Innocent Girl
カタカタと無機質な音色が木霊し、その度に背中の三つ編みが微かに震えて。
何処までも白い壁、埃一つない清潔な床、ベッドにはウサギのぬいぐるみ。
子供部屋と呼ぶにはあまりに広く、あまりにも殺風景な空間で。それこそが自身を構成する全てであるように、少女はデスクでコンピュータを操作していた。
キーボードを叩く動きは高難易度のピアノソナタに勝るとも劣らず、多角的に展開されたホロスクリーンさえも、彼女は眼球の動きのみで俯瞰し支配下に置く。
艶やかな銀髪、健康的な白肌、美しい碧眼。そんな誰もが羨む器量には微塵の興味も見せることなく、まだ幼き少女はただひたすらに己が世界へと没頭し続けた。
その独奏会に、パシュッとリニアモーターの駆動音が割り込む。
彼女の右手から十数メートルと離れた突き当たりの壁が、奥へと萎み横移動したことで、初めてその模様がスライドドアの継ぎ目であると認識できた。
それに気づいた少女は作業の手を止めると、無言でデスクの引き出しを開き、無針式のテーザーガンを握り締めながら扉の方へと真顔を向ける。
「まだ反応が鈍いな。俺が襲撃者であれば、今の一秒で貴様は死んでいたぞ」
「父上……!」
少女の目に微かに浮かんだ感情は、喜びというよりも驚きだった。
慌てて椅子から立ち上がり、着ていたドレスの裾を正した少女は、ズカズカと無遠慮に歩み寄ってくるスーツ姿の日本人と対峙する。
シンイチロウ・クロサキ。地球全土、どころか軌道コロニーにまで根を張るクロサキグループの現総帥にして、世界の三分の一を支配する男。
その実年齢がとうに六十歳を過ぎていることを思い返しながら、無感動な眼差しで自分を見下す“青年”に対して、少女は恭しく畏まって頭を下げた。
「お久しぶりです、父上。変わらずご健勝のご様子で、なによりと存じます」
「久しいな、アレクサンドラ。こうして実際に顔を合わせるのは二年ぶりか」
「正確には二年と七ヶ月前が最後かと。通話であれば三ヶ月ぶりになります」
「相変わらず人の言葉尻を捕らえる娘だな。俺の血族ながら気に食わん奴だ」
まるで初めから台本にそう記されていたように。若すぎる父と老けすぎた娘は、とても親子とは思えぬ事務的で儀礼的な挨拶を交わした。
そして自らに似て仏頂面に育った娘を見据えたクロサキは、護衛の黒服を締め出して閉まるスライドドアを横目に確認しつつ、腰に手を添えて斜に構える。
「俺と貴様の仲だ。持って回らず単刀直入に、結論から伝えてやろう」
「……? ……ええと父上、本日はいったいどのようなご用件でこちらに?」
「アレクサンドラ、貴様はクロサキの社章に不要だ。即刻ここを立ち退くがいい」
「父上……」
夜闇に沈んだ廃ビルの一室でまぶたを開いたとき、少女は自身がまだ夢の中を揺蕩っているのではないかと錯覚した。
何処までも走る亀裂、カビとコケが茂る床、ベッド代わりのウサミミの外套。
そこからのそりと上半身を起こしたアレクサンドラ・クロサキ、またの名をサーシャ・クロサキは、今にも崩落しそうなコンクリートの壁をぼんやり見据える。
「お目覚めになりましたか、姫君様」
なぜ真っ先に気づくことが出来なかったのか。サーシャのすぐ隣では、くたびれたヴォルフの長身が柱に背もたれ腰を下ろしていた。
彼に顔を向けたサーシャは夢の残滓を払うためにうにうにと目元を擦り、ヴォルフは一歩前に跪きながらそんな少女に対して深く頭を下げる。
「申し訳ございませんでした。加減速には気を配っていたつもりだったのですが、ブラックアウトを起こしてしまったようで……」
「脆弱すぎる私の身体がいけないのだ。貴様が気に病むことではない」
言われて気絶前後の出来事を思い出したサーシャは、軽く俯いて脳に障害が出てないか自問してから、あらためて無感情な眼差しでヴォルフに呼びかけた。
「よし、それではまず現状報告を聞かせてくれ。あれからどれほど経過した?」
「分かりました。……“あの報道”が流れたのが、ちょうど200分前の話になります。直後の襲撃を退けた後は他のグループに絡まれることもなく、サウス・ダウンタウン内のこのビルまで辿り着くことができました」
「なに? まだダウンタウンを離れていなかったのか?」
