あだ心
もはや視察にも集中できなかった。あれは単なる噂話にすぎない。よくある百姓どもの下世話な噂だ。
アレックスはそれでも、脳裏にはりついた村人の声を忘れることができず、先ほどの男二人を館の裏に呼び出して、問い詰めた。だが、男たちは呑気なもので、のらりくらりと話をかわしてしまう。お上さん方には理解できないでしょうが、ああいう噂話はわしらの唯一の楽しみでして。なぁに、罪のないものですよ。誰も本気になんかしてないんですからねぇ、皇子殿下。
実のところ、この二人は噂の真相など一切知らなかった。アレックスの尋問は、たとえ二人に話す気があったとしても無駄だったのだ。
だがその一種、残虐な噂は訪れるどの村でも耳にすることになる。どこでも聞ける噂話なのに、詳しいことは誰も知らない。どのような方法で聞いても、農民たちは口をかたく閉ざすだけだ。たしかに罪のない話にも思えた。だが、どうにも癇に障って、落ち着かないのだ。
ようやくイリヤ城に戻ると、早速父から呼び出しがかかった。視察の報告である。皇帝はアレックスの報告に満足した様子だ。一応、父にも花嫁の誘拐について話してみる。予想通りの反応だ。リチャードはアレックスの懸念に苛立ちさえ見せた。
アレックスはもはや、父と心理的な壁ができているのを否定できなかった。いずれ、政治の面でも意見が合わなくなるかもしれない。彼は実の父よりも、その忠臣のテリー公の方を信用するようになっていた。テリー公は皇帝夫妻と長男の行き違いを理解して、互いの歩み寄りに力を貸してくれる。だが、全てが水泡に帰そうとしていた。遂にはアレックスが、自分を次期後継者の座から退けて、弟のウィリアムを皇帝に据えるのではないかと疑い出した。
疑念が芽生えるとすぐに、もとは穏やかな性格のはずのアレックスに闘争心が起こる。皇位は嫡男の自分に与えられるべき正統な権利だ。それを、あの悪妻のヘレナが父をそそのかして奪おうとしている。
アレックスは父の書斎を出ると、まっすぐ〈崖の家〉にむかった。海辺に行って、むしゃくしゃする思いをなんとかしたかったのだ。
波の音を聴きながら、美しく、汚れを知らない人魚たちに思いを馳せた。心が浄化されるような気がする。館に入ると、ジョンが居間で長い足を組んで、読書などしていた。彼が読書するのは、上機嫌なときに限る。今度はアレックスの姿を見て、狼狽していた。
「もう帰ってきたのか。思ったより早かったな」
ジョンが言う。
「ああ。首尾よく進んだんだ。そう言えば、囚人に聞きたいことがあるな。手伝ってくれるか?」
「勘弁してくれよ。拷問か?なら手伝うのはごめんだぜ」
ジョンは気乗りしない様子で軽口を叩いた。アレックスは怖い顔をしている。拷問だってやりかねない、とジョンは密かに思った。
「やめといた方がいい。先客がいるんだ。それも、麗しい令嬢が歌を歌ってあげてるところでね、君がその形相で乗り込んでいったら、奴がちびってしまうぞ」
「なんだよ、その令嬢っていうのは。まさかレイチェルじゃないだろうな?」
アレックスは道化を演じる友人に腹を立てて言った。
「違う。それだったら、血も涙もない悪戯だぜ。いいから一旦落ち着け。ひどい顔だ。悪魔にでも取り憑かれたみたいだな。まったく、何がお前をそんな顔にしたんだ?」
ジョンはそう言うと、牢に行こうとするアレックスの道をふさぐ。
「ジョン、一体どうしたのよ?誰なの?」
間合い悪く、リリィの心細そうな声が廊下から聞こえてきた。
「リリィか?リリィを奴のところに行かせたんだな?あの反逆者のところに?」
アレックスはほとんど激昂して言う。低い、神経質な声だ。
ジョンは何かを言おうと、口を開いた。もはや、彼は笑っていなかった。アレックスはジョンを殴って、荒々しく廊下に出る。
「アレックス、許して。お兄さまの力になりたかったの。トンプソンさんとは話したけれど、何も不適切なことはしてないの。ジョンが教えてくれたのよ……」
しかし、アレックスは怯え切って話すリリィを力の限り殴った。リリィはよろめき、涙を浮かべて、兄を見つめた。ジョンが慌てて憎しみと嫌悪から震えるアレックスをなだめようとする。
「リリィ、お前はなんて奴だ。皇家の恥だぞ!」
耳鳴りがした。殴られたショックで、口も聞けない。アレックスが怒り狂って話す言葉も耳に入ってかなかった。だが、リリィはアレックスに言われなくても、自責の念にかられ、自分を恥じていた。




