カリーヌ王女
イリヤ城の中にはちょっとした森がある。杉や檜の植わった人工林だ。森の中央には図書館が建っていた。「イリヤの知恵」の体現である。森はこの「イリヤの知恵」を隠し、盗用を防ぐためのものだった。ちょうど中央には馬車道が通っている。
森は侵入者を恐れて、三メートルほどの高さの金属製の柵をはりめぐらしていた。おまけに門までついている。
リリィは門番のいない門の下に立って、アレックスを待っていた。門の下の馬車道を通る者は誰もいない。
皇女は退屈そうな表情をはりつけ、門に寄りかかった。雨だった。ドレスの裾に泥がはねている。今日は光沢のあるクリーム色の下着にサテンのオレンジ色のガウンを合わせていた。襟足を見せるかのように髪を結い上げている。カールした毛先が小馬のしっぽのように揺れ動いてかわいい。昨日の夜、髪をカールさせたのだ。普段のリリィにしては派手な服装だった。
不意に皇女の瞳が輝いて、顔全体が生気を帯びた。門をはなれて、微笑む。
「リリィ、どうしてここにいるってわかった?」
アレックスがぬかるんだ馬車道を歩いてやってきた。革靴も白いズボンにも泥がとんでいる。
「なんでもお見通しなの。勉強は捗った?」
リリィがアレックスの隣に並んできいた。
「はかどったよ。それで、これからどこに行くんだ?」
「部屋よ。お母様から当分の間、〈崖の家〉に行かないようにっていう言伝があったの。今日だってやっとのことで、見張りをまいてきたのよ。お兄さまがここに来るだろうっていうのは、完全に勘。でも一緒にいれば、一人でほっつき歩いていたってことにはならないもの」
リリィがそう言ってちょっとため息をついた。せっかく巻いた髪の毛も、降りしきる小雨でカールがとれかかっている。
「男が羨ましいって?」
アレックスが茂みの枝を引き抜いてきく。
「自由なのがね」リリィが言った。「お兄さまは?」
「一旦部屋にもどって、厩舎に行く。ついてくるか?」
「ええ、厩舎まで。お馬さんに挨拶して帰るつもり」
アレックスが枝を横投げする。枝は木々の間をぬけて、遠くまでとんでいった。見てて爽快だ。
「お見事」
リリィがクッキリとした笑みを浮かべる。
「エイダから縁談が舞い込んだわ。王子と結婚するの。お兄さまは何か詳しいことを知っている?」
リリィが唐突に、注意深く何やら弱々しい様子になって言った。
「聞いたよ。父上はリリィの結婚相手を三人に会ってから決めるつもりらしいね。今のところはエドマンドが有力だが。ショックだったか?」
「いいえ。国のために結婚しなきゃならないって知ってたもの。でもこんなに早いとは思わなかった」
リリィが言う。
「イリヤ国内では、エイダの王子との結婚に賛成する者は少ない。もっと相応しい国があるって。僕も賛成できないな。エイダの男はまともじゃない」
「じゃあお父さまが破談にするかもしれないわ。そうなったらいいな。誰とも結婚したくないの」
リリィはふとトゥーリーンのことを思い出した。ここ数日、トゥーリーンにまつわる正体のつかめない感情が胸の中を占めていた。トゥーリーンとだったら、結婚したいと思うだろうか。
わからない。わからないけれど、彼の唇に触れたいとは思う。夢の最後、彼は優しくリリィのくちびるに触れた。ああいう風に、ゆっくりと、優しいほど丁寧に、彼の唇にキスしよう。
リリィはトゥーリーンのしなやかな体つきを思い浮かべた。しなやかで強靭な体。サバンナのチーターのよう。細いけれど、美しくて丈夫な身体。
彼はリリィがじぶんのことをずっと考えているのを知っているだろうか。リリィをどう思っているのだろう?彼にキスしたら、怒るだろうか。それとも、感心するだろうか。
「そうは言っても、誰かとは結婚するだろ。父上が許さない。僕らは帝国の望む相手と結婚するんだ。お前の結婚はまとまりそうにないが、困ったもんだ、僕はエイダの王女と結婚しなければならない。カリーヌというらしい」
アレックスはそう言って、水たまりの中の石を蹴った。ズボンにさらに泥がとぶ。
「メアリーの話では、カリーヌは気立てのいい美人なんですって」
リリィがアレックスを慰めようとして言った。
「全然知らない人だ。縁もゆかりもない」
アレックスがいう。
「そうよね。もし望む相手と結婚できたら、ものすごく幸せでしょうね」
アレックスはリリィの言葉にうなずいた。胸の内に、カリーヌではない誰かを思い浮かべていたのだ。




