舞台の上の婚約
メアリーは婚約が意に反したものだとしても、不幸を演じることなどなかった。むしろ幸福そうに振る舞ったほどだ。ヘレナでさえ、メアリーの婚約に反対しない。マティアスとの婚姻は両家にとって望んでいた以上のものである。宮中の令嬢たちはメアリーを羨望の眼差しで見た。それで、メアリーはごく近しい者たちにさえ、マティアスとの婚約に満足しているふりをした。
「このお猿ちゃんはね、キーチャっていう名前を付けたの。なかなか可愛いでしょ?未来の旦那さまが気に入ってくれればいいけれど。キーチャ、あなたと離れ離れになるなんて、すっごく悲しいわ」
リリィがメアリーの私室に入ると、小猿が寝台のカーテンにじゃれついていた。メアリーはこの新しいペットを、ことのほか、きちんと世話してやっているらしい。部屋に入ってすぐに小猿が女主人に甘やかされているのがわかった。
メアリーは皇女の私室に来ようとしない。リリィに結婚への恐怖やアビゲイルの秘密を見抜かれたくなかったのだ。皇女にはどちらも知れていることだった。
「マティアスがキーチャとあなたを引き離すなんて。厳しい夫になると思ってるのね。あのマティアスがよ」
リリィがからかう。
「わかんないわよ。陰気なくらい厳しいかもしれないじゃない」
メアリーが小猿を自分の肩に載せてやった。リリィがメアリーに小包を差し出す。
「何よ、嫁入り用のハンカチかしら」
メアリーがすぐニコニコして言った。
「あら、違うわ。正直いうとね、あなたとマティアスの結婚に賛成できないの。私の嫁入りについてきてくれる約束だったでしょ」
メアリーは無言だ。小包を開けている。中から赤いリボンが出てきた。真ん中にハート型の白い石が下がっている。
「キーチャの首につけたらかわいいでしょ」
リリィがキーチャの頭を撫でてやった。人懐っこいらしい。トロンとした目でこちらを見上げてきた。
「ええ、キーチャも喜ぶわ。この子、女の子なの」メアリーがそう言って、リボンを猿の首に結ぶ。「マティアスとの婚約を祝福してくれないのはあなただけよ。ママも皇妃さまも、よく知らないあなたの侍女までも、祝福してくれる」
「マティアスはあなたを本当に愛してるわ」
リリィは慎重に言葉を選んだ。メアリーは今、一人で崖っぷちにいる。風が吹けば、飛ばされてしまいそうだ。
「リリィ、そんな目で私を見ないで。まるで私が不幸のどん底にいるみたい。私怖いのよ。結婚なんて何も知らない。それなのに、意思に反して決まってしまった。こんなつもりじゃなかったわ。恥ずべき秘密があるの。あなたには言えない!マティアスがどれだけ素晴らしい人か知ってるのよ。でも、彼と結婚なんて考えてみたこともなかった」
メアリーは支離滅裂になっていた。
マティアスはメアリーとの婚約を素直に喜べなかった。婚約者のアレックスへの恋心は消えてない。いつかアレックスを忘れて、マティアスの想いに応えてくれる確信もなかった。さらに悪いことに、メアリーはマティアスと話すのを避けている。ジョンは厄介で、メアリーの拒絶に対しても、火に油を注ぐだけだ。彼とて、メアリーが婚姻と束縛を望んでいないのを知っていた。弟を世界一幸運な男と呼び、メアリーに聞こえよがしに、初夜が楽しみで仕方ないだろう、と言う。
「ジョンったら、からかってばかりね。あなたこそ婚約者のウージェニーのこと、話そうとしないくせに」
リリィがマティアスの神経質な表情を見て言った。
ジョンは驚いた目でリリィを見た。まさか、あの「純粋無垢な皇女」に図星をつかれるとは。ウージェニーのことは、特にメアリーには隠していたつもりだった。祖父の選んだ婚約者など、つまらぬ義務の権化でしかない。
マティアスはメアリーが礼拝堂に一人でいるのを見つけた。ひざまずいて祈ってるわけじゃない。ただ、前を見つめて座っていた。
「邪魔したかい?」
マティアスがメアリーが振り向くのを待って言った。
メアリーは首を横に振った。
「小さい頃、礼拝堂も司教様の説教も大っ嫌いだった。わかるでしょ、傲慢なのよ」
「誇り高い人だ」
マティアスがメアリーに手を差し出す。メアリーがその手を取って、立ち上がった。
「君とはずっと話していない」
マティアスが乾いた声で言った。
二人は中庭を歩いている。マティアスは白いゼラニウムを見つめていた。真っ白で、美しい。
「周りの人たちが話を進めてしまったから。でも、みんなが私たちの婚約に喜んでるわ。皇帝も皇妃も、ママも。リリィは例外。嫁ぎ先について行く約束だったの」
メアリーが無邪気に笑う。
「みんなが賛成する婚約か。幸運の女神まで祝福してくれそうだ」
「あなたは?」
メアリーはそう言って、マティアスから目を逸らした。
「僕は、幸福で、同時に不幸なんだ。君を愛してきた。この気持ちに嘘はない。君が僕を愛してないことを知っている」
メアリーの表情が翳りを帯びる。困ったような、絶望したような。
「どうしてそんなこと思うの?私があなた以外の誰を愛すというの?」
「君が愛してるのはアレックスだ。すまない。でもわかるんだ。君はどうしようもないくらいの恋に落ちている」
マティアスの口調は悲しいほど、冷静だった。アレックスの名を聞いた途端、メアリーの黒い瞳が激しく燃え上がる。
「アレックスはね、私たちの婚約を聞いても、『幸福で不幸』になんかにならなかったわ。他のみんなと同じ、祝福しただけ。私の想いに気づいてもいないの。むしろ呪わしく思ってるくらいよ。だから、彼は私たちの婚姻関係には無関係も同じだわ。あなたも私もこの平安に喜ばなくちゃ。マティアス、結局ね、私はこの杯を飲み干すつもりよ。あなただって、飲み干すはず。何も、私への愛とか、恋敵への邪な気持ちからじゃない。あなたが高貴な生まれで、何が義務かを心得ているからよ。この婚姻で得られるのは何か、あなたなら知ってるはず。秩序と繁栄よ。両家にも、イリヤにも貢献するの。それに、この結婚はあなたの言うように不幸なものなんかじゃない。あなたは横暴な夫になんかならない。私もあなたになら、誠実でいられるような気がするわ」
「その通りだね」
マティアスはほとんど上の空だった。彼の瞳には、美しく、情熱的で、不幸なメアリーが映っていただけだ。




