、鼻が利く。金の匂いに特に。
「仕事?何ができる?」
「……計算とか、帳簿の整理とか」
俺がそう言った瞬間、小屋の中の空気が笑いに傾いた。
笑いは刃だ。弱い者を切り、座らせる。
「は?そんなもん誰が頼むかよ。荷運びか、街道の掃除か、肥溜めの汲み取りくらいしかねえぞ」
肥溜め、という単語が耳に刺さる。
現世の俺なら、絶対にやらない仕事だ。
でも現世の俺は、もういない。
ここで生きるなら、ここでできることをするしかない。
「……荷運びで」
口に出した自分の声が、少しだけ悔しそうだった。
だが、その悔しさは、喉元で飲み込んだ。悔しさは金にならない。
「よし。じゃあこれを運べ」
男は俺に木箱を渡した。
中身は何か重い。たぶん、石か何かだ。持ち上げた瞬間、腕が震える。
重さが現世の重さと違う。筋肉が驚く。
それでも、箱は今の現実だ。落としたら終わりだ。
「これを、あの建物まで運べ。終わったらカッパで80やる」
俺は箱を抱えて歩き出した。
重い。腕が悲鳴を上げる。手のひらに食い込む木の角が痛い。
汗が背中を流れる。麻の服が肌に貼りつく。
それでも、足は止めない。
仕事だ。やるしかない。
……いや、仕事というより、「ここに居る理由」を稼ぐ作業だ。
何度か往復して、ようやく作業が終わった。
息が上がる。肺が痛い。手のひらが赤い。
太った男は約束通り、小さな銅貨を80枚渡してくれた。
手のひらに落ちた瞬間、じゃらりと鳴った。軽い音なのに、やけに嬉しい。
これが、カッパか。
銅貨は、小さい。汚れている。削れているものも混じっている。
……削れている。
「ありがとう」
「おう。また来いよ」
男の声は気軽だ。だがその気軽さは、代わりはいくらでもいる、という意味でもある。
現世でも同じだ。代替可能な人間は、代替される。
そうならないためには、仕組みを握るしかない。
俺はカッパを握りしめて、再び門に向かった。
今度は入市税を払えるはずだ。
銅貨の感触が、指の間でカチャカチャ鳴る。硬貨の音は、どの世界でも安心に近い。
だが――門の前で、俺は足を止めた。
守衛が、別の商人と揉めている。
「この銀貨は受け取れん!」
「何を言う! ちゃんとシルバだぞ!」
「重さが足りん。これは削られてる」
「削ってなどいない!」
二人の声は、門前の空気を一気に固くした。
列の人間がざわつく。ざわつきは伝染する。
現世の窓口でも同じだ。一人が怒鳴ると、周りの不安が膨らむ。
商人は激昂しているが、守衛は首を横に振った。
守衛の手には、小さな秤がある。秤の針が、わずかに左に傾いているのが見えた。
わずか――だが、ここではその「わずか」が命取りなのだろう。
「規定より軽い。これは偽貨か、削り取りだ。没収する」
「ふざけるな!」
騒ぎを聞きつけて、別の守衛が駆けつけた。
そして、商人を取り押さえて引きずっていく。
商人の袋が揺れ、銀貨がひとつ地面に落ちた。
転がった銀色の円盤が、ぎらりと光る。
――縁が、少し薄い。
俺はその銀貨を見ながら、心の中で呟いた。
——ああ、なるほど。
この世界では、貨幣の重さが重要なのか。
削り取りや偽造が横行しているから、毎回確認が必要になる。
つまり、貨幣の管理がずさんなのだ。
だが、俺はそこで思い直した。
ずさん、ではない。
ずさんに、せざるを得ない構造がある。
秤はある。でも時間がない。守衛はいる。でも人数が足りない。
だから門前で揉める。揉めるから列が詰まる。列が詰まるから、さらに雑になる。
悪循環だ。
だが——それは、俺にとってチャンスかもしれない。
現世で俺がやっていたのは、まさにこういう詰まりをほどいて、手順にする仕事だった。
この世界の貨幣と秤と列が、俺に向かって「どうにかしろ」と言っているように見えた。




