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皇女リリィの結婚物語  作者: 緑みどり
黒い秘密
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瞳の中に生きる

 アビゲイルは庭の池のそばに立って愛人を待っていた。池に架かった橋の向こうに小川がある。川岸で桜の木がかしいで生えていた。桜の花びらははらはらと、音もなく散ってゆく。


「待ちましたか」

 アレックスがゆったりとした歩調で歩いてきて言った。


「いいえ、ちっとも」アビゲイルがそう言って微笑む。「話があるって聞いたわ」


「ええ、歩きましょう」

 アレックスはそう言って軽く腰に手を回した。



 二人の関係が始まったのは、アレックスが遊学から帰ってからすぐのことである。皇子は遊学の間、年上の人妻に手紙を書き続けた。アビゲイルは一度も返事を書かない。貞淑な妻でいるつもりだったのだ。出逢った当初の夫に抱いていた気持ちだって忘れかけていたけれど、リー・トマス以外の男など見向きもしなかった。アレックスは遊学の前は、まだ少年だった。


 どうしてアレックスの口にした言葉が、アビゲイルの凍った心をとかしたのだろう。どうして、彼に気を許し、体を許したのだろう。今やこの年下の情人を愛してさえいた。


 人目をしのんで逢瀬おうせを重ねる。空き部屋で、さびれた宿屋で、森の小屋で抱き合い、愛をささやいた。束の間の快楽にふけり、互いの体をむさぼり合う。 女はことが終わった後、よく涙を流した。夫のことや娘のメアリーのことを思うたびに、次こそは彼に会うのをやめなければならない、と思う。だが、死に物狂いの恋を止めることはできなかった。


「私を見て」

 ある時、アビゲイルが言った。


 二人は体を重ねた後、使われていない部屋の狭いベッドで横たわっていた。アレックスが身を起こし、女の髪に手を絡めてキスをする。アビゲイルは身を離した。声も上げずに泣いている。涙が幾筋にもなって青白い頬を伝っていった。アレックスが器用にアビゲイルの冷たい手を取る。微かに震えていた。


「アレックス、愛しい人、私を見て。私、あなたの瞳の中で生きてるの。あなたがいなければ死んだも同じ。でも、あなたがそうやって見てくれるだけで生きていられるわ。私が死なないでいるのは、この青い瞳のおかげなの」


 アビゲイルは慄然りつぜんとしていた。彼なしでは生きていけないだろう。アレックスに触れられる度、過去の記憶から解き放たれて、自由になるのだ。



 若い皇子は父の忠実な臣下であるリー・トマスに対して申し訳なく思っていた。彼とは個人的な付き合いがあったのだ。だが、あまりに激しい愛なので、アビゲイルとの密会をやめることなどできない。そんなことをすれば、二人もろとも身と心を焼き尽くして死んでしまうだろう。今更引き返せなかった。


 日頃から庇護者ひごしゃのような態度を取っているリリィやメアリーにも、罪悪感を感じていた。純粋そのもののリリィが本当のことを知れば、驚き、もはや兄を尊敬しなくなるかもしれない。メアリーは動揺し、二人をなじり、傷つくだろう。彼はメアリーに繊細なところがあるのを知っていたのだ。父は恋人たちを引き離そうとするはずである。



「あなたにどう伝えたらいいのだろう?僕は赦しがほしいのです」

 アレックスは橋の途中まできて止まった。


「赦し?ずいぶん謙遜けんそんなことを言うのね。私があなたを赦すなんて!あなたは私の人生で唯一の祝福なのよ。素敵な、高貴な恋人よ。死んであの世に行ったら、天使の前でも、素晴らしいアレックスの、卑しい、世にも幸運な愛人だった、と誇りをもって言うわ。どうか何かおっしゃって。あなたは私が赦すまえに赦されているのよ」

 アビゲイルは感極まって、涙を浮かべながら言った。アレックスはこの時ほど、アビゲイルを気の毒に思ったことはなかったし、熱烈に愛したこともなかっただろう。だが、全ては破綻にむかって進んでいた。


「王女のことね」

 アレックスが口にするよりも前に、アビゲイルが言った。

 不思議なことに、アビゲイルは悲しそうな顔などせずに、晴れやかで落ち着いた表情をしている。

「いつかはあなたが誰か他の女のものになるだろうって思っていたわ。あなたと結ばれるはずがないって知ってるの。私は大人よ。それくらい我慢できる。あなたの瞳さえあれば……」

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