酸焼けした白いガラスの向こうは、今もしとしとと雨粒が降り注いでいて。彼が説明と共にその光景を振り返ると、ウサミミフードを外して三つ編みの髪留めを結わえ直していたサーシャが怪訝な口調で尋ね返した。
すると、ヴォルフは懐から“コムリンク”――おそらくは非合法に改造された特注品――を取り出し、ホロウィンドウを展開しながらサーシャへと手渡す。
画面上にはこの一世紀ほどで歪に変形したユーラシア大陸の地図と、その主要都市がある地域周辺におびただしい量の赤い光点が乱立していて。
「これは?」
「ブラック・サーペントを始めとして、主要な警察企業のデータベースにハッキングしました。……それはこの三時間あまりで発生した、各地の少女襲撃事件です」
ヴォルフのセリフに動揺こそ見せなかったものの、サーシャは「そこまでは考えていなかった」とばかりにホロを見つめ直した。
光点の数は現在進行形で増殖を続け、彼女がそのいくつかをタップすると、被害者とおぼわしき幼子のプロファイルや殺害現場の写真が映し出される。
「誤認逮捕や暴行、拘束、射殺。民衆はもはや人種や年齢、性別にも見境がなく、詐称が目的で女児の遺体に整形手術を施した事例もあるそうです」
「……なるほど、そういうことか。……理解した」
それ以上の解説はいらないと告げるように、サーシャはそっとホロウィンドウを閉じるとコムリンクを彼に返却した。
彼女の表情に真っ当な変化は見られなかったけれど。それ故にヴォルフが慰めの言葉をかけようとしたところで、サーシャは先んじて溜息混じりに肩を竦める。
「どうして突然あんな発表を行ったのか、父上の真意が読めずにいたが。これでようやく合点が入ったよ。あれは父上なりの、私たちへの“餞別”だったのだ」
「餞別、ですか……?」
てっきり、巻き添えで亡くなった子供たちを悼んでいるのかと思えば。話題が思わぬ方向へ移り変わって、ヴォルフはスマートグラスの奥から瞬きを返した。
サーシャはなんてことない様子で頷くと、腕を組みつつ窓の雨雲を見上げる。
「いくら目立たぬように動いたところで、私のような身綺麗な小娘がストリートを歩いていれば、いずれはどこぞの諜報機関やフリーランスに目を付けられよう。仮にもクロサキの御令嬢が野に捨てられたとなれば、一大スキャンダルだ」
「……」
「だから父上は、先んじて私がクローンだと嘘の喧伝をした。会社のダメージを最小限に抑え、あわよくば“世界銀行”や“シラヌイ”にあらぬ罪を被せるためにな」
とうとうと真顔で自論を語るサーシャは、どことなく楽しげで、そしてなにより誇らしげだった。
そんな彼女にどう反応すれば分からずヴォルフが眉をひそめると、サーシャは論点がズレたことを謝るように首を振りながら彼に碧い眼を戻す。
「ようするに、父上はこの混乱が起こることまで予想の内だったという話だ。木を隠すには森の中、娘を隠蔽するには娘たちの中、というわけさ」
合理主義者の父上らしい手法だと、サーシャは感嘆と共にその語りを終えた。
たしかに、こうして真偽不明の通報や犯行が入り乱れることによって、警察や賞金稼ぎの情報網はパンク状態に陥っただろう。
実際だからこそヴォルフも、慌ててダウンタウンから離れるのではなく、ある程度のほとぼりが冷めるまでこの地に留まるという判断を下したのだから。
気丈なのではなく、非情なのでもなく。ただ冷静に自分たちの“生きる目”を推し測ろうとするサーシャの振る舞いに、彼は複雑な感情でくちびるを窄める。
「お言葉ではありますが。お館様が私を信頼しての話であれば嬉しい限りですが、しかし私も全能ではありません。姫君様に万が一という可能性だって――」
「それで野垂れ死んだところで、父上は何も思わないさ。前言の通り、私たちのことをクローンとその誘拐犯として粛々と処理するだけだよ。そして遺影にこう呟くのだろう。『チャンスは与えた。活かせなかったのは貴様のミスだ』とな」
「姫君様……」
今度こそ、ヴォルフは慰めの言葉を憐憫の視線に乗せて口ずさんだ。
サーシャは偏光グラス越しに送られた彼の感情に気づくと、クスリとささやかな失笑を漏らし、無愛想な自身の代弁をさせるようにウサミミのフードを被り直す。
「そう憐れんでくれるな。肉親の情など存在しないように見えるかもしれないが、父上は父上なりの愛情を持って、私をここまで育ててくれたのだ。もちろん私だって、父上のことは今でも世界中の誰より尊敬しているぞ?」
