暗がりの邂逅
レイチェルはアレックスの指示で〈風と波の宿〉に運び込まれた。館には警備が増やされ、トルナドーレ兄弟とマットが順番にレイチェルの部屋の前で見張りをしている。皇妃が刺客を差し向けるかもしれない。
アレックスは仕方なく、地下牢に向かった。流血沙汰になっては、その上、皇妃が絡んできては、リチャードなしで済ませるわけにはいかない。
地下牢は嫌いだった。血のすえた匂いが充満する、寒い空間だ。何もしないうちから気が重くなる。地下の二階まで降りると、暗がりの中、廊下にしゃがみこんで震える女性の姿があった。華奢な腰にまとったスカートがひらひらと、小刻みに震えている。アレックスは、はたと立ち止まって目を細めた。女が啜り泣いていた。
アレックスは恐る恐る、女に近づいていった。女が物音に気づき、肩をびくつかせる。
不意に女と目が合った。女というより、少女である。涙でぬれた瞳が、恐ろしいほどの情念をこめてこちらを見上げている。意地らしく、それでいて冬の夜の飢えた狼のような、切羽詰まった目だ。
「リリィ、どうしてここにいる?」
アレックスが度肝を抜かれて叫んだ。
皇女がこんな凄惨な場所にいてはならない。拷問も、悪臭ただよう独房も、リリィに見せるようなところではなかった。リリィはひどく傷ついていた。何か伝えようとするけれど、全身が震えて言葉が出てこない。
「ここにいちゃいけない。兄さんがお前を出口まで運ぶから、まっすぐアビゲイルのところに行くんだ。このことは誰にも話すな。わかったか?」
アレックスが声をひそめて言う。
リリィはたちまち滂沱の涙を流すと、かぶりを振った。
「もう見ちゃったのよ。無駄だわ、私に隠そうとしたって。お父さまだったの、お父さまだったの……私たちのお父さまだったのよ!」
激しく泣きじゃくりながら言う。
「わかった。お前の言いたいことはわかってる。つらかったろう。苦しかったろう。後でここでのことを説明してやる。だから今は部屋で休んで、頭を冷やすんだ」
妹に〈皇妃の館〉へ帰るよう説得するのは至難の業だった。リリィは「お父様だったの、お父様だったのよ」と、肩を震わせながら繰り返して言う。アレックスが抱きかかえようと前に踏み出すと、リリィはまた肩をびくつかせて、こちらを見上げるのだ。
結局、リリィはアレックスが父の私室に運んで行くことになった。そして、話が終わったら、リリィのところへ父をよこすようにという約束までさせられたのだ。その際に、必ずアレックスが付き添ってこなければならない。
リチャードは地下牢でアレックスを見ても、特別驚いた様子は見せなかった。アレックスは既に拷問の存在を知っていたのだ。リチャードが息子の前で皇家の暗い秘密に触れることもあった。
憐れな「秘密」の犠牲者は、裸で、息も絶え絶えになっている。アレックスは思わず無惨なありさまの男から目を背けた。
「父上、拷問は必要ありません。レイチェル・モートンが見つかりました」
アレックスが切り出す。
リチャードが眉を上げ、息子の顔をしげしげと見つめた。それから、話を続けるように促してくる。
「皇妃の隠し部屋にいました。拷問されていたのです。暴行のあともありました。知りもしない情報を提供するよう尋問を受けていました……。リー・トマスの娘のメアリーがたまたま見かけ、僕が救助に向かいました」
アレックスが顔をしかめて言った。隠し部屋で見た惨状は思い出すに忍びない。
「よければ、その男をここから〈処刑広場〉の牢獄に連れていってやってください。その男は大した情報を持っていませんよ。皇妃はことが首尾よく運んだら、皇帝に寝返った近衛兵たちを殺すつもりだったのですから」
アレックスは男を救ってやるつもりだった。この容態では手厚い看護が必要になるだろう。地下牢にいては死んでしまう。
「いいだろう、パーシー、連れて行け。だが、なぜ皇妃の隠し部屋に娘がいたのだ?」
リチャードがたずねた。冷淡な口調だ。
「メアリーは隠し扉の隙間から皇妃の姿を見ています。レイチェルの誘拐に皇妃が関与しているのです。父上、メアリーやリリィのためにも今回の件では皇后を見逃さないでください」
アレックスが熱心な口調で言う。
「アレックス、お前の言いたいことはわかる。だが、お前はその目で皇妃がレイチェル・モートンを痛ぶっているところを見たのか?」
「いいえ、見ていません。見たのはメアリー・トマスです」
アレックスは失望を感じた。父はヘレナのことを無視するつもりなのだ。こういうことは今までも何回かあった。
「メアリーは私の前で、見たと誓えるか?」
「メアリーを裁判で証言させるつもりはありません。彼女は婚約中の身ですよ。だが、明白なことです。僕の証言があれば十分でしょう。陛下、これは帝国に心身共に仕える男としての願いです。皇后を裁判にかけてください。義母のことをこんな風に言いたくありませんが、あの方は何かを企んでいます。このまま目を瞑っていれば、帝国への脅威になり得るのです」
アレックスは飾り気のない態度で、切々と訴えた。
「あれはリリィの母親だ。リリィを魔女の娘として生かすことなどできない」
リチャードも強硬である。
「魔女裁判である必要はありません。正真正銘の反逆罪ですよ。それに、リリィは実の母親を怖がっています。裁判にかけないなら、せめて監視の目を強めるべきです」
アレックスには父の決断がわかっていた。リチャードはヘレナとの結婚を失敗と認めながらも、離婚に乗り出そうとしない。ヘレナは皇帝を魅了し続けていたのだ。
ヘレナが単なる悪妻だったのなら、アレックスだって構わなかっただろう。だが、皇妃は陰惨で、時に皇帝の知らないところで、国事や政治の陰謀に携わっていた。宮廷には不審な死が絶えない。アレックスは皇妃が都合の悪い人物を抹殺しているのではないか、とにらんでいた。ヘレナの魔の手が自分やリチャード、さらにはイリヤの王冠に及ぶのは時間の問題である。




