剣のない王子
夜は眠れなかった。悲しみと恐怖が背筋をはい、耳元でおどろおどろしい声を上げる。暗闇の中に死者が嘆き、叫びながら奇妙なダンスを踊っている。あれは死に神の踊りだ。目を瞑れば、もっと近くに、もっと克明に見えるようになるのだ。
リリィはよろよろと起き上がって、ガウンを羽織った。マルグリットは身を丸めて眠っている。テントの外を見ると見張りも頭をカクンと下げてぐっすりと眠っていた。
外に出る。木陰に大きな桶があった。水浴びのためのものだ。素早く服を脱いで裸になり、水の中に入る。
リリィは口元がほころんだ。何日もまともにお風呂に入っていない。水は冷たくて心地よかった。体が引き締まって汚れが洗い流されてゆく。
「見張りは寝ていたのか」
後ろから声がした。
リリィが振り向く。エズラだ。慌てて体を隠そうとした。エズラがマントを投げてよこす。リリィは彼を呪わしく思いながらマントを体にかけた。
「見張りは赤ん坊のようにすやすやと寝ておりました。どうやら働きすぎのようですね」
リリィが氷のように冷ややかな声で言う。
「そうだな。酒の飲み過ぎかも。あんたはここで何をやっているんだ?」
エズラが一歩近寄って聞いた。
「体を洗ってたわ」
リリィが猫のようにエズラをじっと見つめながら言う。
「洗いたければ言えばよかったのに」
エズラがリリィの目を見つめ返して言った。口元に笑みのようなものを浮かべている。
「あなたの部下が怖かったのよ」
リリィが言った。
「俺なら他の男達から守ることができる。もし結婚したら、誰にもあんたに手出しさせない」
エズラがリリィににじり寄って言う。
「あなたが怖いわ。あなたの命令で、部下たちが私の愛する夫とその家族を殺した。女や子どももいた。あなたが手を下したのよ」
リリィが静かに言った。
「あんたを傷つけるつもりはなかった。もしあんたの気持ちを知っていたら、こんなことはしなかったはずだ。だが不思議だな、レネー・ウィゼカは卑劣な手を使ってイリヤで一番の美しい娘を手に入れた。それでもあんたはあの男を愛したのか?」
エズラの言葉はリリィにとっては侮辱に近かった。無遠慮で礼儀のなっていない言葉。
「今でも愛してるわ」
リリィが低い声で言う。
「奴は死んだ。俺はそのことで謝るつもりはない。だが、あんたも死者とは愛し合えないだろう。それにあんたはきれいだ。殺すにはもったいない」
「お金なら父が持っている。父と話せばいいわ。でも私はあなたのものにはならない」
リリィが必死になって言った。
「金はあんたの母親にもらった。レネーとその家族を殺すように言われた」
愕然とする。母の計画したことなのだ。ヘレナはレネーを殺すことで娘の復讐を果たした。
「私まで殺したらイリヤも黙っていないわね」リリィが言う。「私を殺すのも、奪って妻にするのも母との契約に入っていないでしょう」
「レネーを殺した時点で皇妃との契約は終わった。皇妃にも皇帝にも娘を奪い返すなんてことはできっこない。今の俺にはあんたを部下たちにまわして慰み者にすることも、殺すこともできる」
桶の中の水が冷たかった。裸を少しでも隠そうとしているうちに、体が芯から震えてきたのだ。リリィは水の中から外に出た。マントを捨てて、下着に手を伸ばす。エズラの刺すような視線を感じた。
「結婚しても、人質には変わりないわね。リロイ家の人間は私をあなたのような野蛮な男に嫁がせるなんて許せない。誇り高い人たちだから。父も義兄も必ず私を取り返しに来るわ」
リリィが言う。不意に弱々しい口調になって声が震えた。
「結婚したらあんたを大切に扱う。それなりの暮らしをさせるつもりだ。約束する。それに、あんたの高貴な家族も俺からは取り返せない」
結局、リリィはエズラの要求をのむことになった。彼と結婚することにしたのだ。いつかアレックスやレネーが助けに来てくれるだろう。だが今はエズラと結婚するしか、生き延びる手段はない。
多少の自由も得た。護衛つきなら自由に歩けるようになったのだ。捕虜となったギーにも再会した。彼は以前とあまり様子が変わらなかった。元気がないのか、沈んだ様子をしているのかもわからない。リリィが感極まって抱きしめると彼もちょっとだけ微笑んだ。
「僕は男として生まれたけれど、エズラの目には男として映らなかった。それで命が助かったんですよ。というのも僕は誰に対しても脅威になりませんからね。戦いや剣には昔から興味がなかった。エドマンドは違った。レネーも僕と同じくらい静かな男だが、少年らしい野心を胸に秘めている。それにしても、彼らがどんな奴らか見ましたか。気の毒になるくらい野蛮で残酷な連中ですよ」
リリィはギーの言葉に弱々しく微笑み返すことしかできなかった。彼は縄で手を縛られている。可哀想だった。