――そんなことよりも、と。
グイッと身を乗り出して四つん這いになったサーシャは、そのままヴォルフににじり寄ったかと思うと、疑問符を浮かべる彼の鼻先に人差し指を押し当てた。
「“姫君様”は止めろと言ったはずだが。貴様は主人の命令も守れないのか?」
「……。……失礼致しました、“お嬢”」
噴き出しそうになるのを肩を震わせて我慢しながら。されるがままに鼻を潰されたヴォルフは、うだつの上がらない中年男らしい溜息を吐いた。
それに対してサーシャがよし!と力強く頷いたところで、彼女の胃がきゅるるるるるると息切れするようなオノマトペを奏でる。
「そういえばオデンを食べ損ねていたな。ヴォルフ、夕食はまだか?」
「おっと、すみません。先にお食事をお出ししてから話を始めるべきでしたね」
ペシンとおどけた動作で額を叩いたヴォルフは、柱の影からスーパーマーケットで配られるようなビニール袋を引っ張り出した。
そのままガサゴソと中身を漁ると、『DIE-COOK-TEN!』とプリントされたハンバーガーらしき包み紙を二つ、サーシャに差し出す。
「なんだ、ずいぶんと気が利くな。私が寝ている間に買ってきていたのか?」
「いえ。あそこから逃げる途中のドサクサに、自販機をかっぱいでおきました」
「窃盗は犯罪だぞ」
それこそ今更ナニを言ってるのやら。サーシャは茶化すようなツッコミを入れると、さっそく包みを広げてバーガーにかぶりついた。
野菜の彩りなど欠片も見当たらない、どころか本物の肉が使われているかも怪しい、妙に全体が黒ずんだマスタード塗れのハンバーガー。
それを普段の真顔からは想像も出来ない大きな口で頬張ったサーシャは、頬にソースを付けたままもしゃもしゃと咀嚼を繰り返し、そしてゴクリと喉を鳴らす。
「うむ、これは新作のバッタソルト味だな。広告を見てからずっと気になっていたのだ。この過剰な塩分と筋張った苦みが、どうしてクセになる味わいではないか」
数ある合成食品メーカーの中でも『安いだけが取り柄』と悪名高いダイコクテンのバーガーを、サーシャは何のてらいもなく率直に褒め称えた。
その勢いで瞬く間に一個目を平らげる大企業の元御令嬢を眺めつつ、ヴォルフは「天然食品ばかり食べてきたのだろうに」と呆れ顔で自分の包みを取り出す。
「ぐぬっ!? ……すまぬヴォルフ、なにか飲み物はないか? ……一度に飲み込みすぎて、食道に詰まってしまったようだ」
「いや何をやってるんですか。……はい、こちらをどうぞ」
百年の忠誠心も冷めるようにスマートグラスの視線をジトらせたヴォルフが、銀色でラベルも印刷されていない怪しげな缶飲料を彼女の前に置いた。
サーシャは急いでそれを手繰り寄せ、タブに指かけフタをフルオープンして。そして中に満たされた白濁とした液体を見て、ピキッとウサミミを引き攣らせる。
「おいヴォルフ、これはソイジュースではないか……! わたしはコレが好きではないと、なんどもキサマに……!」
「近場の自販機にはそれしか置いてなかったんですから諦めて下さい。ほらほら、早く飲まないと呼吸まで詰まってしまいますよ?」
「くっ、おぼえていろよぉ……」
彼女の白い肌がさらに蒼くなり、おまけに呂律まで回らなくなってきても、ヴォルフは教育係のように冷たく言い放ちながら自身のバーガーを口にした。
サーシャはぐぬぬと真顔のままで奥歯を噛み締めると、覚悟を決めて両目を瞑り息を止め、両手で握った缶詰めの豆乳をグビグビと呷る。
「……。……。……ぷはぁ」
赤くなり、蒼く戻り、また赤くなり。ようやく喉の塊が胃に流れ込んだのを感じたサーシャは、産みの苦しみを思い知ったように滲んだ涙を拭った。
それからジロリと碧眼を彼に向けたけれど、ヴォルフは彼女が何を喋り始めるより早く、ビニール袋から掲げたプリンの容器を見せつけてくる。
「お嬢? もしよろしければ、食後にデザートもございますが」
「……バーガーを食べ終わってから戴くから少し待て」
酸性雨が街を溶かして黒煙を昇らせる、二人が逃亡生活を始めて五日目の夜。
なんだかんだサーシャの扱いにも慣れてきたヴォルフガングは、彼女に隠して食後のコーヒーを嗜みながら、この無垢なる女傑に苦笑いを浮かべるのだった。