父と兄、母と弟
馬上槍試合のあった日の晩、リリィは皇帝の書斎に行った。もう遅かったが、皇帝は文机に座って待っている。
リリィが部屋に入ってくると咳払いした。
「ハンカチのこと、軽率でしたわ。お父さま、ごめんなさい」
皇女が真剣な調子で謝る。
「何があったんだ」リチャードが重々しい声で聞いた。「まさかレネーを好いているのか?それともあの青二才をからかったのか。奴をいじめてやろうっていう魂胆なら、お前を褒めてやりたいところだが。たしかにあいつには軍才があるし、他の兄弟よりはずっとまともらしい。そうすると、あいつはお前の心まで征服したのか?」
「いいえ、お父さま。エイダの男はみんな狂ってるんです。イリヤの皇女はあんな悪魔のような男を好きになったりしません。私はカリーヌ王女の計略に嵌ったのです。王女は私にある噂について教えました。義兄と私が兄妹以上の仲だというのです。その誤解を解くために、王子にハンカチを渡さなければならない、と脅しました。カリーヌはレネーを贔屓にしていて、弟の恋と野心を手助けしたのです」
「きょうだい以上の仲か」リチャードがつぶやく。
実はカリーヌはこの噂をヘレナから聞いたのだった。噂など元からなかったのだ。打ってつけの内容だった。カリーヌは母のようにレネーを溺愛している。
「レネーも曲者だな。お前は奴と結婚する気はないのか。エドマンドよりはずっとまともだぞ。いっそお前を結婚させてレネーを取り込んでもいい。どうだ?」
リチャードはそう言ってうつむく娘を見やった。
「私はギーと結婚します。レネーは信用できません。それにエドマンドには他に愛する人がいます」
リリィが切羽詰まった表情で言う。
「ギーとは」リチャードは静かな口調で言い、重々しくかぶりを振った。「あのボンクラとか?いや、うつけものなど邪悪な男より始末が悪い。奴は戦場に出ても、敵兵を一人も殺せず、間違って自分の従者を殺すような男だ。リリィ、お前はレネーと結婚するんだ」
リリィは父の宣告に背筋が凍りつくような思いをした。
「いいえ、お父さま。レネーは自分と結婚すれば、エドマンドを殺すと言ったんです」
「お前は道義上それが許せないんだな。だが、お前には責任はない。結婚は私の決めることだ」
リリィはアレックスに助けを求めた。レネーの狡猾さを警告し、説得しようとしたのだ。しかし、それも失敗に終わった。
「それなら、なぜハンカチを渡した?あんな大勢の前で」
アレックスが呆れ果てて言う。
リリィは義兄に近親相姦の噂を言えなかった。アレックスにはリリィが浮ついた娘に見えたことだろう。
だがまだ望みはある。フランクはまだリリィと長男を結婚させたがっていた。
それなのに皇女は一縷の望みも絶たれようとしていた。
弟に会いに行く。皇妃の私室の近くだ。ウィリアムにはずっと会っていなかった。もう三歳でよちよち歩きもできる。ヘレナに呼ばれてきたのだ。
リリィは弟を抱き上げて、黄褐色の巻き毛に指をからませた。勢いよく抱き上げられたのが楽しかったらしく、キャッキャと笑っている。
「リチャードもこの子にはかまわない。それにアレックスは幼い弟を敵視してるわ」
ヘレナは肩にかぶせたスカーフをひしと寄せながら言った。
「義兄はウィルを憎んでなんかいないわ、お母さま。アレックスはお父さまやお母さまがいなくなっても、ちゃんと弟の面倒を見るはず。優しい人よ」
リリィがヘレナの懸念を否定する。
「あなたは最近、アレックスに殴られているようだけど」
ヘレナはそう言うと、リリィの手首をつかんで娘に腕についたあざをとくと見させた。
さっき、アレックスとレネーのハンカチのことで口論になったのだ。
義兄がリリィに暴力を振るったのは今度が初めてではない。トンプソンの事件以来、兄妹は喧嘩することが多くなった。
「義兄は暴君にはならないわ、お母様。それに、もっと邪悪な人なら知っている」
リリィが母の腕を振り払う。
ヘレナはアレックスのことで嫌味を言いたいのではなかった。アレックスに皇位が渡ったとき、ウィリアムをリリィと夫の庇護のもとに置いてほしかったのだ。皇妃はリリィの弟への愛情を見抜いていた。そして、彼女自身もウィリアムのことだけは心底愛していた。
リリィは母の頼みを断らなかった。
母と弟と別れてから、夜の庭園を一人で歩いていた。ヘレナが護衛と一緒に帰るように言ったが、リリィはわざわざ断ったのだ。考え事をしたかった。池の上、橋の真ん中にきて欄干に寄りかかる。池の水面が微風に揺れた。夢見るような、浮ついた自分の顔が見える。その後ろに男の顔も……。
悲鳴を上げるよりも先に、口を塞がれた。強い力で橋の上を引きずられてゆく。後から他の二人の男がやってきて、もがくリリィを取り押さえた。濡れたハンカチを鼻に押し当てられる。次の瞬間、リリィは気を失っていた。




