囚われの恋
すぐにマティアスとレイチェルの駆け落ちの計画を皇子に伝えなければならない。それも、公務で飛び回るアレックスを捕まえて、誰にも聞かれないようにだ。
翌日は雨が降っていた。どしゃ降りの雨だ。皇女もメアリーも部屋にこもりっきり。リリィは退屈なエリザベス・ターナー先生から解放されると早速入浴の準備に取りかかった。
「私、部屋に帰るわよ。あなたがお風呂に入ってる間、恐ろしく暇なんですもの」
メアリーがリリィの服を脱がしながら言う。
「あら帰らないで。一緒に果物でもつまみながらお喋りしましょう」
リリィが振り向いて言った。
「いやよ。蒸し暑いし、湿気で髪が台無しになっちゃう」
メアリーが言う。
確かに髪が湿気で微かに縮れているような気がした。
「今帰ったら、マティアスが部屋の扉の前にいるわよ。避けてるでしょう?」
メアリーが刺すような目でリリィを見る。
「嘘つきね。マッツが私のこと、どう思ってるのか知ってるのよ。見下げ果てた奴だってね。そんな人が、朝っぱらから〈皇妃の館〉の廊下をうろついて婚約者に出くわす危険をおかすかしら」
「あなたの方から避けてるのに?」
リリィはとぼけて言った。
「やめてよ。マッツはね、苦しんでるのよ。私を取るか、レイチェルをとるか。彼はレイチェルを愛してるわ。私のときとは全く違う愛し方でね。もとから私は彼の愛にふさわしくなかった。マティアスはレイチェルと結婚するべきよ。でも、メアリー・トマスのことで吹っ切れずにいるの。私に情が残ってるからじゃない。誠実さと義務感のためよ」
メアリーは苛立っていた。白い滑らかな眉間にしわを寄せている。苦悶に表情がゆがんだ。
「ほんとうを言うと私、彼に会うのが怖いのよ。今に別れ話をされるんじゃないかって。だって、別れ話をされたら笑顔で、はい、別れますって言わなきゃならないのよ。彼は私だけのマティアスじゃないの。レイチェルの人生がかかってるのよ。私はレイチェルに婚約者を譲らなくちゃならない。きっと、あなたには何を言ってるのかわからないでしょうね。マッツをほんのちょっとでも愛したことのない私に、ためらう余地なんてないじゃないって」
メアリーがそう言いながら、手荒にリリィの服を脱がせてゆく。
「いいえ、わかるわ。たとえ恋愛感情がなくたって、マティアスはとても素敵な人だもの。こんなに長く一緒にいれば、彼が素晴らしい夫になることはわかる。特にあなたには、マッツはエル城行きを逃れる救世主だったから」
リリィはすっかり服を脱ぐと、腰まで伸びた漆黒の髪をまとめて結い上げ、お湯につかないようにした。
「問題はね、エル城行きをまぬがれるかどうかではないの」メアリーが疲れ切った声で言う。「皇妃は私が辺境に行かないように取り計らってくださる。でも、レイチェルの件で嫌悪を感じたわ。皇妃とは関わりたくない。もしトルナドーレの弟に婚約を破棄されたら、皇妃の気にいる人と結婚しなければならなくなる。無闇に拒否したら忠誠心が疑われるわ。その相手が意気地なしだったら?女に興味のない男色家だったら?死にかけのおじいさんだったら?何考えてるのかわからない変わり者だったら?」
リリィはメアリーに強く勧められたので、〈風と波の宿〉に行って、アレックスと会うことにした。メアリーの話では、アレックスは〈崖の家〉でリリィを待っているという。だが皇子は留守で、トルナドーレ兄弟とレイチェルがいた。
マティアスは雨でずぶ濡れになったリリィを見て驚いた顔をした。兄弟とレイチェルは居室の暖炉を囲んで、女性のまとう香水の効果(あるいは女性の体臭そのものについて)について議論している。主に意見を戦わせているのは兄と弟で、レイチェルは微笑んで話を聞いてるだけだ。
「ずいぶん寒そうだわ。こっちに来て。毛布を貸したげるから」
レイチェルがリリィの濡れネズミのような憐れっぽい姿を見て言う。
「ありがとう。でも要らないわ。寝室で着替えてくるから」
着替えを済ませて、私室のベッドの上で人魚の天井画を眺めていると、扉を叩く音が聴こえた。
「リリィ、着替えは済んだかい?もし済んだなら、廊下に出てきてくれないか」
ジョンだった。慌てて身を起こして、廊下に出る。
「真剣な話じゃないさ。弟の婚約と言い、レイチェルといい、これ以上お堅い話はごめんだ。囚人だよ。君に恋して頭がおかしくなってしまったんだ」
「なんの話をしてるの?囚人ですって。まさかヘンリー・トンプソンじゃないでしょうね。私、彼をからかうつもりなんてなくってよ」
リリィがジョンのにやけ顔を見ながら言う。
「まさか、君が恋の火遊びなんてするわけない。それはわかってるよ。だが、トンプソンは何か隠してる。アレックスは裁判を待つだけで聞いてみようともしない。トンプソンを守るのに夢中なのさ」
例の人を食ったような軽い調子で言った。
「彼には私が取引をもちかけたわ。真実を話せば、脱走を手伝ってあげるって」
リリィが負けじと言う。
「手ぬるいな。そんなんでは本当のことを言うわけない。トンプソンは並の男じゃない。皇妃のことだって何か知ってるはずだ」
ジョンの話も一理あった。トンプソンがもし単なる雇われだったなら、父の拷問で苦痛をのがれようと、口から出まかせの情報を吐いたはずだ。だが、彼は何も言わなかった。一切、なにも。つまり、彼はかなり強靭な精神と肉体の持ち主なのだ。
「私に何をしろと言うの?」
リリィが息を詰めてきく。
「さあね。とりあえず会ってやればいい。牢屋の中では慰めになるはずだ。しまいには天使だって思い込むさ」
リリィは迷いを捨てて、トンプソンの独房へ入った。ヘンリーはリリィが入ってくるのを見ると、何も言わずにただ見つめている。
アレックスなら、トンプソンと会うのはやめろと言うだろう。健全な娘のすることではない、と。独房から出た後、リリィも兄の考えが正しいのだろうと思った。ヘンリーはすでにリリィを熱愛していた。リリィには、ヘンリーの熱っぽい瞳から、熱烈な文句からそれがわかるのだ。
「ジョン、これって悪いことだわ。彼、どんな目で私のことを見るかわかる?」
リリィは二階の廊下に出るとすぐに言った。
「居心地が悪いか?でも拷問よりましだ」
ジョン・トルナドーレはそう言い放つと、暗い廊下にリリィを残して立ち去った。




