女優とチップ皿
先日、図書館に行った時のことである。
私は三階で村上春樹の本を読み始めたのだが、冷房がかかりすぎていて、寒くて仕方がない。カウンターに行って、本を借り出せるかかと訊いたら、下に行って図書カードを作れば借りられると。ついでに、トイレはどこかと訊いたら、それも一階まで行かないとないという。
カードを作るのは時間がかがるだろう(実際は自分でコンピュータに記入するだけでよいので、簡単だったが)と、手続きの前にトイレに行った。
中にはいると、右側がトイレなのだが、正面の端に茶色のテーブルと椅子があり、黒人の女性が手をいじくりながら座っていた。
おお、トイレ番がいた。
ヨーロッパではよくトイレ番がいて、そこでお金を払ったりするが、ここは公共の建物なのでお金は取らないし、アメリカでは、トイレ使用のために、お金を請求されたことはない。
ヨーロッパでは、時々、ある。駅、美術館、公園など。今では、機械になったところが多いが、それでも、人がいるところがある。
それを見るたびに、思い出すことがある。
私が中学生の頃だったか、学校から帰ると、母がテレビで「徹子の部屋」かなにかを見たらしく、ある女優がヨーロッパの町でトイレにはいったところ、帰りにお皿にお金を置いてでなければならなかった。でも、小銭がないから、そのまま出てきちゃったのだという。
それだけの話だが、それを話す母の顔がとてもうれしそうだった。当時はヨーロッパ旅行に簡単に出かけられる時とはなかったので、母はどんな楽しい想像をしたのだろうか。旅行をしてきたような、とびきりの笑顔だった。
後になって、私にはヨーロッパを旅行するチャンスがあった。トイレでお金を払ったり、チップ皿を見るたびに母のことを思い出した。パリにも、ウイーンにも、ベネツィアにも連れて行きってあげたかったが、母を連れていけるようになった時には、母は病気で、もう行けなくなっていた。
母のとびっきりの笑顔を思い出しながら、この図書館のトイレでもいい、連れてきてあげたかったと思った。
日本の温泉センターにはよく中央に仕切りがあり、その両側に人が座って頭や身体を洗うようになっているが、この図書館の洗面台はそれに似ている。仕切りが中央にある。もちろん、ここでは立って手を洗い、鏡は少し高い位置にある。
私がその洗面台で手を洗って、少し背伸びをして鏡を見たら、私が黒人だった。
つまり、鏡に黒人が映っていた。
一瞬、脳がバグってしまったが、でも、すぐにこの仕切りには鏡がついておらず、見えたのは向う側の人だとわかった。
手洗いの壁に、鏡がついていないところなんてない、と信じていたので、ふいを食らって、脳が小さなパニックを起こしたのだ。
トイレを出た後は、これもなかなかないおもしい経験ではないかと思った。
お母さんが生きていて、この体験を伝えたら、笑ってくれるだろうか、女優のチップ皿の時よりも。