レイチェルの失踪
朝、皇女はベッドの中で世にも幸福な夢を見ていた。美しく軽やかなドレスを着て、裸足で原っぱを駆け回る夢だ。アレックスやメアリーがいた。ジョンもマティアスも。みんな笑っている。
荒っぽい手と男の無遠慮な声で、素敵な夢は中断されてしまった。目を擦ると、正面にジョンが必死な顔をして立っている。リリィは思わずキャッと叫んで突き飛ばした。
「ジョンったら何してるのよ。自分の心臓、串刺しにでもするつもり?こんなところにいたらお父さまに殺されるわよ」
リリィが憤慨して言う。
ジョンは後退りして両手をあげ、リリィが話を聞いてくれるのを待っていた。
「まったく、人が眠ってるすきに。無礼なのもいい加減にしてちょうだい」
リリィがぶつぶつ文句を言いながら、毛布の中から這い出た。寒気がする。途端に嫌な予感がしてきた。あの、ちゃらんぽらんのジョンが冗談の一つも言わない。
「起こしてすまなかったよ。でも、レイチェルなんだ。昨日〈崖の家〉にいきなり近衛兵が来て、連行された。剣で止めようにも多勢に無勢で」
ジョンがそこで差し出された水を飲んだ。
「近衛兵ですって。お父さまが命じたのかしら。でも、レイチェルが悪いことするはずがないわ」
リリィが部屋着のガウンを羽織りながら言う。
「昨日は近衛兵のすることだし、黙って待っていたんだ。皇帝の兵士が曲がったことをするわけないだろうと思って。だが、今朝になっても音沙汰がないし、リチャード皇帝に直接訊くことにした。なんなら、レイチェルの無実を証明するつもりだったんだ。でも、皇帝はレイチェルの逮捕には無関係で名前さえ知らなかった。近衛隊長のところに行って、話を聞いてみたが、なんの情報も得られない。公式の記録にもレイチェルの連行の件は一切載ってなかった」
「大変だわ。誘拐よ」
冷水をかけられたような気分だった。レイチェルは昨日から行方がわからなくなっていたのだ。
「偽の近衛隊か、近衛兵が買収されていたんだ」ジョンが続ける。「皇帝とアレックスに話した。今近衛兵が一人ずつ呼ばれて尋問されている」
「皇帝の名を盗む者は父が容赦しないわ。でもレイチェルはどこに?それで何をされているの……?一体あの娘が何に関わり合ったというの?」
騒ぎを聞きつけて、アビゲイルとメアリーがやってきた。アビゲイルは真っ青になってその場に崩れ落ちる。ジョンが手を貸して、「奥さまに恐ろしいことはありません。レイチェルも必ず見つけ出します」と言い聞かせた。
「なんて恐ろしいことなの。レイチェルのこと、何か知らない?どういう人が彼女を狙う、とか、何か当てはない?あなたなら何でも知ってるでしょう?」
リリィが、呆然と突っ立っているメアリーに聞く。メアリーはよく櫛の通った金髪に、薄いそばかすの浮いた素顔の体だ。絹の部屋着がはだけて、白い胸が朝の冷たい風にさらされている。
「知らないわ、なにも。彼女、どっかの領主の娘なんでしょう?身代金目的の誘拐じゃなくて?あの娘、手癖が悪かったのかもよ」
メアリーの声はよそよそしかった。
「どうしてトーウェンヤッハの賊が都に現れるの?遠すぎるわ。そんなんじゃ賊も商売あがったりでしょう。それにね、誓って言うけれど、レイチェルはまっすぐな心の持ち主よ。盗みを働いた、なんて私の前で言わないでちょうだい」
リリィが顔をしかめて言う。
「あら、レイチェルが清廉潔白って言いたいのね。あの娘、ふしだらな上に偽善者よ。見てなさいよ。今にボロが出るわ」
メアリーは怒り、激しい身振りでリリィに言った。黒い大きな瞳が怪しげに光る。
「よくもそんなことが言えたものね。レイチェルは私の友だちよ。私の前で、友だちの悪口を言わないでちょうだい。行方がわからなくなってるのに、あなたは心配する素振りさえ見せない。いい気味と言わんばかりね。あなたほど不埒な人、見たことないわ」
リリィも負けず劣らず言い返した。
「じゃあ言うわ。レイチェルを好くよう強制しないでちょうだい。私、レイチェルが嫌いだし、それを隠すつもりもないわ。彼女がどうなろうと知ったことではないの」
リリィがメアリーの頬を叩く。鋭い音が部屋の中に響いた。メアリーが一瞬よろけて、ベッドの柱に寄りかかる。面を上げ、嘲笑をもらした。リリィがまた手を上に振りかざす……
「リリィ、もう十分だ。何にもならない」
ジョンがリリィの手を止めて言った。怒りを鎮めるような、穏やかで、同時に厳しい声だ。
「私を殴ったって、レイチェルは出てこないわよ」
メアリーがそう言って唾を吐く。
「やめなさい、メアリー。皇女様に謝罪を」
アビゲイルが蒼白な顔のまま、声を震わせて言った。
母娘は対照的だった。アビゲイルは青白い顔で、怒りか恐怖に打ち震えている。目も生気はなく、どこか病人じみてさえいた。一方の娘は真っ赤な唇を激情でゆがめ、目にきつい光をたたえている。どちらがより強い力を持つ者か、一目瞭然であろう。
メアリーは血を分けた母親の方にかがむと、耳元で何かを囁いた。アビゲイルが恥入ったかのように、肩を震わせ、口をつぐむ。
娘は身を翻して、歪んだ笑みを浮かべるとその場を後にした。
アビゲイルは声もあげずに涙を泣いている。リリィは流された涙に怒りを忘れ、心優しい乳母を抱きしめた。
ジョンはリリィに向かって頷くと、部屋をでてメアリーの後を追った。




