まちがいの婚約
事件以来、メアリーとマティアスの仲は急速に冷え切っていった。元々、メアリーの方に気持ちはなかった。マティアスの一途な想いと寛容さが二人を繋ぎ止めていたのだ。だが、レイチェル・モートンの虚ろな目とメアリーの横暴さを見れば、百年の恋も冷めるというもの。
「メアリーとは話しているの?」
リリィが〈皇妃の館〉の廊下を歩きながら訊ねた。
マティアスとリリィの二人は大広間で朝食をとってから、一緒に歩いていたのだ。この頃の二人は城内を歩きながら他愛のない話をするのがくせになっていた。といっても、リリィには最後の花嫁修行で忙しくて、マティアスとも長々と話していられない。
皇女はメアリーでもレイチェルでも、アレックスでもない話し相手が必要だったのだ。
「話してないよ。実を言うと、あの事が起こってから、『手を洗ったら』としか口を聞いてない」
「手を洗ったら?」
リリィがおかしくなって言葉を繰り返した。
「メアリーと話すのを避けてたんだ。彼女が許せなくてね。だが、メアリーときたら、僕の目の前で水溜りに転びやがったんだ。それで、泥だらけの手で髪を触っていて、余計汚れるのさ」
マティアスはちょっと愉快そうだ。
「メアリーが転んだの?やりそうにないけれど、きっと気が動転していたのよ。婚約者の前ですもの」
「婚約か」マティアスがそう言って顔を曇らす。「リリィ、婚約を解消したらメアリーはどうなると思うか。皇帝の言う通り、宿なしになるのか?」
リリィは質問に答えるより先に考えをめぐらした。
マティアスは何を考えているのだろう。メアリーを捨てるつもりなのだろうか。
彼の愛が冷め切っているのは疑いの余地はない。婚約者たちは隠そうともしなかった。
「最悪の場合はね。よくて皇妃の侍女というところよ。お母様はメアリーを離そうとしない。でも、婚約を反故にするなんてできて?皇帝の決めたことなのよ」
リリィはマティアスが心の中で何を考えていようがメアリーを庇うつもりだった。
「簡単ではないさ。それよりも僕が一日中考えてるのはレイチェルの将来のことなんだ。彼女は奴隷以下の扱いを受け、文字通り死にそうな目に遭った。それでも生き残って僕たちのところに帰ってきたんだ」
感情が昂って声が震える。
「レイチェルのために何かしてあげたいのね?」
リリィが澄んだ目でマティアスを見つめた。
「彼女が嫌じゃなければ、結婚してあげたい。暗い部屋に一人で放っておけないんだ。俺ならレイチェルを守れる」
「皇妃からも?」
リリィが言う。
「ああ。皇妃から敵視されようがかまわない。アストレアに大叔母がいるんだ。船にひそんで、二人でアストレアに向かう。レイチェルも新しい場所でなら、過去を忘れられるだろう」
マティアスが熱っぽい口調で言った。
アストレアは「女王の治める国」でエイダの隣国だ。マティアスは祖父がレイチェルとの婚姻を許してくれないのをわかっていた。トマス家の一人娘と結婚するのに、代わりの者はいない。レイチェルを選べば故郷を捨てることになる。帝国での地位も望めないだろう。
「本気なの?レイチェルを愛してるの?」
リリィが顔を寄せてささやいた。
マティアスの騎士道的な志にリリィも胸をときめかせていた。ロマンチックで、冒険の匂いがする。たちまちマティアスの計画を応援したくなった。
「本気だ。命にかえてでもレイチェルを救ってあげたい」
リリィはまずマティアスの皇帝にメアリーとの婚約解消を求める計画に反対した。リチャードに話せば、ヘレナにマティアスの意図が筒抜けになる。アレックスなら船を所有しているし、レイチェルを救ってやりたいと思う気持ちはマティアスにも負けなかった。
「駆け落ちをすすめているのか?」
マティアスがきく。
「ええ、レイチェルの安全のためよ。待って、メアリーに話してもだめ。私が説明できるもの。それに、メアリーはあなたのことを愛していない。二人とも結婚する前からわかっているでしょ、この結婚は間違いで、馬鹿げているって」
マティアスは瞬きして、活き活きとしゃべるリリィに目を見張った。まるで小悪魔みたいだ。
「でも、メアリーはどうなる?エル城に帰るのか?」
「そうはならないわ。花婿が逃げてしまえば、お母様はまた新しい花婿を見つけるでしょう。メアリーの悪いようにはしないわ。それに、メアリーだってレイチェルのことでは償いをしたいの。わかってくれるはずよ」




