ひと月の結婚
旅は時に辛抱を要したが、全体として楽しかった。生まれて初めての旅である。見知らぬ土地に獣皮のテント、夜の焚き火、農村と村娘のダンス。物珍しげな百姓の子どもたち。刈り入れの様子。荒地と森林の風景。
リリィはなぜかレネーのことを愉快で面白い人だと思った。イリヤ城の画廊で見たレネーの冷たい横顔は消え去り、愛する夫、リリィがこの世で一番気にかけるべき相手になりかわっていたのだ。彼が花嫁を略奪するためにした非情な仕打ちを思えば、不思議なことだった。
それでも、城の窓から飛び降りた日のことを思い出すと胸がズキンと痛んだ。慎重に思い出さないようにしていたけれど。結婚してから芽生えた愛情が憎しみの裏返しなのだとは思ってもみようとしなかった。人を本気で憎むことなどできなかったのだ。リリィの身に余ることだった。
リリィは旅の途中でみごもっていることに気づいた。月のものが止まったのだ。どうしたものかわからない。なんだか呆然としてしまって、喜びも感慨も湧いてこなかった。レネーに知らせようか迷う。知らせない理由なんてなかった。喜んでくれるはずだ。ウィゼカ家の者だって。
その日はドゥーサ河沿いの村に泊まった。広場の火を囲んで村娘たちが踊っている。豚の頭ほどの大きさのぶどうが一房運び込まれた。豊作を祝うものらしい。リリィはレネーのもとへ行こうとしたが、彼には先客がいた。顔を泥で汚した赤毛の少女がレネーに膝におさまっている。レネーは冷笑を浮かべて少女を見ていた。リリィは夫が気づくよりも先に泊まっている家の中に入ってしまった。
「お食事はなさらないのですか」
マルグリットが気遣わしげに聞く。
「何もいらない。レネーが何をしているか見たかしら。私の目と鼻の先であんなことするなんて」
悔しかった。目に涙がたまってゆく。レネーには浮気が許されるのだ。妻が嘆いたところで夫たちはいつもの訳のわからないヒステリーとしか思わない。
「旦那さまは奥さまに忠実でいらっしゃいますわ。あれは誤解でございます。レネー様は奥さま以外の女性には目もくれないのですから」
マルグリットが静かに言う。
「そうかもしれないわ。でもどうかしら。私があんな風に他の男性の膝に座ったら?」
侍女はそれ以上レネーを弁明しようとしなかった。夫婦で直接話すべきことなのだ。レネーも今夜誤解を解くことだろう。
リリィはマルグリットにほだされて食事を取った。妊娠中なのだから食べなければ。
「妊娠を知っていたの?」
リリィが思わず微笑んで言う。
「ええ、奥さまの侍女ですから。皆さまにはまだ内緒になさいますか」
マルグリットに言われて初めて妊娠を喜ばしいものと思った。地に足がついた感じがしたのだ。母になる不安も、子を産む不安も和らいだ。今夜、レネーが帰ってきたら言おう、彼の子どもがお腹にいることを。
彼を待っていて、寝ずにいたら、外の空が白み始めた。
レネーが無言で部屋に入ってきてリリィにキスする。リリィはじっと夫を見据えて腕を組んだ。
「赤毛の娘はどうだった、顔に泥をつけた」
リリィが泥を強調して言う。
「そうだな、やっぱり土臭い匂いがしたけれど。彼女とは寝ていない」
落ち着き払った口調だ。
険悪な雰囲気のまま、朝の時間が流れていった。夫婦になってから初めて喧嘩したのだ。リリィはレネーの言葉を信じなかった。
皆が朝食を取り、使用人たちが出発の準備を始める頃。王侯貴族の主だった人たちは村長の館の食卓についていた。
フランク王は村長の肩を叩いて話し込んでいる。リリィは遅れてやってきてレネーの隣に座った。
何か不気味なほど静かだ。リリィがレネーの手を握り、耳打ちする。
「何かおかしいわ。女や子どもはどこなの?使用人は?」
「厩に行ってくる」
レネーはそう言って館を出ていった。
手に斧や剣をもった男たちが入ってきた。ウィゼカ家の者に抵抗する時間はなかった。男たちはフランク王の首を刺し、ウィゼカの人間を次々に殺してゆく。エドマンドもその従者も無様に剣に倒れた。
「男も女も殺せ。皆殺しだ」
剣をもった男が叫んだ。顔に血しぶきが飛んでいる。奇妙に整った顔をした大男だ。鼻に赤黒い傷跡がある。
リリィはテーブルの下に隠れて男を盗み見た。
「奥さま!リリィ様!」
マルグリットが叫びながら部屋に飛び込んでくる。男が素手でマルグリットの首を壁に押しつけた。手足をばたつかせ、必死にもがいている。顔がみるみる青黒くなっていった。
「マルグリット!お願い、やめて!殺さないで!」
リリィがテーブルの下から這い出してマルグリットの方へ駆け出そうとする。だが、背後から別の男に突き倒された。足で踏みつけられて身動きがとれない。窒息しそうだった。斧がリリィの体に振り下ろされようとしている。
「やめろ、その女は生かしておけ。それから使用人の女も」
大男は指示を出すと部屋を出ていった、血みどろの惨状と化した部屋を。




