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皇女リリィの結婚物語  作者: 緑みどり
黒い秘密
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子守唄

 アレックスの寝室は〈皇帝の宮〉の一室である。幸運なことに部屋は処刑広場ではなく、海岸の方に面していた。風通しがよく、陽当たりもいい。おまけに天気のいい日に窓から灰が降りかかってくることもなかった。


 リリィは皇子の部屋で、兄が腰から外した剣をこっそりといじっていた。アレックスは衝立ついたての向こうで乗馬服に着替えている。


 寝室の暖炉台に鹿の首が飾ってあるのが気に入った。剥製はくせいである。立派なツノがついていた。毎晩仕留めた獲物の首を見て横になるなんてアレックスらしい。義兄あにがベッドに寝そべって、満足げな顔をしているのが脳裏のうりに浮かんだ。

 アレックスの部屋はテーブルの上に不思議なものが置かれている以外はよく整理されている。壁や家具はマホガニーで統一されていた。


「父上がロトを崖の上に移動するようにって。ルースのことがあった後だし、リリィも城の中の方が安全だ」

 衝立ついたての向こうから兄の声が聴こえてきた。


「そうなの。私、ルースだけじゃなくて〈崖の家〉の使用人まで心配よ」

 リリィが心もとない声でいう。


「使用人たちには嵐の時、どう行動するか教えてある。ルースとロトのことは事故だったんだ。彼がお酒を飲んでいなかったら、ロトもお前の命も危険にさらさなかっただろう」

 アレックスは乗馬服に長靴ちょうかをはいてこちらにやって来た。


「そう、悲しい事故だわ」

 言葉にはしなかったが、ルースが本当に死んだのかはわからない。遺体はないのだ。


「どっちみち、皇女は〈崖の家〉に出入り禁止になったんだ。城内の森の中に、ロトのための更地さらちをつくって、柵で囲う」

 アレックスがいう。


「有難いわ。誰が森の中にライオンが潜んでるなんて思うかしら。出くわしたら驚くでしょうね」リリィはちょっと面白くなって微笑んだ。「ロトといえば、お兄さまに話そうか迷ってることがあるの」


 アレックスが長靴ちょうかひもをとめるのをやめて、こちらを見た。リリィは何か言いあぐねている。


「どんな話だ?」

 リリィがたじろいでいるのを見て、アレックスの目の色が変わった。


「嵐で波にさらわれた時に起こったことよ。でも、信じてくれるかわからない。もし聞いたら、私のこと気が触れてるって思うでしょう。それでも誰にも言わないで、秘密にしておいてくれる?」


「誰にも言わない。約束するよ。話してくれ。お前は三日三晩行方知れずだったんだ。何か摩訶不思議まかふしぎな力が働いてたとしてもおかしくない」


 リリィは兄の言葉を信じた。気がついたら、青い海の中、〈人魚の王国〉にいたこと、人魚の王に「娘」と呼びかけられたこと、白い神殿があったこと、話に漏れがないようにする。だが、トゥーリーンのことには触れなかった。秘密にしておきたかったのだ。


「じゃあ、お前は海の底に人魚たちが住んでると、そう言いたいんだね」

 アレックスが慎重な様子で聞いた。


「そうかもしれないわ。でも、確実なことなんて何ひとつないの。もし夢や幻覚だったら?戻りたくもないし、人魚たちのいるところへどうやって戻るかも知らないのよ」

 リリィは兄に話してみて、自分の話がいかにも子供騙こどもだましに思えた。話すべきではなかった。自分一人の心にとどめておくべきだったのだ。


「俺も、最初は幻だと思った」アレックスが静かな口調で言った。「最初に見たのは、まだ五歳のころだった。真夜中、不意に目が覚めたんだ。誰かの歌声が聴こえる。歌とはわかるが、どういう意味なのかは理解できない。女の人が、暖炉の前に立っていた。ちょうど君がいるところだ。彼女は裸だった。僕が見ているのを悟ると、歌をやめて、こちらにやってきたよ」


 女はアレックスに名前をきいた。自分がなぜ皇子の寝室にいるのかも教えてくれた。海の女神さまから皇子の子守をしてやるよう、言いつかったのだという。女は足まである長い赤褐色の髪で、無造作に体を隠していた。アレックスの髪を撫で、子守唄こもりうたを歌ってくれる。乳母の知らない子守唄だ。


 アレックスは最初、乳母や母のイライザに夜になるとやってくる謎の女について話した。イライザは幼い息子の話を信じる気になれない。乳母が同じ部屋で寝ていたからだ。だが、裸の大人の女が皇子の部屋にやってくるというのは考えものである。イライザは二週間の間、部屋の外に衛兵、部屋の中に女官たちをおいた。ところが、女は現れなかった。


「それからその女の人は来なくなったの?」

 リリィが恐る恐る聞く。


「いや、見張りがなくなって、また来るようになった。それに、僕の方では彼女のことが嫌いではなかったからね。この世のものとは思えないほど、美しい人だった。優しい物言いで、よく〈海の王国〉について話してくれたよ。そこがどれほど美しく、汚れのない世界なのか。反対に地上がどれほど野蛮で、人間がどれほど残酷な存在なのかを。


 彼女の子守は十三歳になるまで続いた。ある日、僕は名前を聞いたんだ。毎晩のように会っていたのに、彼女のことを何一つ知らなかった。好奇心が湧いてきて、もう異国の子守唄やおでこへのキスで満足できるような心情じゃなかったんだ。


 名前を聞くと、彼女は目を伏せて悲しそうな顔つきをした。沈黙にも関わらず、僕はさらに質問を重ねた。いつもどこからやってきてるの、あなたは何者なの、と。


 彼女は答えなかった。あの子守唄を歌い始めたのさ。僕は言葉が理解できなくて、もどかしかった。イリヤの言葉で、僕らの言葉で歌うようにと、要求した。横暴おうぼうな上に馬鹿だったのさ。


『僕は皇子なんだから命令は絶対だし、従わなければ、あなたの家族全員を火炙りにすることだってできる』


 彼女は僕から身を引くと、窓辺まで後退した。僕を蔑み、警戒してたんだ。彼女は窓を開け、そのまま飛び降りた。朝になるまで待って、外を見に行ったよ。死体があるのかと思ってね。だが、なかった。血痕けっこんさえ残っていない。窓辺の近くが不自然に濡れてるだけさ。それ以来、彼女は来なくなった。亡霊かなんかのように」


 アレックスはため息をついて、感傷かんしょうに浸った。初恋のひとだったのだ。


「その女の人は誰だったのかしら」

 リリィが眉をひそめて言った。


「人魚だった。そう信じてるよ。君が人魚になれたのなら、彼女が人間になるのだって、ありえないことではないだろう」アレックスはそう言っておいて、自分でかぶりを振った。「誰にも話さなかった。誰も信じないだろう、と思って。だが、お前がいたんだ」


 皇子は妹の手を取ると、キスした。リリィが微笑んで、窓の方を見やった。開け放しで、風が吹いている。確かに、そこには人魚の女がいたあとなど、微塵みじんもなかった。

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