愛人の娘
アビゲイルが待っていた。悲しそうな顔はしていない。瞳の奥の絶望もアレックスの目には見えなかった。壊れかけの寝台の上、静まり返った部屋で、柔和な笑みを浮かべている。彼女もやはり、天使の一人なのだろうか。あの話、奴隷の抱える恥辱は嘘だったのか。アレックスは一瞬そんなことを考えた。
赤い、燃えるような髪に蒼白い肌。すらりとした長身の腰。瞳の中にうつる青年の姿。
「メアリーが赤毛になっていた」
アレックスが何気なく口走る。
さっきパレードで見かけた時、メアリーは歩廊から身を乗り出して、アレックスとカリーヌを見下ろしていた。あのとき咄嗟にひどく美しい娘がいると思ったものだ。
パレードの熱気のなかで見かけるまで、メアリーを心の底から美しいと思ったことはなかった。彼女は絶世の美女というわけではない。それにアレックスはメアリーの本性を身をもって知っていたのだ。ひょっとしたらメアリーの中に、母親のかげが見えたせいかもしれない。
アビゲイルはアレックスの不用意な言葉に狼狽した。
「申し訳ない、他意はないんです」アレックスが慌てて謝る。「アビゲイル、夫や娘がどうだと言うんです?これほど素晴らしいことを前に、何を怖がるっていうんです?あなた以外、あんな人たちはどうでもいい!僕ら以外はどうだっていい。そんな顔をしないでください。あなたは僕の天使なんですよ。天使がなぜ罪の意識に苛まれるんです?僕にとっては祝福そのものなのに!」
恋する青年はへりくだるような調子から、激しく、怒りさえ感じるほどに一気に様変わりした。若者だけが見せるような、直情的で、傲慢な声音である。愛人に「幸福を感じる」よう迫り、娘や夫、もう一人の娘の皇女、さらには皇子の婚約者への良心まで捨てるよう求めたのだ。だが、すぐにそれが不可能なことであり、アビゲイルにとっては恐ろしく残酷なことなのだと気づいた。
「メアリーは結婚させるべきよ」
アビゲイルが体を震わしながら、唐突な調子で言う。
「結婚?どうして?」
アレックスは拍子抜けした。アビゲイルが娘のことでどうこうすべきとか、口を出すのを見たことがなかった。母として権威はとっくの昔に失墜してしまっていたのだ。
「あの子は結婚して世間を学ぶべきだわ。世の中、思い通りには行かない。それなのに、あの子ときたら強情で、すべて思い通りになるって信じ込もうとしている。それにね、時々あの子が魔女になるんじゃないかって、気が狂いそうだわ。邪悪なのよ、あなたは知らないかもしれないけれど」
アビゲイルが疲れ切った様子で言う。
「アビゲイル、あなたは疲れてるんだ。確かにメアリーは重荷でしょう。でも、性悪なだけで邪悪とはいえない。あなたは僕のせいで疲れてるんですよ。身勝手な恋人のせいで。僕ならメアリーを教え導くことができる。あれでも、メアリーは僕のことをちょっとは気にしてるんです。どうか一人で思い悩まないでください。何かあれば、僕からメアリーに口添えすることだってできるんですよ」
人妻はアレックスの熱烈ないたわりの言葉に震え上がった。
「ありがとう、あなたって本当に優しい人ね。きっとあなたがいなければ、私も娘も路頭に迷って死んでたわ」
口ではそう言ったけれど。




