採用試験と合わない帳面#3
昼過ぎ、鐘楼の鐘が六回鳴った。
六ベル——昼休みの時間だ。
午前のざわつきが、そこでようやくひと息つく。
窓口前にできていた列は短くなり、帳面を抱えた担当者たちも、肩の力を抜いたように立ち上がっていく。椅子が引かれる音、硬貨を箱に戻す音、誰かが小さく欠伸をかみ殺す音。さっきまで張りつめていた空気が、少しだけゆるんだ。
担当者たちが、次々と窓口を離れる。
だが——ダリウスだけは残っていた。
彼は窓口に座ったまま、何か帳面を見ている。
休憩に向かう者たちの背中を見送りもせず、視線を落としたまま、机の上の帳面と銀貨を行き来させていた。
俺は近づいてみた。
「ダリウスさん、休憩は取らないんですか?」
声をかけると、ダリウスは少し遅れて顔を上げた。
考えごとに沈み込んでいたらしい。目の焦点がこちらに合うまで、わずかに間があった。
「ああ、お前は新人の……レオンだったか」
「はい」
名を覚えられていたことに、少しだけ意外さを覚える。
午前中は慌ただしかった。見習いの一人として埋もれていても、おかしくないと思っていたからだ。
「休憩は後でいい。今、確認したいことがあるんでな」
「確認?」
「ああ。さっき、受け取った銀貨なんだが、妙な気がするんだ」
そう言って、ダリウスは机の上の銀貨を指差した。
窓から差し込む昼の光が、その表面に淡く乗っている。ぱっと見では普通のシルバだ。だが、ダリウスの目つきは、ただの思いつきで言っているようには見えなかった。
「これなんだが……色が、ほんの少しおかしい」
俺は銀貨を手に取った。
指先に伝わる冷たさは、他の銀貨と大きくは変わらない。
確かに、微妙に色が薄い。
ただし、昨日見た偽貨ほど露骨ではない。知らない人間なら、そのまま流してしまう程度の差だ。
「秤では?」
「重さは問題ない。厚みも、ギリギリ基準内だ」
ダリウスの返事は早かった。
つまり、もう必要な確認は済ませている。休憩を取らずに残っていたのも、その先が気になっていたからだろう。
「じゃあ、大丈夫なんじゃないですか?」
そう言いながらも、言葉に手応えはなかった。
自分でも、完全にはそう思っていない。
目の前の銀貨には、数字で切れない違和感が残っていた。
「……そうかもしれんが」
ダリウスは眉をひそめた。
「だが、俺の勘が言ってるんだ。これは怪しい、と」
「勘、ですか」
あいまいな言葉に聞こえる。
けれど、この世界の現場では、そのあいまいさを笑えない。
帳面も規則も整っていない部分が多いからこそ、最後にものを言うのが、人の手触りや経験になっている。
「ああ。長年この仕事をしてると、わかるんだよ。本物と偽物の違いが」
——なるほど。
この人は、経験でカバーしてるタイプか。
しかも、ただの感覚ではない。何度も見て、何度も迷って、それでも外さないように磨いてきた勘だ。
そういう人間は、現場では強い。
一方で、本人にしか分からないままだと、仕組みにはならない。
「ダリウスさん、一つ聞いていいですか?」
「何だ?」
「偽貨を見分けるコツって、他にありますか?」
俺がそう聞くと、ダリウスはすぐには答えず、銀貨を手の中で転がした。
問い返すのではなく、考えてくれる。その時点で、この人は頭ごなしに切り捨てるタイプではないと分かる。
「コツ、か……」
ダリウスは少し考えた。
「まず、音だな」
「音?」
「ああ。本物の銀貨は、弾くと澄んだ音がする。偽物は、鈍い音がする」
彼は銀貨を指で弾いてみせた。
小さく指先をしならせると、静まりかけた窓口の空気に、細い金属音がすっと伸びた。
チーン、という高い音が響いた。
その音は短いのに、耳に残った。
昼休みで人が減った窓口だからこそ、なおさらよく分かる。
たしかに不快な濁りはない。音だけ聞けば、正しい銀貨に思える。
「これは本物の音だ。偽物だと、もっとくぐもった音になる」
「なるほど……」
見分け方が、ひとつ言葉になった。
こういう瞬間は大きい。現場の勘が、再現できる形に変わる入り口だからだ。
「次に、傷の入り方だ」
「傷?」
「ああ。本物の銀貨は、使ってるうちに自然な傷がつく。だが、偽物は——削った跡や、鋳造の失敗による歪みがある」
彼は銀貨の縁を指でなぞった。
