不幸な少女-1
物語が動き出すのは、それから半年ほど後のことだった。
亡き老婆の代わりに家事に励んでいたラキは、この日も食材を調達するために市場へと足を運んでいた。
「魚屋さん、今日のおすすめは何ですか?」
パッチのついたヨレた布袋を背負ったラキが、いつもの魚屋の男に尋ねる。
「よぉラキ。今日は一昨日の大雨の影響で、一通りの魚は揃ってるが…アユが特に安いな。」
魚屋の男は店頭に並べられた、細長いアユを指差す。
ラキが週に一度訪れるこの魚屋は、元々老夫婦と縁が深かったこともあり、ラキはいつも安く良い魚を手に入れられていた。
「じゃあ、それをください。」
「おう。最近暑いからな、4尾くらいがいいだろう。」
魚屋の男はそう言って、アユを5尾選んで袋に詰めると、そのままラキの背負っていた布袋の中に詰め込んだ。
「ありがとうございます、お会計はこれでお願いします。」
ラキはそう言うと、老爺から預かってきた財布を渡し、魚屋の男はその中から会計分の金額を取り出した。
ラキがまだ計算ができないため、いつもこのように魚屋に任せている。
ちなみに、ラキは知らなかったが、実はこの魚屋の男は、その週の売上によって少し割安にしてくれることがある。この日も1割ほど多くお釣りを渡していたのだった。
「サカナヤのおじさん、いつもありがとうございます。」
お釣りと商品を受け取ったラキは、そう言って深々と頭を下げ、踵を返して次の目的地である八百屋へと向かおうとした。
「あ、ちょっといいかラキ。」
ラキが一歩目を踏み出そうとしたその瞬間、魚屋の男がラキを呼び止めた。
ラキは驚いて振り返ると、男はラキが受け取れるように、ぶっきらぼうな様子ながらもゆっくりと1つの小袋をラキに向かって投げた。
ジャッ、という音と共に小袋がラキの手の上に乗っかる。
その袋の触り心地としては、砂のようなサラサラとしたものだった。
ラキが中身を覗くと同時に、魚屋の男は説明を始めた。
「それは塩だ。保存料としてよく使われるもんさ。最近暑いから、これに魚を浸しておけば、何日かは持つようになる。」
「へぇ、ありがとうございます。」
ラキはその見覚えのある袋を(老夫婦の家にも同じようなものがあった)ポケットの中にしまうと、再度お礼を言って再び歩き出した。
…
魚屋の男の視界から、ラキが遠ざかっていく。
男は心配そうな、不安を抱えた眼差しでその背中を眺めていた。
そしてついにラキの姿が人混みに掻き消された頃、魚屋の男の背後から声が聞こえた。
「ラキちゃん来たの?」
魚屋の男は、見えなくなったラキを未だなお見つめながら答える。
「ああ。」
「あの子、大丈夫そうだった?」
魚屋の店と居住部屋を繋ぐ暖簾を潜り、女が顔を出した。
ブロンズ色の髪を持つその女性は、魚屋の男と同じ年頃のようだ。
「ああ、元気そうだよ。まったく、あんな事があったと言うのに。」
「そう、無理してないといいけど。」
女もまた、若干の切なさを抱えたように遠くを見つめる。
2人の会話は続く。
「…だな。」
「ただ、噂だとあの子、同年代の子供たちからは悪魔だって虐められてるらしいのよ。」
魚屋の男は驚いた顔を浮かべる。
「そりゃどうして。おばさんを殺した犯人だとでも?」
「よく分からないけど…ゴフクヤさんが言ってたわ。なんでも、男の子たちがそう呼びながら、頭を石で殴っていたのを、先週あたりに路地で見かけたって。」
奥の女は慌てたように続けた。
「あ、ゴフクヤさんはきちんと怒ったらしいけど...」
男は先ほどのラキの様子を今一度思い返し、あることに気が付いた。
「…そうか。...そういえば今日も、腕に包帯を巻いていたな。」
それを聞いた女の声色も深刻さを増し、男に注意を促した。
「何かあってからじゃ遅いからさ、私たちがよく見ててあげないと。」
「...」
魚屋の男はしばらくラキの笑顔を思い出しながら、眉間に深い皺を寄せた。




