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皇女リリィの結婚物語  作者: 緑みどり
海と断崖
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乳母の胸の中

 皇女は三日三晩の捜索そうさくすえ、〈風と波の宿〉近くの浜辺で発見された。イリヤ城のすぐ近くで、溺死体できしたいにならずに見つかるなど、ありえない。皇帝も捜索にあたった近衛隊このえたいも首をかしげるばかりだ。ひとまずこの奇跡に頬がほころびはしたが。


 アレックスは皇女が発見された時、たまたま〈崖の家〉にいた。彼はすぐに侍医じいを皇宮から呼び、手厚く看病できるように、館の一室を整えてやった。皇女は昏睡こんすいしていたものの、重体ではないらしい。


 大勢の人が皇女のお見舞いにやってきた。一番最初にやってきたのはアビゲイルとメアリーの親子である。メアリーは目をらしていた。アビゲイルはこの三日の心労で老けてしまったように見えた。いつもは一筋の乱れもない赤毛を後ろで結んでいる。赤みがかった金髪に見えたほどだ。乳母は眠り続けるリリィに、ほろほろと涙を流しながら、ところかまわず口づけした。


「奇跡でしたよ、奥さま。まったくの奇跡です。海の女神さまが助けてくださったのでしょうか。いったい誰がこんなか弱いお姫さまの生還せいかんを信じてられたんです?それにきれいなお顔が……痛々しい傷ですこと」

 看護婦が優しい調子で、やつれ果てた様子のアビゲイルに言った。


 アビゲイルは木製の寝台の前に座り込むなり、日が暮れてもそこから動こうとしなかった。片時かたときも皇女のそばから離れたくなかったのだ。夜になって皇帝がきた時に、ちょっと席を外しただけである。


 アレックスは使用人にアビゲイルが絶食や不眠で倒れないよう命じるだけで、そっとしておいてやった。すぐに、リリィの世話役はアビゲイル、アビゲイルの世話役はレイチェルになったのだが。


「なんてひどい目に遭ったんでしょう。ずっと意識が戻らないし、肩のところなんて黒いあざができてるわ。あの時、私が皇女さまを一人で行かせなければ」

 レイチェルが病室の外の廊下で、マティアスにそう言ってみせた。責任を感じていたのだ。


「君は海の天候のことなんて知らなかったんだ。まさか、あんな事態が起こるなんて誰が思いつく?館にいても危険だったろう。あれはまったく君のせいなんかじゃない。ジョンやレイチェルが波にのまれて死ななかったのは奇跡なんだよ。僕は二人が無事で喜んでいる」


 ジョンもリリィの意識が戻るまで、〈兵舎〉から通い詰めた。張り詰めた顔で、病室の前の廊下に腕組みして立っている。事故のあった日のことを、レイチェル以上に気に負っていたのだ。


 水の精とまでうたわれたリリィは、ひどいありさまだった。顔はきずだらけ、腕には深い切り傷、肩には黒い大きなあざ。細い足には無数のあざができている。だが、乳母に見守られて、寝顔は安らかだった。医者も一生残る傷はないだろう、と断言さえしている。命名日に行われる社交界お披露目ひろめは延期されそうだが、嫁のもらがないなんてことはなさそうだ。いたみにいたんだ髪の毛はアビゲイルが毎日洗い、ココナッツオイルを塗ってやった。


 さて、奇跡の目覚めは〈崖の家〉に運び込まれてから五日目に起こった。


 恐る恐る目を開く。窓から差し込む光、繰り返される微かな波の音。潮の匂い。アビゲイルの甘やかな香水の香り。あたたかく、清潔な白いシーツ。窓辺にはわすれな草を生けた小さな花瓶。


 アビゲイルは声も上げずに泣いていた。皇女の行方が知れなくなってから、ずっとだ。リリィが起き上がり、乳母を抱きしめる。アビゲイルは目を見開き、「信じられないわ」と言った。何度もそう言った。ほほにキスして、幾度いくども離れては抱きしめ直しながら。


「これは現実なのね。あたし、人魚じゃないんだわ。ちゃんと脚がある。それに死んでもいない」

 リリィがかすれた声で言った。

 両の頬を、音もなく涙が流れてゆく。


 これで安全だ。心の底からそう思えた。人魚もトゥーリーンという名の少年も、すべて空想の産物、リリィの中の夢だったのだ。


「ついに皇妃は見舞いに来なかったわけか。波にさらわれたっていう話を聞いた時も、まるで娘の危機に喜んでるみたいだった」

 ジョンがリリィとあたたかい再会を果たした後、アレックスに耳打ちした。


「気づいてるよ。リリィは僕が守る。お前もそれに協力してくれるだろう。だが、義母上ははうえの話はしないでくれ」

 アレックスが素っ気ない口調でいう。


 ジョンは顔に浮かんでいた嫌悪の表情をひっこめ、アビゲイルに話しかけに行った。

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