鞭とゆりかご
「それで、マティアスはあなたに良くしてくれるのね」
アビゲイルが言った。
レイチェルは〈風と波の宿〉を見舞いに訪れたアビゲイルと編み物をしていた。アビゲイルの編み物は手慣れていて、編み目もきれいだ。
「ええ、彼は立派な人です。幼い頃に夢見ていた騎士そのもの。生憎、婚約しているけれど」
レイチェルはそう言ってほんのりと笑った。
「うちの娘とね。でも、恋は悪いことじゃないわね。あなたの笑顔が見れた」
アビゲイルが言う。
「トマス夫人、違うんです。私、何も娘さんの婚約者に横恋慕しようなんて……」
レイチェルがそう言って薔薇色の頬をもっと赤くさせた。
「わかってるわ。わかってるの、あなたはそんな子じゃない。でも、マティアスを幸せにできるのはメアリーじゃないわ。メアリーは感謝することを知らないし、あの二人は合わない。世の中って、時に残酷よ。あなたとマティアスが結ばれればいいけれどね」
窓が開いていて、風が吹いていた。春だというのに暖炉の火がついていて暑いくらいだ。レイチェルもアビゲイルもうっすらと汗をかいていた。それなのに、火を消せない。心細かったのだ。夜の森で狼を恐れて火を焚くように、二人は何かを怖がっていた。
「マティアスはこんな状態の私を喜ぶと思わないわ。だって、私は処女じゃない。貞操を守れなかったの。それに私のことを気にかけてくれるのは、彼が高潔な人だからよ。私は美人ではないし、彼が結婚したいと思えるような娘じゃないの」
レイチェルはそれだけ言うと涙を浮かべて口をつぐんだ。
「つらい経験をしたのね」アビゲイルが静かに言う。「リリィから聞いたわ、あなたの身に起こったこと。恐ろしいことよ。でも大切なのは、あなたがこうして戻ってきたことだわ。だから、私もマティアスもあなたの笑う姿が見られた」
以前、アビゲイルは自分の身の上話をしたことがあった。イリヤ城に来てから、アビゲイルの過去を知ってる者は少ないけれど。
彼はその時少年だった。
「まだほんの小さな女の子だった頃、さらわれたの。ちょうど今のあなたと同じくらいの年だった。母の言うことを聞かずに森の中で木登りをしていたの。大人の男がちっちゃな女の子をさらうのなんて、あっという間だった。他に誘拐された人たちと一緒に、荷台の檻の中に積まれたわ。
母国のアストレアから、エイダの大商人の家に売り飛ばされたの。私は何が何だかわからなくてら恐ろしくて、母が恋しくて、毎晩泣いた。一緒に寝起きしてた女の子が主人の前では泣くなって言ったわ。泣かれるとひどく怒るっていうの。彼は鞭を持っていて、奴隷を痛めつけるのが好きだった。特に若くて無力な少女の背中に鞭打つのが」
アビゲイルは涙を浮かべて、顔を引き攣らせた。ゆりかごが揺れ、ばら色の頰をした赤ん坊が眠っている。アビゲイルは涙をぬぐい、優しい目で乳飲み子を見つめた。石膏のように白い手で、幼い皇女のほっぺたに触れる。リリィは目をパチクリと開け、顔をゆがめた。今にも泣き出しそうだ。抱き上げ、赤ん坊ごと体を揺らす。
「私はご主人のお気に入りになった。何度も死のうと思ったわ。彼は私を物かなんかのように犯し、獣のように翻弄した。死んだほうがましだったわ。でも死に損なうのが怖かった。見つかれば死ぬよりもひどい目に遭う。私が逃げ出せば隣で寝起きしていた女の子が殺された」
アレックスはひっそりと涙を流すアビゲイルに見惚れていた。つややかな赤毛に白い肌。濡れた濃いまつ毛。
「でも、どうやって……」
アビゲイルはうなずいてアレックスの質問をさえぎった。
「夫に見初められたの、リー・トマスに。大金を出して買い取ってくれた。正式な妻として居城に住まわせてくれた。生涯の恩人よ」
言葉とは裏腹に、まだ奴隷のままなような気がする。リーは妻に敬意を払わなかったし、時に露骨にそう示した。
リー・トマスはアビゲイルの生涯を救いはしたけれど、魂までは救わなかったのだ。
「なんでこんな話をしたのかしら。私、誰にも話したことないのよ。夫にさえも……」
アビゲイルは立ち上がって遠くを見つめた。小窓からの景色はよくできた絵画のように見えた。城の塔に、城壁、海と断崖。
美しい女だ。背が高く、四肢は見事なほど均整がとれている。子どもがあると聞いても、にわかには信じられないだろう。