ごつい指先が、慣れた動きでごく狭い部分を示す。毎日何枚も触れている人間の手つきだった。
「ここを見ろ。ほんの少し、削った跡がある」
俺は目を凝らした。
光の当て方を少し変えて、縁の線を追う。
確かに、縁の部分に微細な傷がある。
自然に擦れたというより、意図的に薄く削ったような、揃いすぎた乱れ方だ。
「これは……削り取りですか?」
「たぶんな。ほんの少しだけ削って、別の銀貨に混ぜる。そうやって、少しずつ利益を出すんだ」
「なるほど……」
——つまり、大規模な偽造じゃなくて、小規模な削り取りが横行してるのか。
一枚ごとの被害は小さい。
だからこそ見逃されやすいし、揉めるほどでもないと流される。
だが、こういうものは数がそろったときに一気に効いてくる。
現世でも同じだ。小さなほころびは、放っておくと最後に帳尻を合わせる人間を苦しめる。
銀貨を持つ指先に、少しだけ力が入った。
昨日の偽貨騒ぎだけでは終わらない。もっと地味で、もっと根深いやり方がある。
そう考えると、この一枚が急に重く感じられた。
「ダリウスさん、その銀貨、どうするんですか?」
「……どうするも何も、基準は満たしてる。だから、受け取るしかない」
答えは、苦いものだった。
正しい。だが、それでいいのかという気持ちも残る。
「でも、怪しいんでしょう?」
「怪しいだけじゃ、弾けないんだよ」
ダリウスは苦い顔をした。
そこには苛立ちよりも、何度も同じ場面を経験してきた人間の諦めがにじんでいた。
「明確な証拠がなければ、商人と揉める。揉めれば、評判が悪くなる。評判が悪くなれば、客が減る」
「……なるほど」
窓口の向こうで、休憩に向かいかけた担当者が一人、こちらをちらりと見てから去っていく。
皆、同じ問題をうっすら分かっていながら、日々の処理を優先して飲み込んでいるのだろう。
揉めないために通す。通すから積み上がる。積み上がるが、個々の責任にはしにくい。
嫌な構造だ。
——ここにも、構造的な問題がある。
担当者は、偽貨を見分ける能力はあるが——それを弾く権限や、基準がない。
だから、怪しいと思っても、通すしかない。
現場にいる人間ほど、問題を早く嗅ぎ取る。
だが、問題を止めるための言葉が与えられていない。
その状態は、働く側にとってかなりつらい。間違っているかもしれないと思いながら、受け取るしかないからだ。
ダリウスのしかめ面を見ていると、それがよく分かった。
「ダリウスさん、偽貨を弾く基準を明確にしたら、どうですか?」
「基準?」
「はい。たとえば、『音が鈍い場合は受け取らない』とか、『削り跡がある場合は受け取らない』とか」
言いながら、頭の中ではもう少し先まで見えていた。
全部を一気に厳しくする必要はない。
まずは、誰が見ても同じ判断になりやすい項目を並べる。それだけでも、現場はかなり楽になる。
勘に頼るしかなかったものが、共有できるものに変わるからだ。
「……それができれば、いいんだがな」
ダリウスは首を横に振った。
「だが、そういう基準を作るのは、俺たちじゃない。上の人間が決めることだ」
その言い方には、諦めと慎重さが半分ずつ混じっていた。
勝手に線を引けば、窓口が止まる。止まれば責任を問われる。
現場の人間ほど、その重さを知っている。
「じゃあ、提案してみたらどうですか?」
「提案、ねえ……」
ダリウスは少し考えて、それから笑った。
さっきまでの苦い顔とは違う。半分あきれたような、半分面白がるような笑い方だった。
「お前、面白い奴だな。まあ、試してみる価値はあるかもな」
その返事に、俺の胸の奥で小さく何かが動く。
否定されなかった。
現場の人間が、少しでも前に進める話として受け取ってくれた。
それだけで、この会話には意味があった。
「ですよね」
「よし。じゃあ、今度ベルナルド殿に話してみるよ」
「お願いします」
ここで無理に踏み込まないのが大事だ。
提案は、受け取る側が自分の言葉にできて初めて動く。
俺が正しさを押しつけるより、ダリウス自身が必要だと思って口にする方が、ずっと強い。
俺はそう言って、ダリウスに頭を下げた。
そして——その時、ミラが駆け寄ってきた。
「レオンさん! 引き継ぎ簿、見つけました!」
「本当ですか?」
「はい! こっちです!」
俺はミラについて、倉庫に向かった。




