私のお父さまじゃない
リチャードの書斎に入ると、書記が荷物をまとめて部屋から出ていこうとしているところだった。父の後ろからついてきたアレックスを何事かと見ている。アレックスは書記に所作で部屋から出ていくよう伝えた。
リリィは皇帝の私室にはいなかった。あれだけアレックスに約束を守るよう言っていたのに、自分は無断で帰ってしまったのだ。
「お前はもう帰れ。私からリリィに説明する」
リチャードが洗面器で手を洗いながら言う。
今、父に意見するのは得策ではない。リリィに会って何か言ってやりたいのはやまやまだったが、大人しく皇帝の意向に従った。
リリィはアレックスと別れてから、部屋を飛び出し、気が狂ったように、廊下を駆け出していった。スカートは裾を踏んづけたまま破れ、黒い長い髪には地下牢のほこりがからまっている。薄い緑色をした瞳からはひっきりなしに大粒の涙がこぼれていた。
「うちのお姫様がご乱心だ」
信心深い女中の婆さんが、廊下を駆けてゆく皇女をみて言う。
まったく女中の言う通りだった。リリィはその時、地下牢での衝撃で正気を失っていたのだ。信心深い婆さんは、それ以来、どうかお姫さまがまともになりますように、と祈らないことには眠れなくなってしまった。ついでだが、その夜、ばあさんは歯が二本も抜けてしまったのだ。口の中には、歯が三本だけ残った。
黄昏時、皇女は歩廊の上に、一人で立っていた。断崖の底から冷たい風が吹きあげてきて凍える。
沈みゆく夕日を眺めて物思いに耽った。数年前にはこの歩廊で、海と港を行き交う船を見守ったものだ。人魚の国旗を掲げた帆船も、潮風の匂いも、隣で誇らしげに立っている父も大好きだった。それなのに、地下牢でみた父の姿を思い返すと、悪寒が走る。父のことはよく知っていたはずだった。戦争ばかりで家を空けていることが多かったが、通じ合うものがあったのだ。
だが今はわからない。
「リリィ、話してくれるか」
遠慮がちな父の声がした。
リリィが振りむく。リチャードは、疲れた、黄ばんだ顔で立っていた。風が鋭い音を立てている。
「あなたは、私のお父さまじゃないわ」
娘は穴が開きそうなほど、父の顔を凝視していた。目には怯えと嫌悪が走る。水の中の葦のように不安定な声だった。
「お前のことは大切に守ってきたつもりだった。だから、ああいう薄汚い秘密も秘密のままにしてきた。今は私のことを怖がって、憎んでいるだろう。不思議はない。だが、お前ももう大人だ。話せばわかる」
リチャードの声は低く、穏やかで、不思議なほど心地よい。反発し、恐怖心を抱いているリリィでさえ、聞き入ってしまいそうなほどである。
「あの人は死んだの?殺したの?」
リリィが後ずさりをして言った。
「いや、牢屋にいる。あの男を尋問したのはレイチェルを探すためだ。罪のないお前の友達を救うためだった。だが、アレックスがレイチェルを救出したので、その必要もなくなった。
リリィ、拷問はきれいなことではない。戦争も、お前とエイダの王子との結婚でさえそうだ。だが、私には守らなければならない帝国の名誉がある。救わなければならない民がいる。私は皇帝として、汚いことをやらなければならないのだ。
嫌っても憎んでもいい。自由だ。だが、私の民を思う気持ち、そしてお前への愛情は疑わないでくれ。
お前も結婚すればわかるだろう。きれいな世界など、幻でしかなくなる。守ろうとする代償は大きい。やがて、汚いことをやらねばならなくなる。一度手をつけたら最後、代償は一生ついてまわる。そこからは逃れられないのだ」
リリィは血が流れるほど唇を強く噛んだ。日は沈み、視界に暗い青の海が広がっている。静かな海だった。風ははたとやみ、父と娘の間には、哀しい緊張がただよっている。
「レイチェルに会いたい……。お父さま、あの子ほど純粋な子はいないんです。レイチェルは無事でしょう?どうにもなってないでしょう?そうでなくっちゃ。だって、レイチェルほど、心の綺麗な人はいないんだから。ああ、でも先に地下牢にいた、あの可哀想な男の人に会わせてください。そうしないと、そうしないと……。あの人に会うことは皇女である私の義務だわ。可哀想な方!可哀想なお父さま!なんて可哀想な世界なの!」
リリィは堰を切ったようにしゃべり出した。同時に、涙が後から後からと溢れだしてくる。
皇女は異様なほど興奮していた。神経衰弱状態だったのだ。
リチャードには娘の真摯な想いがわかっていた。世界の恐ろしい側面に向き合うつもりなのだ。父や母の犯した罪にも。
だが、ひとまずは入浴をさせ、食事をとらせた。そうでなければ、レイチェルや気の毒な男にあったら、失神してしまうだろう。それに、リチャードにはレイチェルの受けた傷を娘に話せなかった。父親が暗い地下室で拷問していた上、自分の母親が無垢な娘に暴行させていた、など、誰が受け入れるだろうか。




