人魚の声、ふたたび
皇妃は怒り心頭で崖の下の浜辺に降り立った。いつかあの魔女は排除しなければならない。そうでなければ、ヘレナの大事な秘密があのだらしなく歪んだ唇から、いつ漏れることやら。だが、今のところは魔女が必要だった。
海辺に女が一人、立っていた。頰のこけた土気色の顔で泣いている。皇妃は頭巾をおろして女に近づいた。
「カリーヌ?大丈夫なの?」
ヘレナが遠慮がちに聞く。
「皇妃様、ごめんなさい。どうしても耐えられなくってここに来たんです。海辺に来れば母に会えるような気がして。ごめんなさい」
カリーヌが嗚咽をもらしながら謝罪を繰り返した。
「いいのよ。つらかったんでしょう。無理もないわ。家族がひどい目に遭ったのに、あなたはここで1人っきり」
ヘレナが優しく言う。
「レネーが不憫でたまらないわ。あの子より愛した人はいない。弟はもっと生きるべきだったのに」
カリーヌはぼろぼろと涙を流して言った。
不意に、皇太子妃が冬の獣のようにぶるりと身を震わせる。怯えた目をしていた。何かを探して海の方を見つめる。
「どうしたの、カリーヌ?」
ヘレナもつられて波しぶきを見つめた。一瞬、尾ひれのようなものを捉える。続いて太陽に照らされてきらきらと光る鱗を。
「声が聴こえたんです、この世のものとは思えないほど綺麗な歌声が」
カリーヌが言う。
「なんですって」
皇妃からは、もう優しい慰めの言葉はかからなかった。鋭い目つきで何かを疑っているような顔だ。
「海の方から聴こえていて……。リリィの名前を呼んでいるのがわかりません?それから皇妃様のお名前も」
カリーヌが戸惑いながら言う。
「いいえ、聴こえないわ」ヘレナが声を荒げて言った。「カリーヌ、ここにいるのはよくないわ。体が冷えてしまう。もうお城へ帰りましょう」
皇妃はそう言うと抱えるようにしてカリーヌの肩をもち、城にいざなった。
翌日、メアリーは朝早くに起きる。手早く身支度をし、朝食をかっ込んだ。カリーヌに仕えるようになってからの習慣だ。女主人よりも早起きして、私室を整えておかなければならない。
皇太子妃の寝室に入ると、カリーヌはベッドに突っ伏して眠っていた。靴ははいたまま、ドレスも正装のままだ。
メアリーは部屋を見回した。特別おかしいところはない。絹のハンカチに、不眠でいつも飲んでいる薬、結婚指輪。窓もきちんと閉まっている。
夕べは泣き腫らした顔のカリーヌに、早く一人にしてくれるように言われた。もう少し話を聞いてほしそうな顔をしていた気もするが、メアリーも面倒くさくて言われるままに退室してしまったのだ。
「カリーヌ様。朝ですよ。起きてください」
メアリーがそう言って、女主人を揺り起こそうとする。
触れた体が驚くほど冷たかった。まるで死人のよう。
「カリーヌ様!」
メアリーはギョッとして声を上げた。
勢いにまかせて揺さぶると、体がひっくり返って土気色の顔がこちらを向く。目は見開いたまま、唇は真っ青だ。
恐怖にとらわれて、部屋を飛び出す。
皇子の寝室では、起き抜けのアレックスが動転して今にも泣き出しそうなメアリーを迎えた。
「カリーヌが冷たくなって動かないの!」
メアリーがアレックスの腕をつかんで訴える。この部屋でもカリーヌの動かぬ瞳に見られているような気がした。
「脈はあったのか?」
アレックスが腕にしがみついてくるメアリーにきく。
「わからないわ。こわくって何も」
メアリーが震えながら答えた。
アレックスは医者を妻の部屋に呼び、まもなくリチャードに皇太子妃の突然死を知らせた。
イリヤ城の人たちはカリーヌの死に驚きはしたものの、大して悲しみはしなかった。嫁いでから日も浅く、エイダの王女という印象がぬぐえなかったのだ。
アレックスだけがカリーヌの死を惜しんだ。生前、それほどに愛してなかったのだが。夫として責任を感じていたのだろう。
「異邦人の中で死んでゆくなんて可哀想に」
夕方の礼拝堂、ジョンは皇太子妃の亡骸を前にして言った。
「ああ、ここに来るべきじゃなかったんだ。家族もなくしてしまって」
アレックスが言う。
そこでジョンは一瞬ためらってから次のような話を打ち明けた。
カリーヌの死因は栄養失調とされているが事実ではない。皇妃の毒殺によるものなのだ。ヘレナの寝室で、カリーヌのベッド脇にあった睡眠薬の瓶とまったく同じものがあった。
「皇后の寝室に?」
アレックスが聞く。
「俺はヘレナの愛人だ。裁判のあと、仲直りしたのさ。アレックス、お前は気に入らないだろうな。だが、俺の心は皇妃に傾くことはない。皇妃を監視しているんだ」
ジョンが赤面して言った。皇妃の愛人という立場はヘレナを見張るための口実ではあっても、誇れることでないのだ。
「皇后だったのか。俺は皇后からカリーヌを守ってやれなかったのか。またしても」
ジョンはアレックスの後悔と感傷をよそに、カリーヌの死について考えていた。なぜ皇妃はカリーヌを殺さねばならなかったのか。




