さようなら
マリーローズはハヴェル様に「クレメント卿も、アンナが男性に変わるところをご覧になる?」と微笑みかける。まるで「珍しい土産があるから見ていくか」というような、軽い調子で。
彼女が花瓶に活けていた薔薇に手をかざすと、薔薇がしゅるりと伸びて私とハヴェル様の身体に巻き付く。
「ごゆっくりどうぞ」
マリーローズが振り返ると、聖杯を手にした王太子殿下が入ってきた。
「王太子殿下、こんなことに聖杯を使うなんていけませんっ!マリーは正気じゃありません!!」
「…わかってる」
王太子殿下は怒りのこもった目で私をみる。そしてすうっと剣を抜いた。
「お前のせいだ、アンナローズ!マリーが正気じゃないのも、マリーが俺を愛さないのも!!」
そうなの?私のせいなの?責任の一端は確実にあるだろう。もっと何かできたはず。だけど私だけのせいじゃない。どうしていつも私が悪者になってしまうの?どうしてみんながみんな私をはけ口にするの?
もう嫌だ。女のままでも男になるにしても、結局こんな人生なら、死んだ方がいい。
「アンナローズ嬢!だめだ!王太子殿下、おやめください!!」
最後にハヴェル様を見る。さようなら、私の最初で最後の恋。あなたと小麦畑を歩きたかった。
私は目を閉じた。
けれど衝撃も痛みも来ない。「ぐうっ」という苦しそうな声でうっすらと目を開けると、王太子殿下がマリーローズの神聖力に捉えられていた。艶やかだった彼の顔が干からび、目が落ちくぼみ、手足が痩せ、髪が抜けていく。急激に老化しているのだ、と気づくのに時間がかかった。
「神聖力は植物の成長を早めるでしょ?それを人間でやってみたら老化するかもってずっと思ってたの。思ったとおりだったね。アンナを守るために使えて良かった」
マリーローズはふらふらとした足取りで聖杯に近づいて、拾い上げる。神聖力を消費して、体力が枯渇しそうになっているのだろう。私とハヴェル様を捕らえていた薔薇も、いつの間にか枯れて床に転がっている。
「リオネル、願って。アンナが私の夫になれるようにって」
「嫌だ…」
「願ってよ!願ってくれるって言ったじゃない!」
年老いた王太子殿下の目から涙がこぼれる。
「愛してるんだ、マリーローズ…」
「あなたからの愛なんていらないの!私が欲しいのはアンナだけよ!願いなさい!」
マリーローズが王太子殿下に向かって聖杯を振り上げて、くらりと倒れた。
「マリー!」
けれどハヴェル様が私の腕を引く。
「アンナローズ嬢、今逃げないと」
「でも…っ」
床に倒れたマリーが、「アンナ…」と私に手を伸ばす。涙が頬を伝っている。久しぶりに彼女の涙を見た気がする。
私は最後、彼女の頬に触れてそっと涙を拭いた。
「ごめんね、マリー。私もあなたの愛はいらないの。こんな愛ならいらない。さようなら」
私はハヴェル様の腕に抱かれて、夜の闇の中に飛び出した。
ーーー
ハヴェル様は私がマリーローズの情報に触れないよう気遣ってくださったけれど、こっそりと彼女が「王太子殿下を殺そうとした罪人」として塔に監禁されていることは聞いた。マリーローズは罪を認め、塔での生活に文句も言わず過ごしているらしい。
風が吹き抜ける。
「アンナにこれを見せたかったんだよ」
「…本当に素晴らしいです」
広大な小麦畑が風に揺れる、クレメント領の光景。彼女との思い出や彼女への想いは、新しい思い出が積み重なるたびに、少しずつ瓶の底に沈んでいくようにぼやけていく。
それでも夜、時折耳の側で聞こえる「アンナ」という彼女の声に、私は目を覚ます。そして隣で眠っているハヴェル様の体温を感じながら、「どうしたの、マリー」と答えるのだ。




