天使の裏切り
ちょうど寝室で昼寝をしているところだった。階下でドスッと鈍い音がし、悲鳴が上がる。何やら男女が言い争っているようだ。レイチェルはおもむろに腰を上げてひなぎくの柄のスカーフを羽織った。大事でなければいいのだけれど!
リリィには寝室で手当てをしてあげた。たいした怪我ではない。鼻血が出ていたのだ。皇女は放心して、何もしゃべろうとしない。レイチェルは黙々と手当てをすすめた。リリィは頰をおさえて静かに涙を流すだけだ。
アレックスがしばらくして館に戻ってきた。さっきまでの形相は跡形もなく消えて、後悔を顔ににじませている。リリィは相変わらず、すすり泣いていた。
「リリィ、すまない。手をあげるつもりなんてなかった。あんなことも言うべきじゃなかった」
アレックスは地にひれ伏さんばかりの勢いだ。
「いいえ、私が悪いのよ。お兄さまの言う通りだわ、一家の恥さらしだわ!」
リリィはほとんど発作的な調子で言う。
涙は止まらなかった。それでもひたすら謝罪を続ける。
「リリィ、頼むから聞いてくれ。それに謝らないでくれ。悪いのは僕の方だ。お前の話を聞こうともしなかった。すまなかった。まず、どうしてトンプソンの奴なんかと会おうとしたのか、話してくれないか」
「それなら俺がする。責めを負うべきは俺だからな」
戸口の下に立っていたジョンが口をはさんで言った。
「いいえ、私がする。確かにことの発端はジョンだったけれど、私がどんな気持ちでヘンリー・トンプソンに会っていたのかわからないわ」
リリィはどうしてトンプソンと毎日会うようになったのか、皇女が思いついた取り引きの話とジョンが示した取り引きの話をまじえ、順をおって説明した。
最初は人魚と皇妃に関する謎を解明したい一心でトンプソンに近づいた。だが、すぐに男が可哀想になる。独房という狭い特殊な空間の中で、相手の男に情が移ってしまったのだ。
トンプソンは優しく美しいリリィに狂ったように夢中になり、その恋心を隠そうともしなかった。暗い牢獄の中で、天使のように見えたのだろう。彼は北エイダの故郷について話してくれた。都に来てからは、家族や故郷のことなど思い出すこともなかった。だが今になって、手紙も帰郷もしなかったことがしのばれる。母はふくよかで静かな女だった。よく父が「音楽狂いのろくでなし」の弟に怒って殴りつけるのをかばっていたっけ。
シルヴィアという姉は、弟とは正反対で才女だった。乗馬、外国語、裁縫、舞踊、歴史、幾何学、なんでもこなしたのだ。ヘンリーも姉に勝てたものは何一つとしてない。口喧嘩でもだめだった。シルヴィアは弁がたつのだ。
男勝りな女で、父は姉が男に生まれなかったのを悔やんでいた。父だけでなく、母や家庭教師や気弱な婚約者、城の使用人までもがそう思っていたのだ。当の本人はまるっきり気にしていない。不満や不自由があるにしても、女に生まれた運命を嘆いて一生を送るなど、姉の柄ではなかった。
「姉は弟がこんなふうに、独房になす術もなく、座っているとしたら笑うだろうな」
ヘンリーは正気のない目でそう言ったものだ。
ジョンはヘンリーの恋心を知ると、リリィに利用するようそそのかした。というのも、彼はトンプソンがアレックスが思うよりももっと重要な情報を持っていると信じていたのだ。男は時に、女の前では信じられないほど重要な情報をもらす。
その頃には、リリィも囚人に会うのが苦痛になっていた。ヘンリーが気の毒だったのだ。彼がリリィに死に物狂いの恋をしているのも知っていた。一挙一動を彼の愛しげな目が見守っている。
ヘンリーの恋心は皇女にとっては重荷だった。だが、会わないわけにはいかない。情報が必要なのだ。
一人の男の愛を欺いているのだという考えも、リリィを疲弊させた。お願いだから、そんな優しい目をしてこちらを見ないで、と。
二人の男と皇女の名誉を慮って、リリィと囚人の間にはプラトニックな会話以外何もなかった、と言わなければならない。ジョンも皇子にはっきりとそう説明した。だが、アレックスの怒りを鎮めるのに十分ではなかったのだ。
彼はジョンの制止もリリィの涙ながらの懇願もふりきって、イリヤ城から部下を呼んだ。
「奴は妹の情につけこんで脱獄するつもりだった。あわよくば、誘惑してリリィを連れ去るつもりだった。そんな奴に話し合いなど通用するか?」
アレックスがジョンの肩を揺さぶりながら言う。
「話し合いもだが、傲慢も意味ないぞ、アレックス」
ジョンはアレックスの手を払いのけると落ち着き払って答えた。
だが、アレックスは意見を変えようとしなかった。リリィとレイチェルを寝室に入るよう命じると、トンプソンに力まかせの拷問を始めたのだ。ジョンはアレックスが怒り狂う様子を静かに見ていた。
ヘンリーのうめき声は館中にひびく。聞くに忍びない声だった。リリィは体を震わせ、レイチェルが皇女を抱き寄せる。
拷問は日が暮れ、満月が南の空のまん真ん中に上がるまで続いた。リリィは涙も流さず、麻痺したかのようにベッドに座っていた。ただ、レイチェルのかけてくれた、ひな菊のスカーフを見つめている。花畑を思い浮かべた。いつかの夏の日に、アレックスとメアリーと行った。花々は、リリィが手にする前に、しぼみ、枯れてゆく。しぼんだと思ったら、枯れて灰色になった。




