海の神殿
リリィは水の中に落ちると同時に、激流に流されてゆくのを感じた。もがき、ロトの方へ行こうにも、もはや方角さえわからないのだ。体をあちこちに打ちつけ、あざだらけ、かすり傷だらけになる。濁流は氷のように冷たかった。何度も地面に打ちつけられては水面に浮き上がる。水を大量に飲んでしまって、お腹が苦しかった。
「アレックス!助けて!」
混乱の中、何をすべきかもわからず、ただ兄に助けを求める。
誰かがリリィの名前を呼ぶのがきこえた。アレックスかジョンなのか、アビゲイルなのか、それともさっきの謎の少年なのかもわからない。
リリィは洪水に流されまいと垣根にしがみついた。だが、それも虚しい努力だった。水の勢いは激しく、垣根ごと流されてしまったのだ。
最後、皇女は乳母のことでも、父や義兄のことでもなく、ロトのことでさえなく、謎の少年のことを考えていた。あの少年の言う通り、波にさらわれて死ぬことになるのだ。少年の姿をした、死神の言う通りに。
それ以上、溺れまいともがくこともない。海の半ばにある岩に頭をぶつけて、意識を失った。
声がした。遠くから、近くから。何も見えない。視界は真っ白だ。体が浮いてるような気がする。
「リリィ、海の王女よ、海の娘よ。夢を見るがいい。肉体死して幻の中を生きるのだ」
男の重々しい声が語りかけてきた。
ゆっくりと目を開ける。夢を見ていた。青い海の底、人魚の王国にいる。白い岩で築いた神殿が見える。海藻の寝床に横たわっていた。
人魚の王が厳しい視線でリリィを見守っている。茶褐色の長髪と立派な顎髭、薄緑の瞳。それに、あの、紛れもない人魚の王冠。彼こそが海の王なのだ。
夢の中で、リリィは人魚だった。人間の脚はなく、代わりに七色に光る鱗がついている。泳ぐことも、水中に浮かぶこともできた。海の嵐にだって、押し流されることはない。
「娘よ、神殿に行こう。渡したいものがある」
人魚の王が言った。
「娘ですって。あなたは私の父じゃないわ。本当のお父さまは陸に、崖の上にいるのよ」
リリィがほとんど怯えて言う。
「愛しい呪いの娘よ、私と一緒にくるのだ。憎しみの娘よ、陸にもどってはならない。凡庸な美と、魅惑の悪が蔓延った世界にはもどってはならない」
王がリリィの腕を掴んで、力づくで神殿の方へ連れていこうとした。
「お願いよ。私を陸に戻してちょうだい。貴方が誰だか知らないわ。おねがい、あの神殿に連れて行かないで。私を父のもとに帰して」
リリィがむせび泣きながら頼む。
人魚は容赦しなかった。女たちがやってきて、リリィの両腕をつかみ、無理やりティアラをかぶせる。リリィは叫び、抵抗した。だが、海の中では声も通らなければ、涙も流れない。
リリィは女の手を噛んで、突き飛ばした。隙をついて逃げ出す。王がもりを持った護衛たちに命令する声がきこえた。泳ぎ、泳ぎ、泳ぎ、ひたすら逃げる。日の光を探した。わずかな光の筋をたよりに、上へ上へと上がってゆく。
追手に追われながらも、意識がとんでしまいそうだった。体が疲弊しきっていて、泳げそうにない。眠ってしまいたかった。もうすぐで、捕まってしまいそうだ……
波の音が聴こえた。寄せては返す、太古から変わらない音。薄目を開ける。砂浜が見えた。胸に触れる砂が暖かい。だけど、髪の毛はぐっしょりと濡れていて、体がものすごく重たかった。
「リリィ、もう大丈夫だ」
さっきの少年だ。黒い髪が濡れて色っぽい。小瓶を持って、手際よく薬を調合している。ひょっとしたら、溺れるリリィを海から救い出してくれたのだろうか。
「あなたは誰なの?」
リリィが身を起こしてたずねた。
その時、リリィは自分が一糸まとわぬ状態なのに気づいた。なんてことだろう、脚もない。きれいな人魚のうろこがあるだけ。少年はリリィの気持ちに気づくと、チュニックを脱いで、繊細な優しさで服を着せてくれた。
「僕はトゥーリーンだ。心配しないで。もう安全だから。さあ、この薬をのんで。のまないと、陸では息がつまって死んでしまう」
リリィはトゥーリーンに促されるままに、小瓶の中の液体をのんだ。透明でなんの味もしない。だが効果はすぐに出た。呼吸が一気に楽になったのだ。
「あれは、海の中は、本当だったの?あなたが私を救ってくれたの?どうして私の名前を知ってるの、どうして〈崖の家〉に現れたの?」
少年に矢継ぎ早に質問する。
安堵と混乱で今にも泣き出してしまいそうだった。それに、陸で呼吸できるようになっても、人魚の姿は変わっていないのだ。
「今は答えられない。僕はもうすぐここから去らなければならないんだ。城の人間に姿を見られてはいけないからね。今は、海の中で起こったことは忘れるんだ。僕以外誰にも話してはいけない。約束できるかい?」
トゥーリーンが穏やかな声できく。
「いやよ、私をこんなかっこうで置き去りにしないで。誰にも話さないって約束するから、行かないで。私のそばから離れないで」
リリィがトゥーリーンにしがみついて言った。
どうしようもなく心細かった。裸で、嵐にもまれて、ひとりぼっちで。体は傷だらけだ。今彼を離したら、二度と会えないのではないか。永遠に孤独なまま終わるのではないか。
「リリィ、君はひとりぼっちなんかじゃない。これから、人間の姿に戻してあげるから、僕を信じるんだ」
トゥーリーンがいう。
「信じるわ」
リリィがためらいつつもそう答えた。
「目を閉じて」
リリィが目を閉じる。トゥーリーンが近づいてくるのがわかった。
「トゥーリーン、また会えるわよね」
「会えるよ」
少年が言った。
トゥーリーンの唇がリリィの唇に触れる。体がじんわりとあたたかくなるのがわかった。リリィは途端にめまいがして、深い眠りの底へとおちていった。




