水上の誓い
「人魚だったわ。皇妃がもっとも知りたがったのは人魚のことだった。どの人魚だったか、他にも見かけた者はいるのか、皇女はそのことを知っているのか」
レイチェルは何度もまばたきしながら話した。
「それで、君はどういうふうに答えた?」
アレックスが腕を組んでたずねる。
「何も知らない、と。皇女だって、私の話をまともに受け取らなかった。あれは錯覚だったんだと何度も言いました。でも皇妃様は信じてくださらなかった。もし、皇女さまが人魚の話を信じたと知ったら、何か危害が及ぶと思って、本当のことを言えなかったんです」
二人は図書館の地下の隠し部屋にいた。「駆け落ち」の実行まで、レイチェルはこの図書館の地下の部屋に避難するのだ。空気が薄く、この部屋で寝れば、そのままあの世に逝ってしまいそうである。四角形の殺風景な部屋だった。
肝心のレイチェルは「駆け落ち」の計画が存在することさえ知らなかった。リリィがマティアスに自分から話そうか、と申し出たこともある。マティアスは言いあぐねていた。こういう形での求愛はひょっとしたらレイチェルを傷つけるのではないか、と心配していたのだ。単純に、マティアスのレイチェルを思う気持ちが真剣で、純粋だったせいかもしれない。
ある日、マティアスがレイチェルの身を潜める部屋にやってきた。家具もろうそくも、読み物さえも貧相な部屋だ。レイチェルはクリーム色のドレスを着て、栗色の髪の毛に黄色いひなぎくの花を飾っていた。リリィが外で摘んで持ってきてくれたのだ。地下室にいれば、外の新鮮な空気も美しい花々も恋しかろう、という女らしい気遣いだった。
「やあ」
マティアスはそう言って、体の前で組んだ手の指に素早く視線を走らせる。レイチェルは微笑んで、今にも壊れそうないすから立ち上がった。
「ずいぶん久しぶりね。おはようかしら、それとも、おやすみ、かしら」
レイチェルが言う。
「そうだね。おはよう、がいいな」
レイチェルを見つめるマティアスの目が優しく輝いていた。ちょうど、朝の陽射しに、笑みをもらすように。
「実を言うと、君を散歩に誘いたかったんだ。ここでは退屈してるだろうから。それに、僕から君に伝えたい話がある」
マティアスがちょっと緊張しながら言う。
レイチェルはうなずき、またはにかむように微笑んだ。
「僕と一緒なら外にでても安全だ。こういう天気の日には外に出ないとね」
森の中は涼やかで、木漏れ日が二人の間できらめいていた。まるで妖精の粉のようだ。マティアスがレイチェルの手を取り、水の音がする方へ、小川へと誘う。
道すがら、白やピンクや青のデイジーが咲き乱れているのが見えた。まぶしいくらいに美しい。
小川には、小さな木の橋が架かっていた。遠くからでも目を引くような、可愛らしい橋だ。
「まあ、かわいい橋。アレックス様が小さい頃に取り付けたのかしら?それともお嬢さま?」
レイチェルがマティアスを見て言う。
マティアスは微笑んで問いには答えずに、レイチェルを橋の上に連れていった。ひざまずき、レイチェルを見上げる。真剣な顔だ。
「レイチェル・モートン、一目見た時からあなたが好きでした。生涯を共にし、喜びも悲しみも分かち合いたい。あなたほど美しく、高潔な女性には出会えません。僕と結婚してくださいますか」
マティアスが熱っぽい口調で言った。
レイチェルが口を覆い、あら、と声をもらす。
「ええ。ええ、私だってあなたを愛してます!あなたと結婚するわ。でも、あの女は……」
レイチェルは薔薇色の頬を美しく染めていった。
「メアリーのことは僕に任せてくれ。なぜって、僕たちはお互いに愛してなんかいないからさ!指輪を……」
そういうわけで、金の指輪はせせらぎの上、世界でもっとも幸福で、はちきれんばかりの美しさの女の左の薬指におさまった。




