あらし
その頃、メアリーはヘレナの私室で婚礼のガウンを選んでいた。仕立て屋とお針子たちがメアリーの周りで忙しく立ち働いている。メアリーは華やかなガウンを見ても、浮かない顔をしていた。皇妃は水煙草を吸いながら、満足げな表情をしている。
皇妃の私室はきついお香の匂いがした。一日中お香を焚いているのだ。衣装部屋の中央には天井まで高さのある鏡台が据え付けられいる。円柱形でどの方角からでも鏡を見ることができた。十四枚の鏡を合わせて作られたものである。天井と鏡の接する部分には無数個の真珠と貝殻があしらわれていた。
「どうしたの、不機嫌な顔をして。気にいるのがない?」
ヘレナが水煙草のパイプを侍女に持たせて言う。
「いいえ、違うんです。ガウンもティアラも、仕立て屋もとっても素敵。女性の仕立て屋なんて初めて見たけれど、腕は確かなんですね」
メアリーがそう言って表情を取り繕った。
「メアリー、仕立て屋を変えてもいいのよ。私のお気に入りの仕立て屋だとしてもね。遠慮せずに言ってちょうだい」
ヘレナが猫なで声で言う。
「お妃さま、どうか私を変に思わないでください。婚礼には純白のガウンではなく、真紅のガウンでのぞみたいのです」
メアリーが意を決して言った。胸が苦しくなる。
ガウンの色などどうでもよかった。婚姻を取りやめたかったのだ。
「あら、メアリー、そんなのいけないわ。赤なんて縁起が悪い。ガウンは純白じゃなくたたっていいわ。でも赤や黒はね……」
「じゃあ、白と黄金色のガウンを……。私の部屋にあるんです。うんと裾を長くしたら婚礼衣装になるでしょう?」
メアリーがジュリア・テディアの金色のドレスを思い出して言った。
「いい考えね。あなたの部屋に取りに行かせましょう」
皇妃の言葉にたちまちお針子の娘の一人がドレスを取りに部屋を出た。
手持ち無沙汰になり、窓の外を見つめる。どんよりと黒い雲が空に覆いかぶさっていた。今夜は嵐になるかもしれない。
さて、アレックスはその日、〈崖の家〉に行かないことになっていた。父とテリー公との会議で予定が埋まっていたのだ。このごく内輪の会議で、休戦状態にあるエイダとどのように和平を締結するか決めるのである。
皇子は友人と「妹たち」のために、ここ数日、劇団を〈崖の家〉に招待していた。
まず最初にジョンが大広間で劇の上演を楽しもうと言った。何か気晴らしが必要だったのだ。リリィもレイチェルも喜んで賛成した。
劇はありふれた恋愛喜劇だった。戦争と自由恋愛を謳った、進歩的だが安っぽい話である。リリィは劇を気に入った。何よりも、観客がたった三人しかいないのに、いつもと変わらぬ質で上演してくれたのだ。
戦争に勝利し、恋人たちの婚礼もあげ、大団円を迎えようという時、鐘がなった。リリィは胸のざわめきを覚えた。館の鐘は昼食を知らせる三回の音しか出さない。だが鐘は七度なり、昼時はとうに過ぎていた。
「なんてこと」リリィは不可解な鐘に、思わずジョンの耳元で囁いた。「だれが鳴らしたのか見てくるわ。きっと子どもの悪戯ね」
皇女が立ち上がったのを見て、レイチェルもついていこうとする。だが、ジョンが「リリィは着替えに行くのだ」と説明して止めさせた。なぜジョンがこんな嘘をついたのかわからない。おそらく、レイチェルの同行を過保護で無意味なものと思っていたのだろう。それとも単に運命のいたずらだったのかもしれない。
リリィはドレスで急げる限り急いで中庭に出た。外は今朝には予想もしなかったほどの豪雨である。もちろん引き返さなかった。鐘の音の正体を突き止めるまでは……。
迷路のような中庭を抜け、鐘楼を上がる。はやる心臓。雨を吸ったドレスは鎧のように重い。手はかじかんで氷のごとく冷たかった。
果たして、鐘の下に人影はあった。背丈はリリィよりも高く、こちらに背を向けて立っている。少年にしては背が高い。
リリィは階段の最後の一段をのぼり、少年の背後に立った。少年がゆっくりとこちらを振り向く。リリィは一目見て、なぜか少年が砂漠から来たのではないかと思った。
小麦色の肌に、麻色の髪。唇は乾燥していて白い。リリィと同じくらいの年齢なのだろう。だが、王族や貴族の息子というわけでない。簡素な白色の服を着ていた。
リリィは口がきけなくなって、ただ、少年の荒々しい黒い瞳を見つめていた。呪文をかけられたみたいに。少年は野生動物のようにしなやかで、美しいのだ。目を離したら、どこまでも遠くに行って、永遠に会えないような気がする。
「人魚が君を拐いにやってくる。嵐にまぎれて、猛り狂う海の力を借りて。崖の上に逃げるんだ。海にさらわれたら、二度と元には戻れない」
少年が言った。
リリィには少年の言ってることか何一つ理解できなかった。呆然と、神秘的な少年を見つめている。
背後からリリィの名前を呼ぶ声がきこえた。ハッとして階段の方を振り向く。ジョンだった。激しい雷雨に心配して見に来てくれたのだ。どんどんジョンの足音が近づいてくる。リリィは慌てて少年の方をみた。少年はリリィを待たずに、鐘楼の上から飛び降りた。中庭を見ると、全てが水浸しになっていた。館でさえ、押し流されそうな勢いである。
「ああ、ジョン、大変よ。私のロトが!ああ、助けて!」
リリィがジョンの胸に駆け寄って叫んだ。
ロトは今頃、檻の中で水にのまれているはずだ。助けてくれるはずのルースも来ない。冷たい水の中……。混乱と恐怖に溺れているのに、母親だってそばにいない。
リリィは可愛いロトのことを思うと気が狂いそうだった。
「リリィ、ロトのところにはいけない。もう遅いんだ。この鐘楼の中で持ちこたえないと。一歩でも外に出れば、俺も君も海の藻屑となって消えるんだぞ」
ジョンが厳しい声で言う。
リリィは狂気に駆られて、ジョンの腕を振りほどき、鐘楼から水の中へ、洪水の中へ飛び込んだ……




