うわごと
リリィは長い眠りから目覚めてしばらくは、あの夢の意味を考えてみようともしなかった。単なる夢にしか思えなかったのだ。何か不安なことがある時に見る夢と同じ。それ以上のものではない。
夢の記憶はずっと眠っていたのにも関わらず、薄れてゆくどころか、ますます明瞭になってくる。人魚の王との会話も、あの広大な白の神殿も、トゥーリーンとのキスも思い出した。もし、全部が夢ではなく、本当のことだったとしたら?
皇女は誰か信頼できる人に話したかった。だが、夢の最後にした約束がひっかかる。
彼は、海の中で起こったことは忘れなければならない、と言った。トゥーリーンは海の王国の実在を認めたのだ。でも、そのトゥーリーンが実在するのかも不確かである。
誰にも話さないと約束した。もう一度会うとも。リリィは浜辺に打ち寄せる波に目を凝らしながら、少年との再会を願った。あそこでトゥーリーンを見つめ、彼の声をきき、彼にキスされたのだ。肌も唇も、ほんの一瞬、触れただけだったけれど。
「彼はとても美しい人だったわ」
リリィは窓辺に立って、うわ言のように言う。
「なんですって」
レイチェルが花瓶の花を入れ替えながら言った。ピンク色のばらを一輪挿している。
部屋にはリリィとレイチェルしかいなかった。アビゲイルは憔悴ぶりを見たアレックスと皇帝の強いすすめで〈皇妃の館〉に帰っていたのだ。
「何でもないのよ。嵐のあと、夢を見たの。本物のような夢を」
リリィがぼんやりと言う。
「不思議な夢ね。もしかして、本当のことなのかもしれない。彼ってどんな人なの?あなたの理想の男?」
レイチェルが好奇心にかられて聞いた。女の子はこういう話になると、キャピキャピせずにいられないらしい。
「理想の人かはわからないわ。でも……そうね、荒々しくて、力強い瞳。あの目を見たら、一生忘れられない。声も、何もかも素敵だった、夢のようだった……砂漠にいる獅子のようだったのよ」
リリィがためらいがちに答える。
「見惚れてたのね。ハンサムだった?優しかった?」
「ええ、ハンサムだったかもしれない。彼を見るとなつかしいような気がしたの。前にも会ったことがあるような」
皇女が恍惚とした表情で言った。
扉を叩く音がして、ジョンが入ってきた。腕に黄色い毛むくじゃらの獣を抱えている。レイチェルが獣を見て、一瞬、神妙な面持ちをした。
「あらジョン、どうしたのよ」
リリィが戸惑っていう。
「お嬢さん方の秘密の打ち明け話にお邪魔したかな。すまない。だけど、いい知らせがあるんだ。ロトだよ、ロト!」
ジョンが勝ち誇ったように言った。毛むくじゃらの生き物がもがいて、こちらを見る。
「ああ、ジョン!あなたってなんて素晴らしいの!私のロト、あなたが生きてたなんて!どこにいたの?怪我はなかったのかしら」
リリィは息することさえ忘れて喋った。ジョンが優しく、ロトをリリィにゆずり渡す。ロトが腕の中で甘え声をだし、リリィの手を舐めた。
「〈嘆きの塔〉の近くの厩舎にいたんだ。馬が怖がったり、興奮したりで大混乱さ。ロトの方がずっと小さいっていうのに」
ジョンが誇らしげにロトを見て言った。ロトはつややかだった毛並みもぼさぼさになって、あちこちに草や桜の花びらをつけている。
「猛り狂う馬の中から私の赤ちゃんを救い出してくれたのね。あなたって英雄よ!」
リリィがそう言って、ロトとジョンにキスする。
ジョンの推測では、ロトは嵐の直前にルースによって檻の中から出されていた。ルースはロトを救うことはできたけれど、自分の命は救うことはできなかった。酔っ払いの頭で殉職したのだ。ジョンもルースの死をどぎつい冗談で笑いものにはしない。
「少なくとも、あの飲んだくれを解雇する必要はなくなったからね。可哀想な奴だった」
アレックスは後日、ジョンにそう言ったものだ。
遺体のない墓が〈崖の家〉の片隅にたった。ロトは墓碑をなめ、じゃれては遊んでいる。悲しい死だった。
「君も外に出ればいいのに。もう調子もよくなったろう。皇帝が皇女の回復を祝って、城の外に金貨や砂糖菓子をばら撒いてるよ。町中がお祝い気分さ」
ジョンが庭でロトの毛をとかしているリリィとレイチェルを外出に誘った。ロトはお腹を見せて、リリィになされるがままになっている。
レイチェルは正装だ。毎日〈皇妃の館〉から〈風と波の宿〉に通っているのだ。一方、リリィは長い髪を後ろで太い三つ編みにし、麻の地味なドレスにエプロンをつけている。素朴な村娘のようなかっこうだ。おまけにエプロンにはライオンの毛がついている。
「このかっこうで?」リリィがきいた。
「変装になるさ。皇后陛下には怒られるが、君はそれで自由になれるんだ」
「論外よ。今日はロトと一緒に過ごすの。レイチェルかメアリーでも誘いなさい」
リリィはそう言ってライオンの毛刈りの作業に戻った。




